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黒猫フィガロと、願いの図書館 〜涙と魔法に満ちた旅の記録〜  作者: たかつど


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13 黒猫フィガロ (前編)

 月の光が眩し夜、図書館の扉が開かれました。 

 そして、小さな黒猫の運命も、そっと開かれた。



 その夜、月はまるで、何かを探しているように、じっと港町を照らしていた。


 厚い雲の切れ間から覗く満月は、冷たくも美しい光を投げかけている。


 風はぬるく、海の匂いを運んでくる。


 遠くから届く波の音が、まるで耳の奥に直接流れ込むように深く響いていた。


 それは、この世界のあらゆる記憶が混じり合った、古くて新しい子守唄のようだった。


 港町の、誰もが通り過ぎてしまうような裏路地。


 錆びたトタン板と湿ったゴミの匂いが充満するその場所に、古びた段ボール箱が一つ、寂しく転がっていた。


 そのなかで、小さな黒猫が震えていた。


 生まれたばかりの仔猫たち。


 しかし、彼らは皆、夜の冷たさに耐えきれず、すでに冷たくなっていた。


 小さな命は、たった一匹だけ残されていた。


 黒猫の名は、まだなかった。


 雨がしとしと降っていた。


 空には雲がなかったのに、不思議な雨だった。


 それは、星の瞬きが、形を変えて地上に降り注いでいるかのようにも見えた。


 ゴミのにおい、車の音、遠くで響く船の汽笛。


 そのすべてが、まだ小さな黒猫には恐ろしく、彼は震える体をさらに丸め、必死に耳をふさいでいた。


 世界は、あまりにも広大で、あまりにも冷酷だった。


 そのときだった。


 月の光が一筋、地上にまっすぐ降りてきた。


 まるで、天から差す一条の階段のように、その光は裏路地のゴミと水たまりを照らし出した。


 そして、光の中から、一匹の猫がふわりと姿を現した。


 その足音は、水たまり一つ立てないほど静かで、闇の中に溶け込むようだった。


 それは白く、ふわふわとした毛並みで、月明かりを浴びて神々しく輝いていた。


 立派なひげをたくわえ、その瞳は穏やかで、しかし、深い知恵を宿しているようだった。


「おや……まだ息があるのかい。よくがんばったね」


 声は深く、しずかで、やさしかった。


 その声は、黒猫の凍えた心に、温かい雫のように染み渡った。


 生まれて初めて聞く、自分に向けられた優しい言葉だった。


「私の名前はモナート。『夜の図書館』の館長をしている。きみ、名前は?」


 黒猫は、こくりとも動かず、ただじっとその白猫を見つめた。


 警戒心と、しかしそれを上回る好奇心と、そして、かすかな希望がその小さな瞳に宿っていた。


 モナートは、黒猫の瞳に、かすかな、しかし確かな光を見つけた。


 それは、生きることを諦めない、強い意志の光だった。


「名前がないのなら、これからつけよう。『フィガロ』。フィガロ。気に入るといいけど」


 フィガロ――その音は、まだ知らない未来への扉のようだった。


 モナートは、凍える黒猫を優しく抱き上げた。


 その温かい毛並みと、体に伝わる鼓動が、フィガロにとって、生まれて初めての安らぎだった。


 月光の階段を昇るように、二匹は闇夜へと消えていった。


 港町の裏路地には、月の雫が、静かにきらめいていた。


 モナートに抱えられたフィガロは、月の光の階段を昇り、静かな波の音を越え、光の粒子が舞い踊る「記憶の海」の底にあるという『夜の図書館』に連れて行かれた。


 そこは、フィガロが今まで知っていた世界とは、まるで異なる場所だった。


 図書館は不思議な場所だった。


 空には星がないのに、天井から無数の光が降り注ぎ、地面には銀色の水面が揺れていた。


 時間は時計ではなく、“記憶の香り”で進んでいた。


 それは、時折、甘く、時に苦く、そして、どこか懐かしい香りを放ち、過去と現在が曖昧に混じり合う場所だった。


 壁一面に並ぶのは、本ではなく、“願い”だった。


 誰にも叶えられなかった小さな夢。


 公園で遊びたかった幼子の願い。


 声に出されなかったありがとう。


 喧嘩別れした友人に伝えたかった感謝の言葉。


 見送り損ねたさよなら。


 愛する人の旅立ちを、もっと近くで見届けたかった後悔。


 それらすべてが、光のページのように記され、本という姿になって静かに眠っていた。


 フィガロは、モナートに温かいミルクと文字を教えてもらいながら、毎日図書館で過ごした。


 棚を巡り、埃を被った本の背をそっと撫で、ページの間に挟まれた願いのしおりを整える。


 モナートは、フィガロに「言葉を超える言葉」の読み方を教えてくれた。


 それは、物の声、記憶、そしてそこに込められた感情を聴く力だった。


 ある日、フィガロは一冊の古びた石の形をした本を見つけた。


 モナートがその本に触れると、フィガロの心に、小さな声が響いた。


「もっと、もっと遠くへ行きたかった…」。


 それは、「夢を見た石の話」だった。


 長い間、庭の片隅で、ただ空を見上げ、遥か遠い山々を夢見ていた石の物語。


 しかし、その石は一度もその場所を離れることはなかった。


 モナートは静かに言った。


「この石の願いは、叶えられなかったように見えるね。けれど、この石は、ずっと夢を見続けていた。その夢が、やがて誰かの旅する心を動かすかもしれない」


 また別の日には、インクの染みがついた、使い古されたペンの形をした本に触れた。


「叶えられなかったペンの話」だった。


 そのペンは、美しい物語を書きたいと願いながらも、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。


 そのペンから聞こえてくるのは、未完の物語への後悔と、しかし、創作への純粋な情熱だった。


 モナートは、目を細めて静かにこう言った。


「願いは消えるものじゃない。

 形を変えて、だれかの中でつづくんだよ。

 このペンの願いは、いつか、別の誰かの手によって、新しい物語として形になるかもしれない。

 そして、その時、このペンは、本当の意味でその願いを叶えることができるだろう」


 フィガロは、モナートからたくさんのことを学んだ。


 物の声に耳を傾け、記憶の奥にある願いを感じ取る力。


 そして、喪失の悲しみの中にも、必ず希望の光があることを。


 モナートはフィガロを大切に育て、フィガロもまた、フサフサのひげを持つ老館長を心から慕うようになった。


 静かで穏やかな日々は、フィガロの心に、忘れかけていた温かさを満たしていった。

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