12 ベビーチェア (後編)
主様の願いを見つけたベビーチェアは、フィガロと共に「夜の図書館」を後にした。
来た時と同じ、月の道が、二人の帰路を照らしていた。
しかし、記憶の海に触れた代償は、少しずつベビーチェアの身に現れていた。
体が、光の粒となって、はらはらと消え始めている。
それは、まるで、夜明け前の朝露のように、触れると形を失っていくようだった。
座面の布地は透け始め、木材のひび割れが、光の筋となって現れる。
ベビーチェアは、自分の体が記憶の海に入った時、薄れていくことに気づいていた。
しかし、恐れはなかった。
むしろ、主様の願いを見つけた今、ベビーチェアの心は、不思議なほど満たされていた。
寂しさも、悲しみも、全てが洗い流され、残るのは、温かい感謝の気持ちと、そして、深い安堵感だけだった。
ゆっくりと、スクラップの山へと帰っていった。
月明かりは、スクラップの山を銀色に染め、ベビーチェアがかつて座っていた頂点に、やさしく降り注いでいた。
朝が来た。
朝日は、スクラップ置き場を明るく照らし出した。
遠くから、重機の轟音が鳴り響き始めた。ガシャン、ガシャンと、金属の山が大きく揺れている。
今日から、このスクラップ置き場の整理が始まるのだ。
ベビーチェアは、ついにスクラッププレス機にかけられた。
巨大なアームが、ゆっくりと、しかし確実にベビーチェアを掴み上げる。
金属の歯が近づく。かつて主様が座った座面が、歪んでいく。
けれどその瞬間、ベビーチェアの身体はふわりと、光の粒となって舞い上がった。
それは、悲しみではなかった。
再会のあとに訪れた、静かな旅立ち。
痛みも、恐れも、もうそこにはなかった。
ただ、主様からの温かいメッセージと、満ち足りた愛だけが、光となって輝いている。
光は風に乗り、どこか遠くへと運ばれていった。
まるで、主様が初めて歩き出した日、風が運んだ歓声のように、軽やかに舞い上がっていく。
フィガロは、それを見上げながら、その銀色の瞳を細めた。
そして朝日に溶けるように姿を消した。
彼の姿は、もはやどこにも見当たらない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
残されたのは、穏やかな潮騒と、まばゆい朝日の光だけだった。
エピローグ
あのスクラッププレス機にかけられたベビーチェアの金属片は、ほどなく別の工場で新しい姿へと生まれ変わった。
それは、この港町のどこかで、誰かの役に立つかもしれない。
新しい椅子かもしれない。
もしかすると、小さな自転車か、誰かの楽器かもしれない。
あるいは、この港町を走る、船の一部になったかもしれない。
それがまた誰かに愛され、ふたたび物語を刻んでいく。




