11 ベビーチェア (中編)
月の道は、水面に映る光の筋だった。
一歩進むごとに、足元から小さな光の粒がぱちぱちと弾ける。
それは、遠い記憶が砕け散る音のようでもあり、新しい物語が生まれる予兆のようでもあった。
波の音が、遠くから子守唄のように響いてくる。
ベビーチェアは、軋む音を立てながら、ひたすらフィガロの後に続いて歩いた。
フィガロは何も言わず、ただひたすら前を歩き続ける。
その黒い背中は、闇に溶け込むほど静かで、しかし不思議なほど頼もしかった。
やがて、光の道は途切れ、二人は暗く、底の見えない海の中へと吸い込まれていった。
そこは、水で満たされているのに、息苦しさを感じさせない奇妙な場所だった。
頭上を見上げれば、月明かりが水面に揺れ、きらきらと輝く無数の星のように見えた。
「ここは、“記憶の海”だ」
フィガロの声が、静かに響いた。
声には波の音が混ざり、どこか神秘的だった。
「様々な記憶が、ここに漂っている。
良い記憶も、悪い記憶も。
そして、忘れ去られた願いも」
ベビーチェアの周囲を、淡い光の粒がふわふわと漂っていた。
それは、まるで意識を持った生き物のように、ベビーチェアの座面に触れては、すっと消えていく。
その度に、ベビーチェアの内部に、かすかな、けれど懐かしい感情が蘇る気がした。
それは、もう二度と触れることのできない、主様との日々の記憶の断片だった。
旅の道中、ベビーチェアは波音に導かれながら、たくさんの記憶を見た。
壊れかけた人形が、水底で静かに横たわっていた。
かつては子供に抱きしめられ、愛されただろうその姿は、今や手足もまばらで、片方の目だけが虚空を見つめている。
けれど、その人形の周囲には、幼い子供の笑い声がこだましているように感じられた。失われた友情の記憶。
沈黙するオルゴールが、光の粒を放ちながらゆっくりと回転していた。
ネジは錆びつき、音を奏でることはできない。
しかし、そのオルゴールからは、かつて演奏された甘いメロディーが、微かに響いてくるようだった。
それは、報われなかった初恋の記憶。
涙を乾かしたままのタオルが、水流に揺られていた。
その色褪せた布地からは、深い悲しみと、しかし同時に、誰かを想う温かい愛情が感じられた。
それは、喪失の痛みと、それを乗り越えようとした強さの記憶。
みんな、誰かの愛を知っていた。
そして、その愛の記憶が、たとえどんなに形を変えても、この記憶の海に確かに存在していることを、ベビーチェアは理解した。
海の中をさらに深く潜っていくと、水の圧力が、少しずつベビーチェアの体を重く感じさせた。
あたりは、ますます暗くなり、遠くで光る魚たちの輝きだけが、唯一の道標だった。
水底には、奇妙な形をした岩の門が見えてきた。
巨大な石でできたその門は、苔と藻に覆われ、まるで太古の遺跡のようだった。
「あれが、『夜の図書館』だ」
フィガロの声が、暗闇の中で響いた。
ベビーチェアの座面が、期待でじんわりと温かくなった。
主様の願いが、そこにある。
そう思うと、錆びついた体の中から、失いかけていた力が湧き上がってくるようだった。
門をくぐると、そこは、水の中とは思えない不思議な空間だった。水泡がゆっくりと舞い上がり、天井からは、淡い光が降り注いでいる。
その光に照らされて、無限に続くかのように、背の高い本棚がそびえ立っていた。
どの本棚にも、ぎっしりと本が詰まっている。
本の背表紙は、どれも真っ白で、タイトルは書かれていない。
しかし、その一つ一つから、微かな光が放たれており、それぞれ異なる色の光を帯びていた。
「この図書館に並べられているのは、消えかけた願いだ」
フィガロが言った。
「人々の心から忘れ去られそうになっている願い、あるいは、叶えられることなく終わってしまった願い。そして、この世を去った者たちが、最後に抱いた願い…」
フィガロは、本棚の間を迷いなく進んでいく。
ベビーチェアは、ぎこぎこと音を立てながら、その後に続いた。
本の山は、どこまでも続き、その光の海に圧倒されそうだった。
どの本も、誰かの願いなのだ。
そのことを思うと、ベビーチェアの座面は、一層温かくなった。
ベビーチェアは、一冊一冊、丁寧に確かめていった。
金属の脚で、そっと本の背に触れる。
病気の家族の回復を願う声、報われない恋を成就させたいと願う切ない想い、遠い故郷に帰りたいという郷愁、そして、誰かの幸せをただひたすら願う、無私の祈り。
あらゆる願いが、そこに静かに息づいていた。
そして、ある小さな青い布張りの本に触れたとき、座面の奥がじんわりと、熱くなるような温かさに包まれた。
それは、まるで、主様の小さな手が、もう一度自分の座面に触れたかのような感覚だった。
その本から放たれる光は、他のどの本よりも、純粋で、温かい輝きを放っていた。
ベビーチェアは、震える脚で、その本をそっと持ち上げた。
表紙には、鉛筆で描かれた、どこか拙いベビーチェアの絵が描かれていた。
背もたれの形や、剥がれた座面の様子まで、正確に。
そして、その絵の下には、まだ覚えたばかりのような、可愛らしい文字で、こう記されていた。
「ありがとう。小さな僕を、いつも優しく見守ってくれて。」
ベビーチェアは、何も言えなかった。
ただただ、座面の端から、一粒の光の雫が、涙のようにこぼれ落ちた。
自分がずっと感じていたこと、主様の成長を見守る喜びが、ちゃんと届いていたのだ。
そして、主様もまた、ベビーチェアに感謝してくれていた。
その事実が、ベビーチェアの朽ちかけた体に、新しい生命力を吹き込むようだった。
長年の孤独と、忘れられた悲しみが、一瞬にして洗い流されていく。
ベビーチェアは、その本をそっと自分の座面に大事に置いた。
まるで、主様が座ってくれたかのように。
その重みは、ベビーチェアの心を、温かい光で満たしていった。
フィガロは、ベビーチェアの隣に静かに立っていた。
彼の銀色の瞳は、何も言わなかった。
しかし、そのまなざしは、どこか優しさに満ちていた。
黒猫登場の仕方や記憶の海の行きと帰りはワザとリリィの時と同じ文章にしています。
同じ所に行ってい感じがでるように。




