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黒猫フィガロと、願いの図書館 〜涙と魔法に満ちた旅の記録〜  作者: たかつど


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10 ベビーチェア (前編)

 紅葉のような温かい手が忘れられなかった。




 港町の片隅に、忘れられたようなスクラップ置き場がある。


 錆びた鉄骨や木材の残骸、古びた機械部品の山が、まるで巨大な怪物の骨のように積み重なっていた。


 その頂点に、ひとつのボロボロのベビーチェアが無造作に置かれていた。


 風雨にさらされ、座面は剥がれ、脚は歪み、年月の滲んだ深い汚れに覆われている。


 それは、もはや「ベビーチェア」と呼ぶのも憚られるほど、朽ち果てた姿だった。


 けれど、そのベビーチェアは覚えていた。


 痛みも、風の冷たさも、そして、あの温かい記憶も。


 自分が買われた日のこと。


 店先のショーウィンドウに飾られていた時、まだ真新しく、ピカピカに磨かれていた。


 誰かが自分に触れるたび、新しい持ち主への期待に胸を躍らせた。


 そして、小さな少女の手を引いた若い夫婦が、自分を指差し、にこやかに微笑んだ。


 段ボールの箱から出された時、主様はまだ首もすわらない赤ん坊だった。


 夫婦は嬉しそうに自分を組み立て、その小さな体をそっと座面に乗せた。


 主様は、柔らかな産毛の生えた頭を背もたれに預け、初めての世界を、きょとんとした瞳で見上げていた。


 初めて背もたれにもたれながら、支えなしで座ったあの日、親御様は嬉しそうに拍手していた。


 主様は、満面の笑みで、足元でぶら下がるおもちゃを掴もうと、小さな手を懸命に伸ばしていた。


 その姿は、ベビーチェアにとって何よりも愛おしかった。


 主様は、成長するにつれて、ベビーチェアの背もたれをよく噛んだ。


 歯が生え始めた頃の痒みと、新しい感覚への好奇心。


 その小さな歯形は、ベビーチェアの歴史に刻まれた、最初の愛情の証だった。


 食事の時間になれば、座面にご飯をこぼし、ジュースをこぼし、クレヨンでいたずら描きもした。


 その度に、親御様が「もう!」と言いながらも、優しく拭いてくれた。


 ハイハイしてぶつかってきたり、飛び跳ねて脚をきしませたり。


 ベビーチェアは、その一つ一つを、主様の成長の音として、静かに受け止めていた。


 傷つくことよりも、主様の喜びが、ベビーチェアの存在意義だった。


 そしてある日、ベビーチェアにつかまり、ふらりと立ち上がった。


 その日、主様は初めて、自分の足で大地を踏みしめた。


 親御様は歓声を上げ、主様も、誇らしげに、しかし不安定な足取りで一歩を踏み出した。


 その感動的な瞬間を、ベビーチェアは、その揺れる体全体で感じていた。


 あの日は本当に、特別だった。


 そこから主様は、歩き、走り、スプーンを使えるようになり、言葉を覚え、歌を歌い、そして、いつの間にか背が高くなり、ベビーチェアよりもずっと大きくなっていた。


 それを見守るのは、ベビーチェアにとって何よりの喜びだった。


 主様の成長が、ベビーチェアの存在意義そのものだった。


 けれどその分、ベビーチェアの出番は減っていった。


 主様は、いつしか自分よりもずっと大きなチェアに座るようになり、食卓も、学習机も、新しいチェアが与えられた。


 ベビーチェアは、部屋の隅に追いやられ、埃をかぶるようになった。


 それでも、主様がたまに、いたずらっぽく座面に腰を下ろし、小さくなった体で足をぶらぶらさせる時があった。


 その温かい重みが、ベビーチェアにとって何よりの喜びだった。


 いつしか主様は、大人になり、そしてベビーチェアは不要になった。


 古い家具として、このスクラップ置き場に運ばれてきたのだ。


 それでも、ベビーチェアは捨てられてからも、ずっと主様のことを考えていた。


 主様がどこで、何をしているのか、幸せに暮らしているのか。


 その思いだけが、ベビーチェアの朽ちかけた体を支える、唯一の光だった。


 今日は、月がとてもよく見える夜だった。


 スクラップの山のいちばん上で、ベビーチェアはじっと空を見上げていた。


 鉛色の海は、穏やかな波音を立て、その音が、今日はとくにベビーチェアの心に沁みた。


 それは、遠い昔、主様が座面で遊んでいた時、海の音を真似て歌っていた子守唄のような、懐かしい響きだった。


 そのとき、ひらりと影が落ちた。


 驚くほど静かな足取りで、一匹の黒猫が現れた。


 月明かりを浴びて、その目は、まるで銀の星のように輝いている。


 名をフィガロ。


 あの不思議な黒猫だった。


 フィガロは、ベビーチェアの前に立つと、真っ直ぐにベビーチェアを見上げた。


「きみの耳に聴こえるのは、記憶の海からの呼び声だ」


 猫は、静かに、しかしはっきりと、ベビーチェアに語りかけた。


 その声は、潮風のように、ベビーチェアの軋む音にも負けずに響いた。


「そこには、まだ叶えられていない願いが眠っている。

 あるいは、置き去りにされた想いや、忘れ去られた愛情の形。」


 その言葉と同時に、月から柔らかな光が差し込んだ。


 スクラップの山にひときわ強く当たった光が、ボロボロのベビーチェアを包みこむ。剥がれた座面の布地が、かすかに光を帯び、曲がった脚の錆が、一瞬、虹色に輝いたように見えた。


 ガタン。


 長年微動だにしなかったベビーチェアの脚が、まるで生き物のように、ふるえた。


 ゆっくりと、ぎこちなく、しかし確かに、ベビーチェアはひとりでに動けるようになっていた。


 光が、ベビーチェアの内部を巡り、朽ちかけた木材の繊維の奥深くに、微かな生命力を吹き込んでいくようだった。


 驚きと、喜びと、そして胸の奥がきゅうっとなるような、切ない想いがこみ上げた。


 再び、主様に会えるかもしれない。


 あの温かい記憶が、現実になるかもしれない。


「行こうか、夜の図書館へ」


 フィガロが、そう促した。


 その言葉に導かれるように、ベビーチェアは、ぎこちなくも一歩を踏み出した。


 カタン、カタンと、軋む音が闇夜に響く。


 スクラップの山から降り、月が作る光の道を、フィガロの後に続いて進んでいく。


 それは、遠い昔、主様がよちよち歩きでベビーチェアの周りを回っていた、あの日の足音にも似ていた。

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