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1 老犬リリィ (前編)

 大切なものを失くしたとき、あなたはどこを探しますか?


  彼女が探しているのは、もう二度と会えない、大切な少女との日々だった。




 海沿いの町は、いつだって静かだった。


 古い木造の家々が肩を寄せ合うように並び、潮風が錆びた風見鶏を軋ませる。


 そんな町の、誰にも見向きもされない小さな公園に、古びたベンチが一つ、ぽつねんと置かれていた。


 そこに毎晩、一匹の老いたヨークシャーテリアがやってくる。


 名前はリリィ。


 リリィは、もうずいぶん前から、そのベンチに座っていた。


 座るといっても、小さな体を丸めて、ただじっと海を眺めるだけ。


 時折、古くなった耳の奥で、ざわめくような波音が聴こえる。


 それは、ただの潮騒ではない。


 リリィだけが知っている、もっと遠く、もっと深い場所からの響きだった。


 少女がいなくなってから、リリィの毎日は、色褪せたセピア色の写真のようだった。


 あの頃は、世界はもっと鮮やかで、あらゆる音が笑い声で満ちていた。


 少女は、リリィを命よりも大切にしていた。


 それは、ただの愛玩動物に対する愛情とは違った。


 もっと深く、もっと純粋で、ひたむきな想いだった。


 リリィが少女の家に来た日のことは、今でも覚えている。


 小さな、手のひらに乗るほどの仔犬だったリリィを、少女は壊れ物に触れるように抱きしめた。


 その日から、リリィの隣にはいつも少女がいた。


 夜になれば、少女は必ずリリィを自分のベッドに招き入れた。


 ふわふわの毛布の中で、リリィは少女の温かい体温に包まれて眠った。


 夜中に少女が寝返りを打つたび、そっとリリィを抱き寄せ直す。


 その小さな仕草一つ一つに、リリィは無償の愛を感じていた。


 出かける時も、もちろん一緒だった。


 公園の芝生を駆け回るリリィを、少女は目を細めて見守った。


 カフェのテラスでは、こっそり自分のクッキーを分けてくれた。


 誕生日には、リリィのために選んだ小さな青いリボンをつけて、一緒に写真を撮った。


 世界は二人だけの、秘密の宝物でできていた。


 ある時、リリィがひどく体調を崩したことがあった。


 呼吸が苦しそうで、熱にうなされるリリィを、少女は一晩中、つきっきりで看病した。


 その小さな手で、熱い体を何度も優しく撫でてくれた。


 心配で、心配で、一睡もせずにリリィの傍らに寄り添い、震える声で「大丈夫、大丈夫だよ」と、何度も何度も囁き続けた。


 動物病院へ連れて行かれた日には、診察室の外で、少女は涙をこらえきれずにいた。


 リリィが無事、処置を終えて戻ってくると、少女はギュッと抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。


 その温かい涙が、リリィの毛並みに染み込んだことを、今でもはっきりと覚えている。


 一度、散歩中に大きな犬に突然襲われそうになったことがあった。


 リリィの小さな体が怯えて固まった瞬間、少女は迷わずリリィの前に飛び出し、その小さな体でリリィを庇った。


 恐怖に顔を歪ませながらも、一歩も引かずにリリィを守ろうとした少女の姿は、リリィにとって何よりも雄々しく、そして愛おしかった。


 そんな少女との日々は、まるで色鮮やかな夢のようだった。リリィにとって、少女が世界の全てだった。


 その少女が、もういない。



 ある晩、いつものようにベンチで月を見上げていると、足元にひらりと影が落ちた。


 見上げると、そこには漆黒の毛並みを持つ、一匹の猫がいた。


「随分と古ぼけたイヌだな」


 猫は、すっと澄んだ銀色の瞳でリリィを見下ろした。


 そして、信じられないことに、人の言葉を話した。


「そこのイヌ。お前の耳に聴こえるのは、記憶の海からの呼び声だ」


 リリィは驚いて、猫を見上げた。猫はしっぽをゆっくりと揺らし、言葉を続けた。


「そこには、まだ叶えられていない願いが眠っている。たとえば、君がずっと想っているあの子の願いも――」


 猫は「フィガロ」と名乗った。


「記憶の海の底には、夜の図書館がある。

 消えかけた願いや、亡くなった人々の想いが本の姿になって眠っている場所だ。

 君が行きたいのなら、私が案内してやろう」


 フィガロの声は、どこか皮肉めいていて、それでいて、不思議な響きを持っていた。


 リリィは迷った。もう、あの頃のような元気はない。


 遠くまで旅をする体力も、残ってはいないだろう。


 けれど、少女の願い。


 その言葉に、リリィの心は強く揺さぶられた。


 リリィがかつて少女と暮らした日々は、喜びと温かさに満ちていた。


 少女の優しい手、屈託のない笑顔、そしてリリィを包み込む愛情。


 それら全てが、リリィにとっての「光」だった。


 その光を失って以来、リリィの心は、ずっと月の裏側のように冷たく、寂しさに覆われていた。


 もし、もしも、少女の最後の願いがそこにあるのなら――。


 月がまばたく夜だった。フィガロは何も言わず、静かにリリィを見つめていた。


 リリィは震える前足を一歩、踏み出した。


「行く…」


 リリィの小さな声は、潮風にかき消されそうだったが、フィガロには確かに届いたようだった。


「よし。では、月の道を進むとしよう」


 フィガロはそう言うと、真っ暗な海の向こうへと、すっと消えていった。


 リリィは懸命に、その小さな体を動かし、後を追った。


 その夜から、老いたヨークシャーテリアと不思議な黒猫の、奇妙で優しい旅が始まった。


 彼らは、波の音と月のまばたきに導かれるまま、深く、深く、記憶の海へと足を踏み入れていくのだった。




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