さよならの言葉は、魔熱【エクスハティオ】に埋もれ
その言葉をきっかけに、青い髪の少女の瞳から、ぽろぽろりと大粒の涙がこぼれる。ノエはふぅと息を吐き、握られた腕を引き返して、瑞穂の小さな身体を抱き寄せた。その首筋に頬を寄せ、震える肩を白い指先で撫で付けながら、ノエは囁く。
「瑞穂ちゃんばっかり言いたいことを言って――ずるいわ。それなら、私にも少し我儘を言わせて欲しい」
「え――?」
「私だって、瑞穂ちゃんが死ぬようなことになるのは嫌なの――そう、こんなことで瑞穂ちゃんを死なせたくない――貴女が私を死なせたくないのと同じくらいに――。
たしかに貴女の言う通り、私だって別に死にたいわけじゃない――できれば、ずっと――ずっと貴女と一緒にいたいから――だから――だから、ここは私に行かせてほしいの――」
触れて擦れ合う白い頬。ごく自然に閉じられる瞼。甘い息遣いが鼻先を掠める。
「えっ――いきなり、何を――」
ゆっくりと離れる2つの小さな身体。顔を紅潮させた瑞穂は茫然と呟く。ふうと息を吐くノエは、悪戯っぽい瞳でそれを見つめ、そして口元を緩めて。
「ということで、許してくれるかしら――?」
「――許すも許さないもないよ、こんなのって――」
瑞穂は顔を赤らめたまま、諦めたようにふと一瞬だけ視線を落とし、そしてすぐに縋るような眼差しでノエを見つめて、懇願にも似た声で。
「なら――せめて約束して。生きて、戻ってくるって――」
瑞穂の言葉に、ノエは数秒何かを考えるかのように間を置いて、そして応えた。
「――わかった。約束は、守るわ」
そう言って、ノエはくるりと踵を返し、つかつかと歩いて底無しの熔鉱炉の前に立つ。後方をちらりと一瞥し、痛みに耐えるかのような表情で胸元を押さえている瑞穂の姿を流し見て、少女はぽつりと付け加えた。
「ただし、交換条件で――もし、私がアレに取り込まれるようなことがあれば、その時こそ――容赦なく私を殺して――これは、約束よ」
瑞穂は何も言わず、ただ哀しげに目を伏せて、こくりと頷いていた。
「では、準備はいいな――? 人形の女」
感情を押し殺したような平べったい声でアシャは訊く。底無しの熔鉱炉の前に立つ少女が小さく頷くのを確認すると、彼は左腕を掲げた。その手の甲に浮かび上がった紫色の魔法陣が瞬き光を放つ。
底無しの熔鉱炉を覆っていた薄紫色の透明なドーム――絶対遮蔽領域。その境界がほどけるように波打って、範囲を再構成するかのように拡がっていく。やがてそれは半径数メートルの円境界を結び、紅蓮滾る熔鋼と長い髪の白皙の少女とを、ひとつの隔離されたドーム状の領域へと閉じ込めていた。
狭き抑圧を僅かながら拡げられ、解放された熔鋼は、一気にその赤黄色のどろどろな中身を膨張させていく。それは何から必死に逃げ出そうとする、無数に群がる人間の形状のよう。魔力とともに圧縮された人間たちの哀しみが、恐怖が、怒りが、ありとあらゆる死の間際の感情が、もはや存在しないその行き場を、その逃げ場を求めて、奔流の渦を巻く。
荒れ狂い、弾けるような勢いで膨らんでいく熔鋼。荒波のように空気を掻き乱す魔熱。
それに立ち向かうかのように、氷機少女のノエは両腕を広げ、詠唱を紡ぐ。
「――氷凍崩絶――!」
○●
詠唱とともに私の身体から、その全身から――霧のような冷気が迸り、狭いドーム状の遮蔽領域の内部をすべて白に染め上げていく。
背後に佇むのは覇王アシャと、そして――瑞穂ちゃんの姿。小さな女の子のその泣きはらした顔は、充満していく白の冷気によって次第に見えなくなっていく。
私は誰にも聞こえないように、私自身にも殆ど聞こえないようなか細い声で、呟いていた。
「さよなら――」と。
死ぬと決まったわけではない。自分が自分で無くなると決まったわけではない。
それでも――もし、そうなってしまった時、私はあの娘に何も言わずに、あの娘の前から消えたことになってしまうから――それは私の中の気持ちが、許さなかったから――。
だから私は自分の気持ちを納得させるためだけに、単なる自己満足のためだけに――自分にしか聞こえない別れの言葉を、自分でも意識しないうちに口にしていた。
もしかしたらそれは、未練を断ち切るために必要な言葉だったのかもしれない。
だって、私はもう死にたくなんてなかったから。
何故なら私はもう、あの娘と離れたくはなかったから。
でも、それ以上に――私は、あの娘を死なせたくなかったから――。
その時、そんな私の終末の思考を掻き消すかのように、怒号のような音が響いた。
それは対峙する、底無しの熔鉱炉の成れの果てから放たれる轟音。
もはや形状を失い、ただドロドロな熔鋼の呪いと化していたそれは、それでもその中に溜め込んだ、人間としての業ゆえか、赤黄色い表面の所々から人間のようなヒトガタの突起物を、その地獄から這い出て来ようとするかのように無数に伸ばし、不気味に蠢いていた。
私は冷気の出力を上げる。限界を超えたその先の限界以上に、その核に秘められた魔力を冷気へ変換して放出していく。
底無しの熔鉱炉の動きが鈍る。冷気に晒されたその表面が黒ずんでいき、軋んだ音を響かせる。
――これなら、いける。
そう確信しかけた、その時。
――タス――ケテ――!
もはやグロテスクともいえる姿へと変貌してしまった熔鋼から、聞いたことのある声が聞こえた。
――お姉ちゃん。
熔鋼から這い出てくる突起物の中のひとつに、姉に似た姿があった。
――コロサナイデ――ワタシヲ――コロサナイデ――!
姉に似た何かは、しきりにそう叫んでいる。
私はそれを見据えたまま、応えた。
――ごめんね、お姉ちゃん――でも、お姉ちゃんは、もう死んでいるの。あなたは、お姉ちゃんが死の間際に抱いた恐怖心だけがカタチになったもの――。
――オネエチャンヲ――タスケテ――!!
ええ、助けてあげる。ずっとずっと、殺されてからその中に閉じ込められて、知らないヒトとともに掻き回されて――熱かったでしょうに、苦しかったでしょうに――私はあの場で死ぬことで逃げ出してしまったから――今まで何も出来なくて、本当にごめんなさい――。
私は前へと歩き出す。魔熱が肌を灼き、魂を焦がしてゆく。けれど、身体の痛みはあまり感じなかった。それ以上に心の痛みの方が、姉の変わり果てた姿を目の当たりにしてしまったことによる動揺の方が、上回っていたから。
姉の顔の前に立ち、その額のあたりに、私は掌をかざした。
――お姉ちゃん――今、楽にしてあげる――。
私は、掌に魔力を込める。指先から冷気が放たれ、それは姉の額を通じて熔鋼の隅々まで流れていく。やがて黒ずんでいき、冷気によって白くなっていく姉の顔。ヒビ割れて、ポロポロと崩れ落ちて、そして――。
姉の形状をしたそれは、恐怖の張り付いた表情のまま、粉々になって、足元にの破片の山を築いていた。
――お姉ちゃん。もうこれで、苦しまなくて、いいよね――。
私がそう呟きかけた、その時だった。
先程まで姉の突起物があった場所から、崩れ落ちた後に残されたその断面から、勢いよくドロドロの熔鋼が噴き出していた。
私は仰け反る間もなく、頭から全身にかけて、ドロドロの熔鋼を被っていた。
一瞬、猛烈な痛みと熱が肌を灼く。しかしそれは、あとに続く猛烈な嫌悪感の中に飲まれてすぐに消えていた。胸元に、私の核に、酷く濁った泥のようなものが流れ込んでくる。私の中に、私とは相容れない何かが、滲み込んでくる。
私を握りしめるように包み込む伸びた熔鋼が、抗うことを許さない確固たる強い力で動き出す。
ぐい、と私の身体は、熔鋼の中へと引き込まれていく――。
○●




