魔術は浪漫、いいね?
魔法と言えば聞こえはよいが、いわば異端の秘術である。ラビンスキーは未知の秘術に心を弾ませつつも、異端の秘術に多少の不安を拭い去れないでいた。ラビンスキーはわら束にぼうっとする頭を任せながら、小さく欠伸をした。
まばゆい朝の陽ざしがストラドムスに差し込むと、ラビンスキーを嘲うように風が戸を叩く。ラビンスキーは藁のベッドから飛び起きて、急いで服を着替えて扉を開ける。風が叩いたように思われたものは、ビフロンスのそれであった。
普段通りの燕尾服を身に纏い、穏やかな表情で頭を下げる。ラビンスキーは頭をかきながら恥じらいを隠すために苦笑した。ストラドムスの慌ただしい明朝は過ぎ、人々が町を歩く時分、扉の向こうはひどく閑散としていた。
「ごめんごめん、行こうか」
「はい。ご案内いたします」
ストラドムスから南北に伸びる細い路地を南へと進むと、ムスコール大公広場に着く。ラビンスキーの職場である役場はすっかり閑散としており、コランド教会には祈りをささげる人々が集っている。ラビンスキーがその行列に目を奪われていると、ビフロンスは日傘越しにラビンスキーを見上げた。
「祈りの日ですからね。休日は本来そういうものかと」
「祈りの日、か」
ラビンスキーはふと故郷を思い出した。教会に集う人々の中に、自分がいた。意味も分からず説法を有り難がった幼い頃、町は静かでひどく乾いた風が吹いていた。この世界の神を自分が崇めるわけにはいかないが、信仰というものには一種の共同体意識があり、それを思わせる大小さまざまな後姿には、郷愁を感じずにはいられなかった。
中央の記念柱を通り過ぎ、ラビンスキーの務める職場の方へと近づいていく。しかし、少しずつ北側に逸れていき、二人は荘厳な白い建物の前で立ち止まった。
入り口に立つロマネスク様式を思わせる白い柱は、よくみると木製で白い塗料が塗られているのが分かる。コランド教会と異なり、カルロヴィッツ商館を思わせる建築様式だったが、その白い柱だけが異様な雰囲気を醸し出していた。天井以外の全体が白く塗られ、ところどころムラがあるものの、大理石を思わせる白さが威厳というべき余裕を醸し出している。
その建物に近づくとほんのりと薬品の匂いがし、町に満ちている異臭とは意趣の異なる臭さが漂ってきた。木製の扉には銀細工が施され、それなりの資金を投入された代物であることが分かる。鉄のノッカーはキンキンに冷え切っており、触るのさえ憚られた。ビフロンスが日傘をたたみ、鉄のノッカーに手をかけようとすると、後ろから声が聞こえる。
「あれ、ビフロンス?」
ビフロンスがふり返る。建物の方を見上げる少年が一人立っていた。
「あぁ、ユウキ様。ルシウス様は見えますか?」
ユウキと呼ばれた少年は頷き、近づいてくる。扉の鍵らしきものをポケットから取り出しながら、鍵を開けた。ラビンスキーは少年の鍵をちらりと覗き込む。そこには、「教員 ルシウス」と書かれていた。ラビンスキーは改めて建物の外装を見る。異国情緒あふれる大理石風の柱、それに合わせて白塗りがなされた木製の「ハコモノ」。それは、いわゆる大学というものだった。
「どうぞ」
ユウキは手をだして案内する。ビフロンスは軽く会釈してユウキの後ろについて行く。ラビンスキーもそれに倣った。
学校の内部はただただ広いだけで、薄暗く明かりが乏しい。玄関のすぐに広がる巨大なロビーは、殺風景な中に蝋燭立てが壁にかけられているばかりで、外見とは裏腹に質素な作りだった。廊下は左右に伸び、中央の巨大な階段は踊り場で枝分かれし、左右の壁を這うように二階へと伸びている。
ユウキは入ってすぐに左折し、すたすたと音を立てながら廊下を歩く。馴れないラビンスキーだけがきょろきょろと辺りを見回しながら、時折床がギシ、ギシと音を立てるのを気にしていた。暫く歩いて直線廊下にも終わりが見えてくる。三人の視線の先にはいよいよ曲がり角の全貌が姿を現そうとしていた。
曲がり角も殺風景なままで閑散としきっており、黒金の蝋燭立ても主人がいないまま壁にかけられるばかりで、薄ら暗い廊下が延々と続くさまはえもいわれぬ恐怖をあおる。
やがて三人が廊下の行きどまりまで至ると、ユウキがその一番奥の扉をノックする。ひたすらに続く廊下は、ノックの音がよく反響した。
「はいはぁい」
奥からやや高い男の声がする。間の抜けた伸びきった声が扉に阻まれてくぐもって伝わる。ユウキがお客さん、と素っ気なくいうと、扉越しに椅子から立つ音が聞こえる。ラビンスキーは何となく緊張して顔が強張る。
ガチャ、という音がしてユウキが扉を開けると、ぼさぼさの髪を掻く背の高い男がいた。肉付きは普通だが異様に背が高いためか、酷く痩せて見える。白衣らしきものは黄ばんでおり、ところどころのシミに年季が感じられる。便底のような丸い眼鏡の向こうには、細く眠そうな目があり、髭はうっすらと伸びているのが分かる。
部屋は足の踏み場もないほど本と資料で埋め尽くされ、開いた書籍に注釈を書いたメモがいくつも張り付けられていた。本棚にはびっしりと厚い書籍が並べられ、図書館を凝縮したようだ。窓のある場所からかろうじて光が差し込み、紙とペンで散らかされた作業机を照らしていた。
男は足の踏み場もない場所から本や資料をどかした。すると、本で埋め立てられた海底が顔を出し、椅子が顔を出した。
「あぁ、あぁ、ビフロンス君。どうぞどうぞ。ユウキ、水汲んできてぇ」
ビフロンスとラビンスキーを部屋の中に招き入れた男は、とろんとした目でユウキに水差しを差し出す。ユウキは溜息をついてそれを受け取る。
「はいはい」
ユウキが早足で部屋を出ていく。白衣の男が満足げに鼻を鳴らすと、初めてラビンスキーと目を合わせる。ラビンスキーが軽く会釈すると、男は首をかしげる。男は記憶を探るように頭をポリポリと搔きながら、空を眺める。ラビンスキーは緊張気味に肩に力を入れる。
「えーっと、誰だっけ?知り合い?」
男はビフロンスに視線を戻す。ラビンスキーは内心少しほっとしながらも、申し訳ない気持ちになった。
「こちらの方はつい最近オリヴィエスに来られた、ラビンスキー様です。ラビンスキー様、ご紹介します。魔法科学と魔法生物学を専門に研究されている、ルシウスさんです」
「どうも、どうも。ルシウスです。ラビンスキー君は学生志望?」
ルシウスは穏やかな表情でラビンスキーに話しかける。ラビンスキーは本棚が迫るような圧迫感に苛まれつつも、姿勢を崩さずに笑顔を作る。
「ラビンスキーです。宜しくお願い致します」
ラビンスキーが手を差し出すと、ルシウスはその手に眠そうな目を向けた。日中だというのに薄暗い部屋では、作業机の上に立つ蝋燭が異様に赤く揺らめいていた。結局しばらくしてもルシウスが握手を交わすそぶりを見せなかったので、ラビンスキーはそのまま手を下ろした。
「ルシウスさん、ラビンスキー様は魔法を勉強したいそうです。お手伝いお願いできますか?」
ビフロンスの言葉に、大仰に驚いて見せた。ラビンスキーは、はにかんでみせた。
「えぇ、実は、折角異世界に来たのだから、魔法を使いたいと思っていまして」
ルシウスはラビンスキーの目を凝視する。無責任そうな目が真剣そのものの顔に変わっていた。
ユウキがノックをすると、ルシウスはラビンスキーを睨んだまま反応する。ラビンスキーは伸ばした手を下ろす。ルシウスはユウキから水差しを受け取ると、それを一気に口に流し込む。彼は暫く無言で水差しを眺めた後、小さくげっぷをした。
「魔法、ねぇ。僕なんかより適任者がいるんじゃないの?」
ユウキはルシウスに軽い嫌悪の表情を見せている。笑顔の表情を崩さないビフロンスは、手を組んで膝の上に置き、前のめりになりながら余裕のある優雅な語り口で答えた。
「彼は魔法の適性が弱いので、法陣術を勧めるのが適切かと判断しました」
ラビンスキーは二人の顔を見比べた。どちらも余裕しゃくしゃくとしていたが、片や仙人のような荒々しさがあるのに対し、片や貴族然とした余裕が滲み出ている。ラビンスキーは本の山が崩れる音がして視線を移す。ため息を吐きながら本の山を積むユウキの姿があった。
ルシウスは少しラビンスキーを観察した後、顎をさすりながら思考の深みに身を投じる。暫く気味の悪い沈黙が続いた後、ルシウスはラビンスキーの方を向いた。
「文字は書ける。計算はできる?座標とかの概念はわかる?」
ラビンスキーは当惑気味にビフロンスの方を見る。ビフロンスは正直にどうぞというようににこにことしているだけだった。ラビンスキーは何となくばつが悪くなり、ポツリと声を出す。
「……一応は」
「ん、んー。しょうがないしやってみようかな」
そういうとルシウスは書籍の山を手で払うようにして、足の踏み場を強引に作りながら書棚を漁った。ルシウスは暫く考え込んだ後、比較的薄い一冊を引っ張り出し、それをラビンスキーに差し出した。ラビンスキーがそれを受け取ると、ルシウスは満足げに満面の笑顔を浮かべる。
「初めての授業は魔法分類学について学ぼうかぁ」
ラビンスキーは頷く。
「お願いします」
ルシウスは楽しそうに歯を見せて笑い、ビフロンスと同じポーズをとった。
「ではでは早速、第一時限目だねぇ。よろしく」
ラビンスキーとルシウスは向き合った。魔法が使えるかもしれない。書籍の城塞の中で、静かな高揚を覚えたラビンスキーだった。