ペンと羊皮紙のナイト
ゴロゴロと車輪の音が鳴き、整えられた石畳を踏みつける。この町での出来事はいつも私にとって奇怪に映る。今回の一件も相当に厄介な代物であり、確かに宗教的視点から見ればルシウス卿の行動はとても容認できるものではない。しかし、必ずしも処刑するようなものではない、というのが私の率直な感想だった。この非常に如何ともし難い板挟みをどうするべきかについては、私にはとても判断できない。
「アーロン様、着きましたよ」
「あ、あぁ……。すまない」
もやもやとした気持ちを抱えたまま、私はロットバルト邸に降り立った。豪華でありながら気品を感じる佇まいに、センスを感じる。
私は二つの手紙―即ちロットバルト卿のものと、クリメントのもの―を受け取り、この場所に到着した。彼……の仕事ぶりには心底感心させられるものの、今回の件では友情を取るべきか、忠義を取るべきかは測りかねる。おそらくクリメントは私に絶大な信頼を置いてくれているだろうし、ロットバルト卿にとっての私は単なる部下でしかないのだろう。私はそれを知って尚、揺れ動くこの感情に戸惑わずにはいられなかった。
ノックすると、紳士服に身を包んだ好々爺が顔を覗かせる。私が勤めて笑顔で手を振ると、彼は恭しく礼をして扉を開けた。私は彼に導かれるままに家に上がる。美しい邸宅も、遥かに少ない蝋燭のせいで何処か廃れて見える。クリメントの時ほどは歓迎されていないのか、出迎えは一人もいない。或いは、そんな暇はないのかもしれない。
寂しそうな蝋燭立ての間を抜けると、ロットバルト卿の書斎、次いでルシウス卿の書斎。そこには未だ明かりがついており、何者かが利用しているらしかった。さらに奥へ進むと重鎮との秘密会議をするための会議室。現在は扉が開かれており、小さな円卓に6つの椅子が窮屈そうに並べられていた。最新の世界地図やルシウス卿の作った不可思議な魔法道具二つが置かれている以外には、部屋には置かれていない。
「こちらでお待ちください」
私は図らずも上座に案内される。躊躇いながら老紳士に視線を送ると、老紳士は頑なにそこに座るように目配せをした。仕方なく席に着いた私を確認した後、老紳士はゆっくりと扉を閉ざした。
(私は客人、か……)
視線を下ろすと、綺麗なシルクのテーブルクロスがある。忌々し気な魔法道具を指でなぞり、文字を辿る。内容は「録音」。魔術師にとってはなんてことはない術式なのかもしれない。人間の善性を信じられないのは、この都市ばかりなのだろうか。暫くすると扉をノックする音がする。
「失礼する」
よく澄んだ美しい声。精悍かつ肌理の細かい顔、ロットバルト卿だった。私は立ち上がり頭を下げる。彼はそれを手で制したが、私は構わず頭を下げた。
「ロットバルト卿、お久しぶりで御座います」
彼は短く「あぁ」と答え、席に着いた。薄暗がりにあると、その美しさはかえって不気味なドールのようだった。また、私が依然見たときよりいくらか疲労の色が見えた。私はロットバルト卿から送られた手紙での懇願を思い出す。まるで人が変わったような、私への懇願の手紙だった。勿論、高貴な言葉遣いではあったが、私には、それがロットバルト卿のものとはにわかに信じがたかった。
「……わざわざ来てくれて有難う。改めて、お願いする。どうか、教会に便宜を図ってくれないだろうか」
ロットバルトは深々と頭を下げた。国家のナンバー2、ロットバルト卿がである。唇が乾燥する。重苦しい空気の中、私は切り出した。
「……実は、教会からのお手紙も頂きました。クリメントは私の学友です。多忙な彼からの手紙は、大変に光栄な物で御座いました」
ロットバルトがびくりと動いた。そして、腰を直角に曲げたままで、卑屈な笑い声をあげている。赤絨毯には、二滴、三滴、染みが落ちていた。
「いや、すまない。あまりに自分が惨めでね。思わず、笑ってしまったよ。アーロン。散々君を利用して、苦労をさせてしまったね。本当にすまなかった」
「いえ、私は……」
「大丈夫だ、言うな。君の判断は正しい。教会と戦う事とは即ち、世界と戦うことなのだからね。……私は、決して、君を責めることはないよ」
一向に顔を上げないロットバルト卿。もはやそれは、懇願とは違う色が現れていたのだと思う。私は立ち上がる。彼女にゆっくりと近づいた。
「……力が衰えたとはいえ、世界は教会を中心にまわっている。それは代えられぬことで御座います。ロットバルト卿。もしルシウス卿に何かあったら、その後の事はどうなさるのですか?」
「……どうするもこうするも、この宅地も、この地位も、全て彼らのものだ。……あぁ、そうだな。国は丸々ロイの物になろう。その時は、君は静観しておいた方がいいだろう」
徐に頭を上げたロットバルトは、必死に表情を作っていた。目は真っ赤で潤んでいたが、それでも、笑顔だけは崩さない。
「貴方はその意志をあきらめるのですか?」
私の言葉に意表を突かれた彼は、終に表情を崩す。口をひん曲げ、眉根を寄せて、必死に涙をこらえていた。彼はゆっくりと膝をつく。そして地面に額を擦り合わせるように頭を下げた。
「……どうか、どうか見捨てないでくれ。私は、私は……決めたことがあるんだ。やり遂げねばならないことが、あるんだ」
私はゆっくりと出口へ向かう。彼は私の足にしがみつき、嗚咽を抑え込みながら「待って」と叫んだ。
「……貴方がやり遂げねばならぬことは、一体、なんなのですか?」
「それは……」
私は努めて冷ややかに視線を送る。私は、彼女の守ろうとしているものをよく知っていた。彼女は、教会の禁を破ってまで、「それ」を守ろうとしていた。私にとって、教会と世俗の間で揺れ動く時期があった。それらはたまたま重なり、折り重なった。
「卿よ。私は主を信じています。彼の言葉は私達を正しい道へ導いてくれることでしょう」
私は屈み込み、足を引く彼女と目線を合わせる。潤んだ瞳は最早涙を抑えることができない。絶望と、悪足掻きが混ざり合った顔だった。私は、ゆっくりと続ける。
「……しかし、教会を信じているわけではないのですよ。我が兄の死をきっかけに、私は還俗しましたが、それもよい機会ではありました。彼らの中には、神の信徒ではない者も、入り混じっていたのです。そして、「この道」で生きていく、そう決意した機会がありました」
私は彼女の涙を払う。
「……姫よ、私は貴方に忠誠を誓おう」
私は、彼女の美しさに惚れたのではない。何としても男達の中で一人の女性を守り抜く、その覚悟に惚れたのだ。
年も品位も何もかもが異なる私を、貴方はどのように見ていたでしょうか?権力の犬?それとも……。
「ルシウスを、助けてくれ!」
「彼はまだ、負けを認めたわけではありませんよ。卿よ、彼からの伝言です。「頼みがある。人、呼べ」恐らく、人をたくさん集めろということです。処刑の当日に、何かしてくれるようですよ?」
彼女はやっと、女性としての素顔を見せてくれた。ずっと、たった一人で守ってきたのだろう。私は窓の向こうを眺める。そこから見えるのは、女王陛下の宮殿だった。




