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ラビンスキーの異世界行政録  作者: 民間人。
三章 聖俗紛争
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それぞれの事情2

「帰ってきてからずっとああだよ……」

 そんな話し声も、彼には届かなかった。彼は召使いがノックをしても反応をせず、目を見開いて空を見たまま硬直していた。

 時折ぶつぶつと独り言をつぶやいたかと思うと、机上の羽ペンを地面に叩きつけたり、急に蹲って啜り泣いたりしていた。

 そんな事を三日三晩繰り返していくうちに、彼はだんだん痩せていき、憔悴しきった顔と合間って彫りが深くなる。

「可哀想になぁ……」

「恩人が異端なんだもんなぁ……」

 彼に同情する声は少なくないが、そのどれもが彼の癪に触った。やはり誰も理解などしてくれないという、生前の気持ちが脳裏を過ると、当たり前の様にある街並みにさえ吐き気を催す。

 いつもの様に空を眺める彼の視界に、教会は両腕を広げた悪魔のように映った。そこから目をそらすと、物を投げすぎて散らかった部屋の前を、バタバタと通り過ぎる音がする。

 ラビンスキーにしては妙に小柄なようであり、小僧というには足音が粗雑すぎた。久しぶりに鍵を開けて扉を開く。織物通りの賑わいに紛れて、犯人と思しき人を見つけた。

「モイラ……?」

 祈りの日……週末の静かな明朝に、彼女が日課にしていることがある。それは、教会のミサに参加することであり、自分の手持ち金の一部を寄付することであった。彼は直感的にその危険に気がつき、青ざめた。

「あの馬鹿……!」

「あ、ユウキ様、良かった……!」

 久しぶりに部屋から出てきた彼の姿を認めた召使いは、喜びのあまり彼に声をかけた。しかし声は届かず、真っ青な顔をした少年は、何かを追いかけるようにして階段を駆け下りていった。

 シーツを持ったままで召使いは呆然と立ち尽くし、我に返って主人へこの事態の報告に向かった。


 モイラは案の定教会のミサに参加していた。僕は隠れてその様子を観察していたが、特別変わった事は起こらなかった。

 ミサが終わり、僕が安堵のため息をつくと、ぞろぞろと教会を後にした人々に紛れて、たぬき牧師とモイラが話しながら出てきた。

 思わず息を呑む。モイラが何かを必死に訴え、たぬき牧師が狼狽えながら説得しているように見えた。僕が危惧していたようなものではなかったが、その危険性を払拭するには至らない。

 しばらく問答を静観していると、モイラが声を荒げ叫んだ。

「お願いします!先生はそんなに悪い人じゃないんです!本当です!私を保護してくれたし、陽気で、いい人なんです!だから気づいてください!異端なんかじゃありません!現に宗教問答で押し負けることはないじゃありませんか!」

 タヌキ牧師の腕を引っ張り、目に涙をいっぱいに貯めて訴える。それは決して神への冒涜でも、教会への誹謗でもなく、ただ善性ゆえの行動に他ならない。

 城壁が切り取った空は嫌という程澄み切っていて、ガタガタの石畳も乾ききっている。モイラの足元でさえ、雫は地面を濡らしては天へと帰っていった。タヌキ牧師はモイラの手の甲に優しく手を乗せ、憐憫に満ちた表情で諭すように続けた。

「いいかい、君が敬虔で模範的は信徒であることは私もよく理解している。しかしだからこそ、彼の犯した罪を洗い流すためには、彼の口から贖罪を得るしか無いんだ。君も騙されちゃいけない。悪魔というものは、はぐらかすことに関しては天才的だからね……。ね?」

 タヌキ牧師でさえ言葉を選んでいるように見えたのは、彼女がこの町の人々に与える印象をよく示している。彼女は馬鹿にされる事はあっても、嫌われる事はほとんど無いのだ。

「お願いします!お願いします!あ、これ!私の財布です!全財産入っています!どうか、先生を……!」

 モイラは引き下がる事なく、タヌキ牧師に詰め寄る。必死に頭を下げ、天に祈るようにして手を組み、ボロボロと大粒の涙を零す。その涙は少しずつだが、地面を潤し始めていた。

 ……僕は、何をやってるんだろう。

 モイラでさえ、こんなに必死に足掻いているというのに。

 それでも、と僕はゆっくりと足を踏み出す。悪魔の両腕は善性にたじろいでいる。モイラの肩を優しく叩き、顔を上げた彼女にいつものトーンで言った。

「モイラ、行こう」

「でも……!」

「神様は、ちゃんと見ているよ。ね、牧師さん」

 タヌキ牧師の視線は鋭かったが、それでも彼はゆっくりと頷いた。

 僕はモイラの手を強引に引いて、自宅へと引きずった。

「ユウキ……」

 玄関の前で足を止める。道中のひそやかな街並みも相まって、まるで僕ら以外の人が消えたようだった。囀る鳥の声もなく、色彩だけが目を痛めつけた。

「あんな事をしても、意味ないでしょ」

 自分に言い聞かせるように囁いた。

「ユウキ……このままでいいんですか?私は、こんな形でお別れなんてしたくありません」

 モイラは悲しそうに眉を寄せる。煌々とした太陽が野次馬のように城壁を越えて覗いている。

「それは、同じだ。でも、そんな事をしても結末が変わらない事くらい、わかっているだろう?」

「分かりません。ユウキ、だって、ユウキは……」

「僕には何もできない事くらい、わかっているだろ!」

 不都合な真実を認めようとしない人に、無性に腹が立つ。何も出来ないくせに、何も変えようとしないくせに!

 ルシウスは僕を残す為に犠牲を買った。しかし、教会に異端と認定された時、その影響は家族にも及ぶ。ルシウスがしたことは、ロットバルト卿を苦しめることになり、僕達も割りを食う。教会の財産没収も地位剥奪も、ルシウスを起点に始まるのだ。僕が罪を認めるのが、恐らく一番正解だったはずだ。

 それでも言わなかったのは……違う。違う!違う!言えなかった、身寄りのない僕が一番適任だったのに!僕がルシウスを助けていれば、全部丸く収まったのに!

 臆病な自分に腹が立つ。唇を噛み、溢れるものを堪える。右の瞳が滲みる。言いようのない嫌悪感と、やり場のない怒りだけが全身を巡り、体が火照る。堪えきれず、言葉が漏れる。

「何で僕なんだ!何でルシウスじゃない!ルシウスだったら何かできただろ!何で、何も出来ない僕なん」

 刹那、視界が揺らぐ。モイラの強烈なビンタだった。僕よりもはるかに逞しいモイラの無秩序で無学な一撃が脳を揺らす。僕が視線を戻すと、目一杯の涙を溜めた瞳が睨みつけていた。

「何で信じてあげられないんですか!」

「しん、じて……?」

「ルシウス先生には何となく無責任なところがあります!ユウキの面倒を最後まで見るとか、ユウキのために自分が犠牲になるなんて、そんな人じゃない事くらい、分かってるでしょう!」

「でも……」

「でもじゃない!私の話を聞きなさい!あの人は、無責任な上に、自分の研究を簡単に諦めるような人じゃない!可能性を摘み取る様な人でもない!あなたを逃したのは、あなたを守る為でも、まして自分が犠牲になる為でもない!」

「……っ!」

 視界が揺らぐ。赤くなった頰がジンジンと痛み出す。一人の人間としての、感覚が戻ってきた様だ。それでも、まだ気持ちが晴れるわけではない。モイラから顔を背けようとすると、モイラは無理やり僕の顔を持ち上げた。

「ユウキ、ユウキは何も出来ない人じゃない。だって、どんな困難な時も、私を助けてくれたじゃないですか」

「それと、これとは……」

「同じです。貴方は今も、最高にかっこいい、私のヒーロー。あの時……何の面識もない私を、見捨てても良かったはずの貴方が、何故私を見捨てないでいてくれたのか。あの時、立ちはだかるのは最強の勇者でも、何故貴方は私を助けにきてくれたのか。あの時……私の無理に気づいてくれたのは、貴方でした。私は忘れません」

 彼女は僕の顔から手を離し、その手で僕の手を握る。農作業や運搬作業、手工業でゴツゴツとした男の様な手。質素で安っぽい民族衣装と、取って付けた様なフード。この町には不釣り合いなほど、汚くて、どうしようもなく美しい。

「もし、ユウキが迷うなら、私がいます。ユウキが苦しむなら、私がずっといますから……。貴方が私にしてくれた全部を、私が返しますから。だからユウキ、貴方には『貴方にできること』をやって欲しいんです。ルシウス先生は、それを『信じて』、貴方を再びこの場所に戻したんですから……」

 信じる、という言葉には二面性がある。信じるということは、それが真実ではないという事、つまり、疑いが常に影を潜ませているという事だ。真実は信じる必要なんてないし、それを不思議にも思わない。モイラは、僕の事を、ルシウスのことを『信じている』。何故助けてくれたのかも分からないままに。しかしそれは間違いなく、僕の救いだった。何故なら、『真実がわからない』からこそ、『信じられる』のだから。

「うぅっ……くぅぅ……」

 どうしようもなく涙が溢れた。一雫、二雫……数え切れないくらい。太陽は煌々と、二人しかいない道を照らしていた。

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