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ラビンスキーの異世界行政録  作者: 民間人。
三章 聖俗紛争
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魔女の足枷2

 カルロヴィッツには会えず、小僧に用件と手紙を渡したラビンスキーは、その後姿を見届けて、行き交う行商人の馬車から薫る金貨の甘い香りに引っ張られながら、織物通りへと歩を進めた。


 相変わらずの狭い路地には、所狭しとご自慢の品が並べられている。玉石混交の大公広場とは比べ物にならない、圧倒的な華やぎを超えると、第一に例のダビデと聖女が出迎える。貴婦人が日傘を差してあちこちの織物を見て回る中、一人貧相な男が通り過ぎるのを奇異の目で見る。整備された石畳に革靴を鳴らす音が響く。やがて彼は織物通りのはずれにある、紳士たちが行きかうに相応しい、金に糸目を付けない建物の前で足を止めた。


 黄金、とまではいかないが、それに準ずる輝く銀箔を各所に散りばめ、巨大な窓からはこれでもかと言わんばかりの膨大な絵画をのぞかせる。その額縁は漆喰で塗られ、ラビンスキーの目には歪な古臭い絵が、堂々と描かれている。急ピッチで流行に乗ろうとしたせっかちな男は、煉瓦の繋ぎがうまくいかなかった職人の誤魔化しに気付かなかったらしい。カルロヴィッツのそれと比べると、総じて無駄の多い、そそっかしいような建物だった。


(ストラドムスにいるとすべてが立派に見える……)


 呆然と口を開けて眺めていた自分を自嘲しながら、分厚いドアをノックする。中からは、若い女性の声が聞こえた。


「はぁい。……いらっしゃいませ。ご商談ですか?」


 扉を開けて開口一番のセリフである。女は顔はいいが派手な服装をしており、受付嬢としてはやや化粧も厚い。ラビンスキーはひきつった笑みを返し、首を振る。


「……いえ。私、サンクト=ムスコールブルク市役所の、ラビンスキーと申します。先日の参事会での御礼と、ご挨拶を兼ねて、お手紙を渡しに覗ったのですが……」


 ラビンスキーは小奇麗な装丁の封筒を差し出した。女性はそれを受け取ると、しばらくお待ちくださいとだけ伝え、館内に入る。重厚な扉は軽い力で閉ざされたにもかかわらず、木材の重なる重厚な音が響いた。


 暫く待機していると、扉越しにどたどたと階段を下りる音が響いた。その音の主が誰なのかは安易に想像がついた。扉を叩きつけるように開けたのは、案の定イグナートだ。


「ラビンスキーさん……あぁ!君か!いやぁ、先日の資料はとてもよかったよ!さ、さ、中へ……」


 彼の歓待はあくまで共闘者としてのものであり、爛々と輝く瞳には狂気すら感じられた。ラビンスキーは多少躊躇ったものの、期待の目に負けて店に上がった。


 店内はやや薄暗いが、各所に設置された活版印刷機がけたたましい音を立てている。無骨なプレス機を下ろすがたいのいい男や、木版に文字を並べる職員、そして先程の受付嬢らしき女性が、活版印刷機を動かす準備を続けている。


 活字の母型が大量にしまわれた鍵付きのキャビネットには、ケースによって細分化された母型が数え切れないほど安置され、それが二機ある印刷機の手前までずっと連なって保管されている。女が印刷原稿をながめ、蝋燭の小さな灯りを頼りにキャビネットを行ったり来たりしながら、型に文字をはめ込む。それを結わえて固定し、屈強な男にそれを手渡す。そんな従業員がなんと50人近くもおり、異様に窮屈に思えた。


反対側には活字の母型を作る作業をする男たちがいる。金属を扱う手前、非常に腕の太い男たちが、いかにも熱線を受けて顔を赤くしていた。完成した型を軽く検査するだけの眼鏡をかけた初老の男でさえ、ラビンスキーの腕を一捻りしそうながたいだった。


「印刷業に興味はおありですかな?」


 イグナートはラビンスキーが興味深そうに眺めているのを見て、優しく語りかける。次々と作られる母型に目を奪われながら、ラビンスキーは頷いた。


「えぇ。不思議なものです……。これだけの速度で本を生産できるのは、手書きでは考えられません」


 かつてグーテンベルクが遺したそれは、やがて大衆向けの書籍を生み出していた。この装置には、おそらくそれと同じくらいには寸分違わぬ叡智が込められているのだろう。プレス機を回す男の額に、汗が流れる。迸るほどに金貨を鋳る事ができるのは、その汗ばかりなのかもしれない。


「我々が初めに着手した印刷物は、神聖文字の聖典……そして大学から寄稿された神聖文字の論文……より安く、より速く、より簡単に……。しかし、それでは足りないのです」


 イグナートは胸を張り、大きく息を吸い込み、むせ返るようなインクの匂いと共に吐き出す。薄暗い作業机には、メンテナンス用の工具と次のページの型が、紐で結わえられている。


 ラビンスキーがそれらに重ねたのは、一人オフィスでキーボードを叩く、かつての自分の姿だった。同じものを、幾多も作ることの難しさも億劫さも、彼は誰よりもわかっているつもりだった。


「我々が次に出版しようと考えているのは、俗語の聖典なのです」


 イグナートは商談用の笑みでしわくちゃになっていた笑顔を引っ込める。彼はそれらが彼に何者をももたらさないことを悟ったのだろう。


「我々は教会を中心と乖離させるべきなのか、そもそも生死とはなんなのか……その答えはその聖典に詰まっていると考えています。教会の成否を決めるのは、その後でもよろしいでしょう」


 誰もが読める聖書を。恐らく彼らは、ルターやカルヴァンが語った真実の信仰への探求を求めているわけではないのだろう。純粋な商圏の拡大……それこそが、イグナートという人を形作っている。そしてそれだけが、彼をここまでの過酷に立ち向かわせるのだと、疑うべくもない。神の御名の下に正義を振るう司教と、神をも恐れぬ貪欲。神の威光へ対抗する第一歩は、彼が握っている。ラビンスキーはそう確信した。


「イグナートさん、どうか私に再びチャンスを下さい」


 教会に反対という意思は一致している。イグナートは咀嚼するように顎を動かす。


「敵の敵は味方。私とあなたの利害は一致しています」


 イグナートが手を差し出した。ラビンスキーは差し出された手を握る。握手を交わした二人は、応接室へと消えて行った。

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