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ラビンスキーの異世界行政録  作者: 民間人。
二章 社会福祉問題
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シゲルという男5

 ハンスだけがいる執務室では、カツ、カツという時計の動く音が異様に大きく感じられる。静まり返った執務室に、微かな蝋燭の火が揺れる中で、ハンスは机上の資料をまとめていた。黒縁の瓶底のような厚い眼鏡には、市民の嘆願書が映っており、貴族などの使う立派な紙ではない、インクの滲んだ茶色い紙に、乞食達の窮状が綴られていた。ほぼ毎日乞食が糞を求めて家を訪れており、何とかならないか、というものだった。アレクセイが苦情の山から引っ張り出した主たる意見の幾つかは、ハンスの机上を埋め尽くしている。ラビンスキーが帰宅するのを見計らって読み始めて、早一時間たつ。ハンスは大きな欠伸をし、霞んだ目を擦った。


 ―間違いなく黒斑の原因はここにある―そう感じてから何年も、この場所で作業を続けている。研究仲間はみるみる瘦せ細り、学生を騙して書籍を転売させることに躍起になっていて、もう書簡で故郷について語り合うこともない。


 ペアリスの黒斑は年を追うごとに東へ、東へと拡大し、いつしかプロアニアの北端に達したという。どの感染も自分には防ぐことができなかった、死体の山が積み上げられていく様をただ見届けることしかできなかった。似非医者が記帳した疾病者のリストを無機質に積み上げた失態を、再び繰り返すわけにはいかなかった。


 ハンスは伸びをして、鎮まる街を眺める。乞食の陰が家からはじき出されている。


 感染は常に乞食から始まっていたのだから、その暮らしぶりに関係があることは疑いないことだった。食事?衛生環境?原因は一つではない。初めは判然としなかったものも、徐々に明らかになりつつある。


 そもそもの発生源が汚れ仕事を続けるのだから、ラビンスキーがした子供のような提案は、根本的な解決にならないことは分かっていた。しかし、これが一つのきっかけになれば、それはハンスにとっても望むべき結果だった。乞食を引っ張り出すことは、町の人々に彼らを認識させる良い機会であり、苦情が会議の俎上に上がれば、それが最後には黒斑の防疫に繋がる。乞食を追い出す、という結果になったとしても、いくらかの命は守られるし、乞食を保護するという結果であっても、同様に町は守られる。


 降雪はなくなり、白く凍結していた地面にも春の息吹が芽生え始める。ハンスは目を閉じて一気に息を吸いこむと、再び嘆願書に目を通す。役所の明かりが消えている中で、都市衛生課の窓だけが、ほのかな光を帯びているのだった。



 ラビンスキーはアツシの手を引きながら、人が引き始めた町中を歩いていた。一応乞食であるし、こちらも生活がかかっている為、アツシを閉じ込めるような結果になってしまっていた。アツシは特に気にする風でもないが、その謝罪の意味も込めて、外食に連れていくことにしたのだ。手を引かれて歩く際に歩幅の差のせいで時折前かがみになる様が、何とも微笑ましい。


 日も傾いてそこそこ、二人はローテン・アルバイテに辿り着いた。


「ここ、ここ。さ、入ろう」


 ラビンスキーは手を引いて入ろうとするが、アツシは身じろぎ一つしない。ラビンスキーがふり返ると、アツシは呆然と佇み、看板を見上げていた。困惑の表情すら窺える。


「……いいんですか?高くないですか?」


 外食どころか普通の食事もしたことがない彼にとって、ラビンスキーの行動は異様に映ったらしかった。ラビンスキーは頷いた。


「今日は閉じ込めちゃったからね。お詫びに」


 アツシは上目づかいでラビンスキーの顔を見ると、表情がみるみる明るくなった。


「……はい!」


 ラビンスキーは何となく上機嫌になり、小さな手を引いて入店した。



「いらっしゃい!お好きな席にどうぞ!」


 入店と同時に響く威勢のいい声と人々の歓声が、ラビンスキーの脳を刺激する。アツシはラビンスキーの手を強く握った。


 ラビンスキーは隅の席に座る。隣ではタオルを肩にかけたコボルトがどんちゃん騒ぎしており、その向こう側には冒険者らしき若者たちが談笑している。カウンター席もそのような人々で埋め尽くされ、アツシは緊張のためか顔を強張らせていた。


 ラビンスキーは壁に掛けられたメニュー表を眺める。アツシは乞食であり、文字は読めないはずだ。

「好きな食べ物とかある?」


「食べられないもの以外が好きです」


 身も蓋もない回答に、ラビンスキーは思わず聞き返してしまった。


(そうか。そもそも何を食べたらいいかもわからないのか……)


 ラビンスキーはアツシの回答に思わず気の毒になり、同情の視線を向ける。アツシは気にするでもなく、首を傾げた。


「じゃあ、私が二人分選ぶね?」


 ラビンスキーがいうと、アツシは無邪気で眩しい笑顔を見せた。


「はい、お願いします!」


 ラビンスキーはふと、昔娘がいた頃に、外食先で子供が喜ぶ料理というのを必死に考えていたことを思い出した。目当ての料理が来ると目を輝かせ、それを見ると自分の心も踊った。少々我儘で、野菜をあまり食べない。それを指摘した妻に対して頬を膨らませる様まで、可愛らしかった。


 メニューを眺めると、どれも比較的安価な物ばかりである。勿論、さすがに毎食食べられるような代物ではないが、週に一度程度ならば食べても何とか暮らせる値段だった。海の魚は高いが、淡水魚は比較的安価で、思わず喉を鳴らす。いずれも干物やつ塩漬けの物が主流であるようだ。心なしか、スープ類が多いように思えた。大衆食堂特有の食事が入り混じった匂いと、居酒屋のような独特の酒の匂いを嗅ぐと、ラビンスキーは店員に聞こえるように声を張り上げた。


「すいません!エール、ニンジンと玉ねぎのスープ、中級の小麦のパンを二つ、あと干し豆とザワークラウトを一皿、ください」


 店員ははぁい、と答えて厨房に消えていく。ラビンスキーは思わず頼みすぎたかと腰に結わえた財布を触る。アツシが不安そうにこちらを見たので、その手で服の裾を払う。


(いかんいかん。一応足りる、ちゃんと計算しただろう)


 ラビンスキーは努めて陽気に笑顔を作った。


「いやぁ、腹減った、腹減った。ははは」


 アツシが店の匂いを嗅ぐと、同調するようにうなずいた。


「いい匂い嗅いだからお腹空いてきました」


 暫くすると食卓に料理が並べられる。湯気の立ったスープの匂いに思わず顔がほころぶ。現状、ラビンスキーはそのほとんどの食事を日持ちのするパンと干し豆でやり過ごしている。時折安価な野菜を取ることもあるが、どれも温かい食事とは無縁のものだった。それらがとても豪華なものに思えたのは、無理もないことだった。アツシも思わず唾をのんで反応する。二人のお腹が同時になる。二人は顔を見合わせ、誤魔化すように笑う。


「食べよっか」


「はい!」


 元気に答えるアツシは真っ先にスープに手を伸ばした。もっとも、食器をまともに持っていない彼らにとっては、それは下品に「飲む」ものだったらしい。ラビンスキーは思わず引き留めようとしたが、手を伸ばしたところで気持ちを抑えた。


(今だけは、気分よく食べさせてあげるべきだろう……)


 赤の他人の子供が、自分の娘に重なる。生前、散々手を焼いた、散々愛した愛娘。愛想をつかされて疎遠になっても、どうしても未練を断ち切ることができなかったことを思い出す。この町に来て、必死に働いて、少しずつ生前の記憶が薄れていく。ラビンスキーは時折思い出せなくなる故郷への郷愁を、突然感じ出した。


(彼もおいおいマナーを知り、大人になっていくんだろうか)


 アツシは食器まで食べてしまいそうなほどの勢いで、口に放り込む。呆然と彼の下品な食事ぶりを眺めていると、アツシは頬をリスの様に膨らませてラビンスキーを見る。彼は飲み込んだ後、首を傾げた。


「冷めちゃいますよ?」


 ラビンスキーは目を細めて笑う。


「……そうだね、頂きます」


 ラビンスキーはスープを啜る。のどが喜んでいるのが分かる。濃い塩味のするが、どこか懐かしい、そんな味だった。次に、ザワークラウトに手を伸ばす。鮮烈な酸味が口に広がる。思わず満足してため息を吐くと、生き返った脳が回りだした。


(よく雪の降る日には、ボルシチが待ってたよなぁ……)


 当時の贅沢な暮らしが思い出され、思わず涙があふれる。アツシはラビンスキーの突然の涙にどうしていいかわからず、不安そうに見つめている。それに気づいたラビンスキーは、涙を払い、はにかむように笑う。


「いやぁ、ちょっと、おふくろの味を思い出しただけだよ」


 ラビンスキーはそういって皿を持ち上げ、スープを飲み干す。皿を下ろすと、それを見て嬉しそうにするアツシのまばゆい笑顔が現れた。ラビンスキーは来てよかった、心底そう思った。


「おや?あの時の役人さんじゃありませんか?」


 唐突に声がする。ラビンスキーは振り返ると、その男の笑顔に思わずぞっとした。


「……!これは、これは。その節はどうも、お世話になりました」


「いいえ……あれ?その子は……」


 男はアツシに近づき、その頭をなでる。アツシは緊張したのか、顔を下に向けた。


「そうか、よかった。この人ならきっと大事に育ててくれるね」


 青い鎧、笑うと現れる白い歯、まばゆいばかりの美しい好青年。まさしく、シゲルその人だった。

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