シゲルという男1
四つの席が向かい合っているだけの狭い個室―狭く窮屈で殺風景だが、会議にはうってつけだったーで、都市衛生課の一行が、会議を開いていた。
「―と、いうわけで、私は乞食の職業教育を進めることで労働人口の減少にもある程度歯止めがかけられると予測しています」
ラビンスキーは一枚の粗末な紙切れびっしりに記された数字を提示する。一同は一枚しかない資料に群がり内容を確認している。ハンス、アレクセイ、ルカは同時に唸り、細かい数字の羅列に首をかしげる。ラビンスキーが唾をのむ。その音は静かな部屋では格別に目立って響いた。それでも、ラビンスキーはこれが納得のいく答えであると、自信をもって提示することが出来る。あらゆる方法でかき集めた資料は、単なる主観ではない。彼らが唸ったのも、決して悪い意味ではないという確信があった。雪解け水に沈むムスコールブルクの中心で、四人のしがない公僕たちはたった一枚の世界と真剣に語り合っていた。
「成る程……」
窓の向こうの傾く陽光を眺めながら、ロットバルトは答えた。モイラと話をした翌日に、ラビンスキーはロットバルトの家を訪ねていた。
床には鮮烈な赤の絨毯を敷き詰め、壁には繊細な銀細工を施された額縁に嵌め込まれた風景画が掛けられている。広くはないが丁寧に掃除された個室は、ほんのりと香草の良い香りが漂い、ろうそくが放つ獣脂の匂いも感じられなかった。
「乞食を労働力として活用できれば、人口流出による労働力の減少も抑えられるのではないかと」
シターンの調弦をする音が響く中、ラビンスキーは答えた。陽光に輝く塗装されたシターンが時折ポォン、と音を立て、ロットバルトはその度に何度も弦を調整する。静謐な個室にのどかに響く音は、多忙なロットバルトにとっての数少ない息抜きなのだという。
「……申し訳ないんだが、私は貴族、政治家だ。どうしてもブルジォワジー と関わらない手段はない。個人的な『施し』ならともかく、余り強力に支援できないかもしれない。乞食が労働ができると期待しても、奴隷まがいの仕事をさせられるのでは話にならないだろうしね」
「はい。そこで考えがあるのですが……孤児院を作る気はありませんか?」
ラビンスキーは意を決していうと、ロットバルトは弦を張り替えたばかりのシターンを壁に立てかけた。
「孤児院……か」
「はい。国家の方針として動くことが難しいならば、個人に働きかけるしかない。そこから、何十年でも、何百年でもかけて、国に影響を与えていくしかないのではないかと」
ロットバルトは結えた長い髪を揺らし、窓外の景色を見下ろした。大公領とは異なり、ロットバルトとルシウスの住まいからは広場は見えず、代わりに織物通りを歩く高貴な人々の様子が伺えた。つばの広い帽子と丈の長いドレスに身を包んだ貴婦人たちの通り過ぎる様を、ロットバルトは追いかけている。その目には羨望の色が伺えた。
「……あぁ。しかし、私も万能ではない。教会への寄付を通して孤児院への支援は為されているはずだ。私も徴税した一部を寄付する身だが、権力構造の異なる聖職者らに孤児院を建てさせるほどの財力も強制力もないよ」
「……そうですよね。失礼致しました。では……」
ラビンスキーは恭しく頭を下げる。その様子がどこかぎこちなく思われ、ロットバルトは眉を顰めた。
「孤児院の経営にかかわる人物を紹介いただくことはできませんか?」
ラビンスキーは声色を変えないで続ける。ロットバルトは流し目でラビンスキーを見る。廊下をバタバタと駆け回る音がして、ルシウスが起きたことが分かる。
「……わかった。狙いはそっちだな?誰を呼びたいのだ?」
ロットバルトは徐に机上の羊皮紙を取り出す。パピルスの焦げた匂いが漂い、蝋燭の残量が僅かであることが伺えた。
「青い鎧の勇者、シゲルという人物です」
ロットバルトの手が止まった。彼は羽ペンを静かに置くと顔を上げ、深い息を吐く。ラビンスキーが固唾を飲んで言葉を待っていると、ロットバルトは扉の向こうに声をかけた。
「おい、ルシウス、うるさいぞ。少しは静かにできないか?」
遠くから少年のすいませーんという声が響く。ルシウスの予定を気にかけて急いでいるのはむしろユウキの方だったらしい。ラビンスキーは何となく気が抜けて、肩の力を抜いた。
「……その人物の名には覚えがある。昔父が竜の盗伐に向かったときに、その男が随分と活躍したらしい。今は教会への寄付を大層頻繁にすることで有名だが、そこを通して組合に献金をしているという噂も聞く」
「マッツォ・ニーアですか?」
ロットバルトは頷いた。
「ビフロンスから聞いたのかな?彼は自分の持つ資料からしか調査ができないのだろう。教会への寄付に公証人は使わない。取引の記録は残らないし、組合も何をしているのか分からないような連中だ。真相は分からないが、記録に残るのは教会だけだよ」
「……成る程。それで、ビフロンスは初めに聞いたことのない名前、と言ったんですね」
「大人しく貴族になれば税はかからないものを、何故冒険者に固執するのかも分からないがね。シゲルとのコンタクトについては、コランド教会を通して会えるようにお願いしてみよう。そちらについては私の名前を使うより、アーロンの名が役に立つだろうが」
「いえ、有難うございます」
ラビンスキーは直角に頭を下げる。ロットバルトは鼻を鳴らすと、姿勢を戻してペンを取り、紹介状を書き始めた。
「アーロンは権力に弱いからね。いい部下を持ったよ」
ロットバルトは冗談めかして言う。ラビンスキーも微笑んで返した。
「アーロン卿と言えば、肥料の件でお世話になりました」
ロットバルトが羽ペンの先のインクを丁寧に払うと、微かに、インクのにおいが漂う。壁に掛けられたのどかな田園風景とは少々不釣り合いだ。ラビンスキーはその絵を見ると、思いついたように話し始めた。
「そういえば、モイラちゃんは元気ですか?」
ロットバルトは一瞬顔を上げ、モイラ?と聞き返したが、すぐに思い出してに視線を戻した。
「……あぁ。彼女は針子として働いているよ。ユウキが伝手を使って仕事を見つけてくれたらしい。……もっとも、やたら力仕事ばかり任されるらしいがね」
「……そうですか。それなら良かった」
ラビンスキーが安どの表情を浮かべるのに対して、ロットバルトは名残惜しそうに呟いた。
「……実のところね、私は彼を養子にして貴族と結婚してもらいたかったんだがね。モイラがいるなら止められないのだ」
ラビンスキーが意外そうに声を出すと、ロットバルトは少し間をあけて自嘲気味に笑った。
「私はとある事情から子供を産めないからね。血を残すことはルシウスにしかできないのだが……。あれは結婚する気もないだろう?あれがユウキを連れてきた時は少々驚いたが、この子が……いや、政略結婚と言われてしまうのだろうが……貴族と結ばれてくれれば、私たちの代で家の名が途切れるという心配はない。そう思って期待していたのだが、真に愛があるならば止められまい」
「……ロットバルト様は寛容なのですね」
ラビンスキーは素直にそう言ったのだが、ロットバルトには皮肉に聞こえたらしい。彼は小さく鼻を鳴らすと、見せつけるようにペンをインクに浸し、小さく呟いた。
「私はあくまで俗人に過ぎないのだ。権力は欲しいし、人に嫌われたくもない。ルシウスとは違うんだよ」
ラビンスキーは小さな罪悪感に苛まれる。壁に立てかけられたシターンは、責めるようにラビンスキーを見つめていた。
「いえ、そういう事では……」
「……すまない。仕事柄皮肉に慣れてしまっているのかもしれない」
ロットバルトは文章の校正を終えた後、羊皮紙に砂を撒き、暫くしてから砂を箒で払い集めると、封筒に入れた。最後に溶かした蝋で封をすると、立派な紋章が紙に浮かび上がった。ロットバルトはスミダにこれを預けると、再び紙を取り出して、今度はラビンスキーにこれを預けた。
「アーロンから返事が来てから、既定の日にこれを教会に見せればいい。案内してもらえるはずだ」
「はい、有難うございます。」
ラビンスキーは丁寧に頭を下げた。廊下の騒々しさも途切れ、静かな個室が戻ってくると、ロットバルトは再び窓の外を眺めた。ロットバルト邸の真下で紳士が淑女の腕に口づけをしている。鐘の音が城壁に反響して、町の隅々まで響き渡った。




