世界の端から4
村の人々の慌てた表情が、僕を涙もろくさせる。彼女が必死に担いで連れてきたのも、騒ぎの一因だったのだろう。僕らを探してひっきりなしに叫ぶ声が聞こえたときの感動は、分かってもらえるだろうか。
教会の神父が僕に向けて雷のブローチをかざし、治癒の祈りをささげる。体のあちこちが再生しようと蠢き始め、腹をのたうち回る痛みに耐えきれず、暫く白目をむいて倒れてしまっていた。
教会の一室のベッドで目が覚めたときには、既に西日が差していた。夕刻のヒンヤリとした埃の匂いに鼻がむず痒くなる。何よりも、僕のベッドで祈るように手を合わせながら眠る彼女の姿。無傷で、疲れ切って祈りの最中に眠ってしまった彼女が雷のペンダントを首にかけている。僕の為に教会の神父から譲ってもらったのかもしれない。
僕はその寝顔を何となく正視できなくなり、小さな窓の向こうに目を向けた。白い息が空へと消えていく。時祷書の中で見たような世界が、俯瞰できる。皮を鞣す女たち、狩りの道具を手入れする男たち、桑でいたずらに畑の土を耕す暇そうな中年男性……。皮と骨しか無かった人々の顔には、やんわりと肉が戻り始めていた。村長も必死に手紙を記し、次の種の注文の為に、あちこちの領主に頭を下げている。枯れ木のシルエットも、残った雪でキラキラと夕陽を映していた。
あの時、二人で逃げていたら、どうなったんだろう。……彼女を見捨てていたら、きっと後悔しただろう。後味の悪い唾が舌の上にたまる。それを飲み込むと、少しだけお腹が痛んだ。
「あ……ユウキ……私、寝ちゃってた……」
僕は彼女の方を向く。ほんのり赤みがかった頬に跡がついていて、何となく可愛らしい風に見える。僕は姿勢を正面に戻して、目を閉じた。
「ありがとう」
「こちらこそ、生きててくれて、ありがとう。迷惑かけて、ごめんなさい」
僕は微笑む。壁には蝋燭立てが悲しそうに主人を求めて立ち尽くし、暖炉の中の炭が誇らしげに燃えている。
「……僕はさ」
彼女はきょとんとして僕を見る。僕はそれを一瞥したあと、蝋燭立てを眺めながら続ける。
「何も信じられなくて。誰もが裏切るし、誰もが怒るし、誰もが痛めつける。だから僕も、信じない、受け入れない、関わらない、そうやって生きてきた。求めていたものは、大人たちの同情の混ざった視線でも、コロッセオに押し寄せた観客の視線でも、無条件に愛を与える聖母の微笑みでも、なんでもなかった。ただ……」
右目の視界が歪む。左目も曇って何も見えなくなる。耐えがたい嗚咽と共に、ぼろぼろと涙が零れた。
「普通に……扱ってほしかった」
「でも、普通じゃありません。だってユウキは、最高にかっこいい、私のヒーローなんです」
「うぅっ……くぅぅ……」
時間が流れる。雨が降る。人が死ぬ。太陽が昇る。季節が変わる。産声が聞こえる。雪が降る。否応なしに駆り立てられる刻限と、ありもしない永遠を「失った」感覚。悪魔の鏡が心に突き刺さり、何かに導かれるようにここにやってきた。
「明日、お迎えが見えるそうです。ムスコールブルクに戻ったら、ちゃんと、体を治してね」
「君はどうするの?」
僕がそう訊ねると、彼女は俯く。彼女一人で、生きていけるのか。それは、たぶん、無理なんだろうと気づいていた。
「一緒に行こう。君の心の隙間が、ぽっかり空いたところが、消えるまで、一緒にいよう。正直、僕もまだ、不安でたまらないんだ」
ルシウスも裏切るだろうか?ラビンスキーさんは?ロットバルト卿は?それは、わからない。何一つ、どれ一つ。一度心に突き刺さった悪魔の鏡は、氷柱が解けても消えることはない。信じられない。それがとても、怖い。
彼女はすすり泣きながら、努めて笑顔を作って見せた。
「自己紹介がまだでした。私の名前はモイラ。よろしく」
「よろしく」
僕らは涙をぬぐい、何となくうれしくなって笑いあう。顔も目も真っ赤にしながら、失くしたもののありかを探りあうように。
小さな窓は、地平線の向こうから茜色を切り取っていた。
村の人々が手を振る。名残惜しさと共に一月離れたムスコールブルクのことを思うと、少し恥ずかしいような、そんな気がした。馬車に揺られる間、ずっと村の遠ざかるさまを眺めていても、狼はもう現れない。ざぁ、という草の音と風の薫りに思わず見惚れてしまう。ぼんやりと口を開けたまま草のなびく様子を追いかけると、海に放り込まれたような錯覚に陥る。村の人々と明日の食事を求めて彷徨う毎日は、やっと終わったのだと、そこで初めて実感した。僕はモイラと二頭立ての豪華な馬車に揺られて、ムスコールブルクに戻ってきた。
懐かしい人の往来、黒ずんだ城壁を見たモイラがわぁっと声を上げる。ずっと村で見てきたものとは、月と鼈ほどの違いがあるのだろう。僕は馬車や犬ぞりが列をなして停まっているところを指さした。
「あそこが城門。関所で税を取ってるけど、貴族は特権で大丈夫」
「狡いです!」
モイラは退屈そうに欠伸をする商人たちの列を見ながら、如何にも不満そうに頬を膨らませる。
「はは……。まぁ、今の僕らはその狡い人扱いなんだけどね」
モイラは驚いて声も出ないらしかった。確かに、いっぱしの村娘が貴族扱いというのは、文言解釈上問題はありそうではある。
馬車は隊列を作る商人たちを尻目に、堂々と通り過ぎていく。兵士たちはロットバルト卿の紋章に
恭しく頭を下げる。
「……ユウキって、凄い人?」
「うん?うーん、凄い人の友達……?」
僕は適当に受け流す。ルシウスと生活を共にしていると、確かに金銭感覚が麻痺しそうになるが、別に僕がすごいわけではないはずだ。懐かしい雑踏とガタガタの石畳に、少しだけ安心する。但し、少し綺麗になったのか、空から落ちてきた汚物などが散乱しているということはなさそうだった。僕はラビンスキーさんを思い出して、自然と笑みが零れた。馬車はムスコール大公広場で、最も古臭い大学の前に停まった。
「お疲れ様でございました」
運転手が丁寧にあいさつをする。僕も頭を下げた。モイラは一瞬戸惑ったが、笑ってごまかした。僕はモイラをエスコートしながら馬車から降りる。眼前には懐かしいぼさぼさ頭の白衣の男が立っていた。
「ただいま」
ルシウスは満面の笑みで僕を抱く。薬品の臭いが鼻につく。
「お帰り。その子は?」
僕は彼女との一件を一通り話した。ルシウスは真剣そのもので耳を傾ける。モイラは落ち着きなくきょろきょろとしていた。
「そう、お疲れ様」
ルシウスは頭を掻く。僕は多少照れくさくなって目を逸らす。しかし、たまたまモイラと目が合って、思わず顔が赤くなった。
「うん」
「でも、やめてね。別に、やんちゃでもいいけどさ。僕を一人にしないでね」
「……うん」
懐かしい薬品の臭い、窮屈な空の低さ、根菜の切れ端を齧る乞食たち。ゴミを拾う八等官が僕に手を振る。僕は、何とか、帰ってこれたらしい。
やっと本篇へ戻ってきますね。




