世界の端から3
森の深緑は光の柱をほとんど拒み、独り占めしようと我先にと天へ伸びていく。木々の一本一本が大黒柱のように巨大で、横へ横へと伸ばされた枝は葉で天蓋を作り、吐く息の白さを隠すほど視界を奪う。巨木の根が張り巡らされた道にはヌルヌルとした苔が張り付き、陰気なキノコが首を垂れて乱立している。
村には共有地と呼ばれる所有権のない不動産があり、森の様々なものは人々が自由に取ることを許される。特に、木こりの狩った暖炉の薪などは重宝されている。一神教の国は得てして自然を支配する傾向が強いとされるが、人を最高の被造物とする地域ほど、その支配に躍起になる。修行の一環として開墾をする者達にとって大きな障害となるのは、村を飲み込まんばかりの不気味な森だ。森は、古くから狼などの有害生物が住みつき、畏怖の対象であって、物語では恐怖を植え付けるのに一役買っている。この森の管理の行き届いていない様は、この村が自由を獲得した代償かもしれなかった。
僕は息を切らし、右目を頼りに彼女を追いかける。森の中は入り組んでおり、迷子になってもおかしくないほどの有様だったが、時々目印を作って村への退路を確認する。いよいよ森が深くなると、右目がほとんど役に立たないほど視界が混濁を始めた。僕は索敵魔法に切り替えて人間の熱源を探りながら彼女を追いかけることにした。
彼女の速度は明らかに落ちてきており、終には熱源が動きを止める。迷子になってしまったことに気が付いているのか、時折熱源が揺れるように動きまわり、うろうろとしている様子がうかがえた。
とにかく、僕は目印を付けながら熱源を頼りに森の中を進む。かなり長いこと道を蛇行すると、やっと彼女が現れた。彼女は呆然と空を眺め、緑の天蓋がいつ落ちてくるのかと言わんばかりに、怯えていた。唇が震え、時折ふわりと靡く髪さえ、逆立っているように思えた。
「ちょっと!待ってって!」
息を切らして彼女に駆け寄る。あれだけ駆けまわって汗一つかかない彼女は、実はとんでもない傑物なのではないだろうか。
「私、どうしよう。おっとうもいないし、迷っちゃったし」
「とにかく村に戻ろう。道は目印置いておい……」
僕は思わず口を閉ざす。眼前に広がるのは緑の天蓋、太く丈夫な支柱、そして暗闇でもよく目立つ燃えるような深紅の瞳、巨大な爪と頑丈な顎、僕の十倍はあろうかという巨大な陰。間違いない、ジャバウォックだ。
「こっち!早く!」
僕は少女の手を引き、全速力で木の間を駆け抜ける。ぎろりとした巨大な目玉が僕たちをしっかりと捉えている。大きな顎から滝のような涎を垂らし、誇らしげに牙をのぞかせる。一拍おいて、歓喜にうずく奇声が空を割った。
なぜ、なぜ、何故!森が深まってからは、僕は常に索敵魔法を使っていたはずだ。地図がなく、正確な位置はわからずとも、怪物の巨体を視認することは容易なはずだ。まして気配を遮断することなど、あれだけの巨体にできるはずはない。
遍く巨木が小枝の様に踏みつぶされる。ジャバウォックは飛び散る唾液を風にのせてあちこちに飛散させつつ、一心不乱に僕らに向かう。森は一歩進むごとに地響きを上げ、炯炯と滾る眼が徐々に僕らへと近づいてくる。
「くそ、くそ、くそ!どうする!どうする!?」
「あ、あの!」
「待って、今考える!考えてる!」
僕は彼女の言葉を遮る。右の目をやっとジャバウォックの視界に切り替え、目印を頼りに走りながら、頭を巡らせる。
「あれはどうすれば退治できるんですか?」
「退治は無理!だから考えてる!」
ジャバウォックの皮膚は非常に厚く、僕の短剣では傷一つ付けられない。当然だが圧倒的な歩幅の差でじきに追いつかれる。二人仲良く食べられるか、一人だけでも生き残るかなら、断然後者がいい。僕は彼女を強引に前に引っ張り出し、手を離す。姿勢を低く保ち、腰からダガ―を引き抜いた。
「ごめん、先行ってて!」
「でも!」
彼女は立ち止る。ジャバウォックは巨体を揺らしながら迫ってくる。
「行ってて!何とかする!」
「必ず!帰ってきてくださいね!」
彼女が走り去る音がする。ジャバウォックは既にかなりの至近距離まで迫ってきていた。
これでいい、これでいいんだ。覚悟を決めろ、悠木拓真。僕一人で済むなら、望むところじゃないか!僕は右目の視線を確認しながら、呼吸を整える。左の目で彼の隙を狙う。
考えろ、どこか、あるはずだ。皮膚が薄いところが。思考を巡らす。ジャバウォックの牙が目前まで迫り、何とか体全体を使ってかわす。彼は勢いを消すために尻尾をふるい、大きくUターンする。尻尾が慣性で大きく折れ曲がり、風圧に思わず姿勢を崩す。彼は再び勢いよく牙をむく。
ド、ド、ド……巨体が地面を揺らすたびに、心臓の鼓動が速くなる。第二撃も、何とかかわし終えた。
しかし、このままずっとというわけにはいかない。すでにギリギリでかわしているのに、距離はだんだん近くなり、右目で彼の動きを把握することも困難になっていく。尻尾がいつ当たるかもわからない。僕は額一杯に汗をかきながら、左目を懸命に動かす。動きを止める、それだけでいい。
どこか、弱いところを―
巨大な爪が迫る中、次第に鮮明になるヴィジョンを綿密につなぎ合わせる。たった一つ、弱点があるとすれば、それは丸裸のそこしかない。
(覚悟を決めろ!)
僕は目を大きく見開き、予備のダガ―を両手に持つ。動きを止め、彼が近づく瞬間を狙う。
ただ一刃、ただ一刃でいい。猛進する彼が目前に迫り、炯々と燃える瞳をぎょろりと近づける。
(今だ!)
僕の非力な投擲は正しく彼の左の目玉を貫く。彼の悲鳴とともに、ばたつかせた尻尾が思い切り僕の腹に命中する。抵抗することなど許されず、尻尾のしなるがままに体を大木にたたきつけられた。鮮烈な痛みとともに、左目がぐるりと一周する。右目はゆっくりと旋回し、僕に照準を合わせる。まずは、一つ。
僕は体を起こそうとするが、激痛で起きられない。腹はぐちゃぐちゃにかき乱され、今にも吐きそうだし、腰は骨が砕かれたのか、少しでも揺らそうものなら崩れ落ちてしまいそうだった。
そんなことは気にも留めず、ジャバウォックは迫ってくる。ドスドスと足音を鳴らし、泥をまき散らしながら。僕はうまく機能していない三半規管を無視し、右目の視線を頼りにダガ―を投げた。
(なるように、なれ!)
僕は目を瞑り、ダガ―の風を切る音をに耳を傾ける。速度は良好、狙いはいまいち。ジャバウォックが本能でよければそれで終わりだ。地面から伝わる振動は止まらず、腰と腹を痛めつける。最早体がどこ一ついうことを利かない僕は、そのまま小さくため息を漏らす。
上出来じゃないか、時間は稼いだ。薄れゆく意識の中、ぐるぐるとのたうち回るジャバウォックの動きだけが僕を最後まで痛めつけていた。
のっそのっそと、息を切らして歩く音がする。振動が腰にひどく響き、動くたびに吐きそうになる。僕は背負われるままぐったりとしていた。体躯は僕と大して変わらない、亜麻色の髪の毛が僕の頬をかすめる。
「かっこ悪い……」
僕は虚ろな目を背中から逸らしながら呟く。少女は息を切らしながらも、僕の残した目印を頼りに、着実に歩を進めている。
「……たは。かっこよかったです、よ」
「どこがさ……散々大見得切った割には、中途半端に生き残ってさ……。しかも、女の子に運ばれる始末だ」
結局彼女は、すぐに戻ってきたらしかった。血まみれの僕とのたうち回るジャバウォックの姿に戦慄を覚えたそうだが、僕が小さく息をしていることに気付くと、すぐに担ぎ上げてここまで逃げてきたらしい。僕は結局、文字通り助けられたわけだ。
深夜の星々が緑の天蓋を照らす。月のほのかな明かりが葉の隙間から零れ、木の根っこの輪郭をかすかに視認することができる。彼女は慎重に足元を確認しながら、ポニーテールを揺らした。
「……私、お父さんが死んでたの、少し前から気づいてたの。でも、さ。信じられなかった。……いや、信じたくなかったんだぁ」
僕は変わり映えのない大木の表皮を眺めながら、腰の激痛を何とか飲み込んだ。
「……うん。僕は正直、君が殺したんだろうなって疑ってた、ごめん」
「たは、無理もないです。あんな怪しいものに騙されて、あまつさえ死骸の世話をするわっぱのこと、誰も信じないですよ」
森がゆっくりと開けてくる。苔の生した石に、月光がよく映えるようになった。
「もしも、あれを見ていなかったら、きっと私、お父さんと一緒に眠ってたんだろうなぁって」
言葉が出なかった。激痛も勿論だが、余りにも悲しい話だ。彼女は一拍おいてから、大きな息を吐き、でもね、と続けた。
「……でもね、貴方が来てくれたから、やっと気づいた。結局私、もっと長生きしたいんだなって。自分で死ぬ勇気がなかったから、ずっとあんなこと、繰り返してたんだもの。貴方が、ジャバウォックに立ち向かっていく後姿がさ、益々、そういう気持ちを強くさせた。だから」
唾をのむ音。僕を必死に担ぎ上げた首筋に汗が滴る。森の木々が疎らになり、外の光がはっきりと広がり始めた。
「ユウキには、生きてもらわなきゃ」
やがて満天の星空が僕らを出迎え、凹凸の少ない丘から、村が見えるところまでやってきた。
「うぅっ……くぅぅ……」
僕は嗚咽を飲み込もうとして、妙な声を出した。
「泣いてる?」
「泣いたって、いいじゃん……」
「たは、んだ。んだ。」
彼女はゆっくりと、暖かな光のある方へ向かって歩き始めた。教会の鐘楼が、何となく、心強く見えた。
戦闘描写難しい……難しくない?




