世界の端から2
人々はいつだって夢を見る。どの世界でも、思考を持つ生き物は、理性と理想を恥じることもなく、高らかに語る。一方的な聖人と、遍く空を覆う物語、形のないものへ対する畏怖と敬愛や、見えるはずのない赤い糸。僕はどれも馬鹿らしいと思う。この世に存在するものは、肉眼で見えるものだけではないけれど、見えることの絶対にないものは、この世には存在しない。心も、信頼も、親愛も、友情も。ただ人は、周囲に「ある」ことに安息するし、「なくなる」ことを恐れる。そのために集まり、創り、祈り、目覚める。
換気のいらない庭で、歪な皿の草を擦りつぶしたものを、手で仰ぐようにして嗅ぐ。臭いそのものは草と相違ないが、つんとするような刺激が微かに鼻を通り過ぎる。目を閉じて、思索に耽る。
毒草かどうか、それを訊ねられてわかるほどの知識は持ち合わせていない。しかし、この草を擦った際の彼女の表情から察するに、彼女は何らかの成分に反応を起こしていたのだろう。緊張から、ということも考えられるが、恐らくそれは考慮しなくてもいい。僕に見せなければいいからだ。彼女が悪意であれば、堂々と毒草を飲ませる姿を見せるほど、愚かとは思えない。
僕は何気なく自分の手を見る。火照ったようにほんのりと赤くなり、皮が捲れている。続いてそれに祈りをささげる彼女の手を見る。赤く豆だらけなだけでなく、皮が酷く捲れていた。
「……皮膚に作用するのか」
「……。皮膚に?」
彼女は僕に聞き返す。僕は頷き、自分の手を見ながら答えた。
「うん、君の手が荒れてるから。僕の皮もなんか、捲れた」
彼女は僕の手を見つめる。何となく親指と中指の先を擦り合わせると、表皮の捲れる嫌な感触がした。
「お父さんは、皮膚は、大丈夫?」
彼女は天を仰ぐ。
「……口の周りが荒れている。あと、お腹が痛いっていう。」
「お腹と口、ね」
この毒草が少なくとも皮膚には作用すること、また、服用すればお腹に作用する可能性があることも分かった。僕は廃屋の壁にもたれかかる。ぎしぃ、と鈍い音が響いたので、慌てて背筋を伸ばした。
「お父さんは、初めは何ともないって笑ってたんだけど……どんどん痩せて、元気がなくなって……最近は、口もきいてくれない。何も食べてくれないの……」
「お札や祈りは効かない。これは神の裁きとか、悪魔の呪いとかの類じゃない。少し、明かりを貰えるかな?お父さんを見れば、何かわかるかも」
彼女は頷く。僕らは立ち上がり、再び軋む扉を開く。深い森の中のような薄暗さの中で目を凝らすと、彼女が竈に向かって行ったことが分かる。
「今、火、起こすね」
彼女はそう言って火打石を二、三度叩き、火花を火口に移す。ゆっくりと燃え上がった火口を丁寧に綿で包み、空気を入れるために優しく吹き込む。火が大きくなったら竈に火をつけ、傍のトーチを引っ張り出して火を移す。あまりの手際の良さに驚いた。
「できたよ」
僕にトーチを手渡す。僕はそれを受け取り、父親のいるところへ向かう。火の粉が散れば乾燥した廃屋は火災に遭うかもしれない。足元を気にしながら慎重に進む。茫々と燃える木の焦げた匂いが独特の刺激臭を誤魔化すのに役に立った。父親のくぼんだ顔が浮かぶ。足元に体が触れたらしかった。僕はトーチを近づける。
「……!」
言葉が出なかった。僕は呆然と父親の姿を見おろす。異変に気付いた彼女が不思議そうに立ち上がる。僕は声を荒げた。
「来るな!これは、だめだ!」
「……え?」
顔を乗り出そうとする彼女に、鬼の形相で叫ぶ。
「見るな!」
僕は眼前の有機物を足元から順に視線でなぞる。初めに焔にたかる蠅の類が眼前を飛びぬけていき、足先にはジュクジュクした腫物が無数に広がっている。脚を蝕む斑模様が徐々に広がって、服にはこびりついた腐乱臭がまとわりつく。昔から細かったのであろうカピカピの手は、死神に生気を吸われたように病的に細く、浮かび上がった血管と骨が、トーチの光が手の甲の隅々まで至るのを防いでいる。彫が深く青白かった顔には、貼り付けられたような皮膚と目玉のしぼんだ様が異様な影を与えている。削ぎ落された頬など序の口で、口の周りは荒れ果てたというよりはものを育てすぎた畑のように干ばつを起こし、赤々と口周りを囲う出来物はほとんど新たな生命が生まれているようですらあった。
「答えろ!食事はいつから摂らなくなった!?今までの薬はどうした!?どこでこの人は死んだ!」
「あ、う、死……?噓、嘘だ!嘘はやめ……」
彼女は僕の制止を振り払い、トーチの向こうを見て言葉を失う。急速に寒くなった廃屋に、ぼた雪が降りこんでくる。
「あ……れ……?おっとう!おっとう!嘘、嘘!」
彼女は何度も父親の肩をゆする。
「落ち着け!僕の、質問に……!」
「うあぁぁぁぁぁ!」
彼女は奇声を上げて家を飛び出す。先ほどのそれとは比較にならないほど、大きな喚き声が村中に響き渡る。
「あぁ、もう!」
僕は変わり果てた死骸を置いて、彼女を追いかけた。彼女は風を切り、村人たちを突っ撥ねて、鐘楼を通り過ぎる。あまりの速さに追いつけず、ずんずんと離されてしまう。僕は息を切らしながら必死に右目を摩る。右目は焦点も定まらぬまま村を突き抜け、柵を飛び越えて、森の深淵へと向かって行った。




