第十七話 ただいま、魔王城
カン、カン、カン、と澄んだ金属音が、雲一つない青空へと心地よく響き渡っていた。
魔王城が世界意思によって正式な一級特区都市『ローゼンバーグ・ホームティア』として認定されてから、数ヶ月が流れていた。
かつて不気味な魔霧が立ち込め、人間を容赦なく拒絶していた最凶ダンジョンの面影は、今のこの場所には、影も形も残っていない。
「アルカお姉ちゃん、領主さまー! 見て見て、ミナ、新しい学校でテスト満点取ったの!」
新しく整備された石畳の広場を、魔族の少女ミナが学校の紙を掲げて元気に走り回る。
「ゴブゴブ!(ミナちゃん、すごいな! これ、お祝いの焼き立てパンだ!)」
商店街の入り口では、すっかり人間の服が板についたゴブリンのパン職人が、人間の行商人と笑顔で談笑しながら、ミナに香ばしいパンを手渡していた。
広場を囲むように並ぶのは、アルカの指導のもとで住民たちが共同で建てた、美しい木骨レンガ造りの家々。
人間、魔族、亜人、そして魔物――。
かつて世界のどこにも居場所のなかった者たちが、お互いの違いを認め合い、寄り添って笑い合う、世界で一番温かい『理想のユートピア』が、この最果ての地に完全に完成していた。
「……はぁ。本当に、とんでもない大都市になってしまいましたね。私の計算を遥かに超える人口増加率(拡張ログ)です」
城の正面テラスの手すりに寄りかかり、広場の賑わいを見下ろしながら、アルカはそっと息を吐いた。
彼女の腰の工具ベルトには、数ヶ月に及ぶ大車輪の街づくり(周辺の橋、道路、学校、宿場町の一斉建設)によって、すっかり年季の入った魔導木槌が揺れている。
「あら、嬉しくないのかしら? これだけたくさんの人々が、あなたの作った安全な建物を『我が家』と呼んで、毎日笑って暮らしているのよ? 世界一の天才建築士さん」
背後から、心地よい薔薇の甘い香りと共に、エレノアが歩み寄ってきた。
彼女が身にまとっているのは、擦り切れた黒いドレスではない。
城内のテキスタイル工房の人間と魔物が、新領主であるエレノアへの感謝を込めて織り上げた、深い青色の一流の領主服だった。
しかし、その佇まいにあった傲慢な気配は消え失せ、今の彼女の瞳には、包み込むような本物の慈愛と強さが宿っていた。
「嬉しいに決まっています。職人として、これ以上の栄誉はありませんから」
アルカは振り返り、エレノアの美しい青い瞳を見つめて、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「……ただ、私の可愛い雇い主様が、次から次へと突拍子もない拡張オーダーを出してくるせいで、お抱え建築士の休日が『構造的(完全)』に消滅していることだけが計算違いです」
「ふふ、人使いの荒い領主で悪かったわね。でも、文句を言いながら、私の思い描いた理想をいつも百分の一ミリの狂いもなく完璧に形にしてくれるのは、あなたしかいないもの」
エレノアはアルカの隣に並ぶと、手すりに細い腕を預け、同じように広場を見下ろした。
二人の肩が、すとん、と当たり、当たり前のように馴染む。
「ねえ、アルカ。私ね、今朝、王都の最高法廷から正式な書状を受け取ったのよ」
「ほう。また古い貴族たちの嫌がらせですか?」
アルカが眉をひそめる。
「いいえ。……ガルトナー侯爵家をはじめとする、私を陥れた貴族たちが、汚職と違法建築(裏金の隠し部屋建設)の罪で、中央建築組合から永久追放されたんですって。そして、王都の最高法廷は、我がローゼンバーグ領の完全な独立権と、この街の存在を正式に認めざるを得なくなったわ」
エレノアは、長年の因縁が完全に解けた解放感に、心からの晴れやかな笑みを浮かべた。
「私たちが、法律と絆の力で、王都のすべての古いルールに完全勝利(劇的ビフォーアフター)したのよ、アルカ!」
「当然です。世界意思の定めた迷宮建築法を完全クリアした我が街に、人間の都合のいい法律が勝てるわけがありません」
アルカは誇らしげに胸を張った。
☆
夕方になり、広場の家々に温かい魔導ランプの灯りが一つ、また一つと灯り始め、商店街からは晩ご飯のたまらなく美味しそうな匂いが漂ってきた。
一日の仕事を終えた住民たちが、口々に「ただいま」「お疲れ様」と声を掛け合いながら、それぞれの温かい我が家へと帰っていく。
「さあ、私たちも、私たちの『家』へ帰りましょう、アルカ」
エレノアはアルカの右手を、自分の両手でぎゅっと包み込んだ。
「ええ。そうですね」
二人はしっかりと手を繋ぎ、最上層にある『二人の寝室』へと戻ってきた。
増築したその部屋は、相変わらず温かい黄金の光に満ち、部屋の中央には、二人の境界線を完全に無くした、ふかふかの特製マリッジサイズベッドが鎮座している。
部屋に入ると、エレノアは領主の上着を脱ぎ、ベッドの縁へと腰掛けた。
そして、自分の持っていた大きな羊皮紙の図面を、ベッドの上に広げた。
「アルカ、さっそく次の新しい仕事をオーダーしたいのだけれど」
「え? ちょっと待ってください、エレノア様」
アルカは驚いて、慌てて魔導測定器を起動した。
「この寝室は、法第百三十条の生涯同居基準を完璧に満たしていますよ? 構造的にも、二人のパーソナルスペースの共有率も100パーセントです。一体どこを直す(リフォームする)と言うのですか?」
不思議そうに覗き込んでくるアルカに対し、エレノアは顔をぽっとリンゴのように真っ赤に染め上げながら、広げた図面の「ある区画」を指差した。
「ここよ、アルカ。……このお部屋、二人でずっと暮らすには完璧だけれど……私たちの『これからの未来』のためには、少し、狭くないかしら?」
「未来、ですか?」
「そうよ。この数ヶ月で、街にはたくさんの新しい住人が増えたわ。人間も、魔物も、みんな家族を作って、新しい家を建てている。……だから、私たちだって、ずっとこのまま立ち止まっているわけにはいかないでしょう?」
エレノアは立ち上がり、アルカの作業着の胸元を、きゅっと、愛おしそうに両手で握りしめた。
濡れたような青い瞳が、至近距離からアルカを真っ直ぐに見つめる。
「私、あなたと出会って、本当の『家』の意味を知ったわ。そして、これからはもっともっと、あなたとの未来を大きく、深く、頑丈に築いていきたいの。……だから、アルカ。この部屋の隣に、もう一つ、小さくて可愛い『子ども部屋』を増築する設計図を、今から一緒に引いてくれないかしら?」
「――っ!」
エレノアの、はっきりとした、生涯を共にする恋人(家族)としての、究極の未来のオーダー。
アルカの脳内構造計算が、今度こそ完全に限界を突破して、頭から漫画のように湯気が吹き出た。
「こ、子ども部屋……っ!? つ、つまり、それって……ミナとは別に、私たちの本当の、その……家族を、もっと増やすという……生涯設計の大改修ですか……!?」
「だ、だから、何回もストレートに言い換えなくていいって言っているでしょう、バカ建築士!」
エレノアは顔を真っ赤にしてアルカの胸をポカポカと叩いたが、すぐに諦めたように動きを止め、アルカの首筋に両腕を回して、ぎゅっと、その細い体を抱きしめた。
「……嫌、かしら? 法律に、そんな増築はダメだって書いてある?」
耳元で囁かれる、エレノアの愛おしすぎる吐息。
アルカは、もう自分の心臓の爆音を隠すのをやめた。
彼女は、自分にしがみつく愛おしい領主令嬢の細い腰を、自分の両腕で、これまでにないほど優しく、そして絶対に離さないという強い力で、ぎゅっと抱き返した。
「……いいえ。迷宮建築法、第百四十五条」
アルカはエレノアの金髪の縦ロールに顔を埋めながら、耳元で、心からの愛を込めて囁き返した。
「『生涯を共にする二人の愛が最高潮に達した場合、その未来を紡ぐためのすべての増築・拡張計画は、世界意思によって無条件で最優先承認される』。……完璧な合法です、エレノア様。いいえ――私の、最愛の奥様(施主様)」
「――っ!」
今度はエレノアが、アルカの直球すぎる言葉に胸を撃ち抜かれ、顔を真っ赤にしてアルカの胸に深く顔を埋めた。
「……もう、本当にあなたには敵わないわ、アルカ」
「プロですから。あなたの理想の未来は、すべて私が形にします」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、小さく、幸せそうに笑い合った。
そして、繋いだ手と手を離さないまま、ベッドの上に広げられた未来の図面へと、二人の新しい羽ペンを同時に走らせ始めるのだった。
☆
夜が更け、魔王城『ローゼンバーグ・ホームティア』は、満天の星空の下で静かに息づいていた。
白銀のダイヤモンド城門は、外からの邪悪な敵を完全にシャットアウトし、地下の食堂からは、明日の美味しいご飯の仕込みの匂いが漂い、西側城壁の長屋では、ゴブリンやコボルトたちが暖炉の周りで幸せそうに眠り、商店街の灯りは、新しくこの街へ辿り着いた迷い人たちを、優しく迎え入れるための道標となっていた。
かつて、百年もの間、誰にも住めないと言われ、世界から見捨てられていた最凶の魔王城。
それは、融通の利かない天才建築士の少女と、すべてを失った没落令嬢の出会いによって、世界のどこにも居場所のなかったすべての者たちが、安心して眠り、笑い合える、世界一温かい「ただいま」の街へと、美しく、奇跡的な劇的ビフォーアフターを遂げた。
そして、その街の中心にある暖かい部屋の窓辺で、二人の十代の少女は、新しく書き加えられた未来の設計図を見つめながら、愛おしそうに誓い合う。
これからどんな嵐が来ようとも、どんな新しい壁が立ちはだかろうとも。
法律と木槌、そして、生涯を共にするこの強固な絆(クソデカ感情)があれば、二人の「家」は、どこまでも大きく、どこまでも優しく、未来永劫、建ち続けていくのだということを。
「ただいま、魔王城。……そして、これからもよろしくね、アルカ」
「おかえりなさい、エレノア様。……私の、世界でたった一つの、帰る場所」
星空の光に包まれた寝室の中で、二人の少女の影がゆっくりと重なり、最も甘く、最も完璧な噛み合わせ(キス)の音を立てて、二人の物語は、永遠の幸福へと定着されたのだった。
(第一部、完)




