4.黒霞の異形
ごろっ
首が地面で転がる。
その表情は、まるで化け物でも見たかのような驚愕のそれであった。
村人たちから悲鳴が上がる。
葛貫はしかし、この事態に尻込することなく、開け放たれた舘の戸へ向かい跳躍していた。
たしかに葛貫の耳には聞こえたのだ。
首が宙を飛んだそのときに、小さな泣き声が一つ、あの暗闇の中から響いた。
だんっ
暗闇へと飛び込むと、葛貫の周りを取り囲む黒い霞がぼうっと四散した。
屋内を見渡すに、敵と思われる者の姿はどこにもない。
葛貫は勢い家の奥屋につながる板襖を、両手でたたんと開いて次の間へ入る。
と、臭気が鼻腔を刺激した。
「なんだ」
草履に嫌な感覚を憶えて足元を見下ろす。
そこは床一面に広がる血溜まりの上だった。
「っ――」
驚くが、怯えはしない。
戦場ではこの程度の惨劇など当たり前の出来事だ。
「これは霞谷一人のものではないな。しかも新しい」
おそらくつい今しがた、大人四、五人がこの場所で殺されたのだろう。
家人は皆殺しだろうか。
しかし、奇怪なことに、死体がどこにも無い。
更に奇怪なことは、この惨劇を実行した犯人、そして霞谷の首を投げ捨てた者の姿もどこにもない。
そしてあの声は、どこからの発せられたか――
ぴちゃり
と血が滴る音を聞いて、葛貫は全身の神経を研ぎ澄ます。
霞川のせせらぎと大気の流れる音の狭間に、わずかな音の揺らぎを聞き当てる。
「床下か」
葛貫は板床を一巡、見渡して、かすかに浮いた板を見つけると、それを踵で力いっぱい蹴り落とした。
がんっ
蹴られた床板が、根太にはじかれて宙に浮き上がった。
葛貫の目には床下にうずくまる小さな人影。
「子供っ―」
その間隙。
部屋の四隅に沸いたどす黒い影が、まるで生き物のように、飛び跳ねて葛貫に四方から襲い掛かった。
影の切っ先は目貫の様に鋭く尖って、葛貫の眉間と米噛の真芯を捉えてそれを一気にざんっと貫く。
しかし四つの影が貫いたものは葛貫が蹴り上げた床板だけだった。
宙空へ跳躍した葛貫は、砕けた床板の破片を掴むと、その鋭い破先を床下の子供へと這い寄ろうとしている黒い染みのような影へ向けて突き立てた。
ざくりと確かに生物の身を貫く感触が両の手に伝わる。
「仕留めたかっ」
しかし葛貫の叫びに抗うごとく、突如部屋中の黒い影は、胞子にような無数の塊となって、ぶわりっと宙に沸き立った。
「なんと」
そしてその無数の黒い影は、葛貫の周りを旋廻し始める。
やがて旋風のごとく風が巻き起こり、部屋のあらゆるものをなぎ払う。
葛貫はただ風のなかで身体が持っていかれない様にじっとすることしかできなった。
影の群れはそのまま、天井の板葺き屋根をごうごうと吹き飛ばしたかと思うと、一丸となって屋根の外へと飛び去って行ってしまった。
後にはただ一切合切がなぎ倒され瓦礫と化した家の中に一人、葛貫が立ち尽くすだけだった。
「一体、これはなんなのだ」
百戦錬磨の葛貫といえど今しがたおこった出来事には成すすべもなかった。
もはやこれは人のなせる業ではない。
「ああっ」
ちいさな嗚咽を聞いて、はたと我に帰った葛貫は床下の子供のことを思い出す。
あわて、瓦礫を掻き分けて、床下をのぞくと、年のころ十ばかりの幼い少女が、膝をかかえて、両目からぼろぼろと涙をこぼしながらも、声を上げるまいと唇を噛んで我慢している姿がそこにはあった。
葛貫はこの少女が最後まで家人に大切にされていた事を悟り、また幼いながらもその類まれなる胆力に驚きを隠せなかった。
「童。全て終わったぞ、手を貸せ。そこから出してやる」
少女は戸惑いながらも震える手を葛貫のほうへと差し出した。
葛貫は幼い体を抱え上げ、瓦礫の外へと這い出すと、とにかく崩壊した舘の外へ向かった。
舘の周りで様子を伺っていた村人たちは、葛貫たちが中から出てくるのを見ると、わらわらとその周りに集まってきた。
「おおっ。おひいさま、無事じゃったか。おお」
先ほどの老婆は、少女の顔に節くれだった両手を近づけながら涙を浮かべている。
葛貫はそんな老婆のほうへ向き直り、改めて口を開いた。
「媼、聞かせてはくれぬか。あれは一体何だ。この地で何が起きている」