5.滾山の怪異
火が熾された囲炉裏を郷の古老たちと葛貫九郎、そして老婆に抱かれ眠る霞谷和比人の娘が囲んだ。
葛貫が館の中で起きたことの顛末を語り終えると、古老たちは「やはり」と頷きあった。
老婆は葛貫に向き直って口を開く。
「滾山という山があるのです――」
曰く滾山は、江濃越、三州の国ノ境を成す大山の名であり、その孤立峻険なる山容から古くより神奈備の地として在郷の民の崇敬を集める霊峰なのだという。
そしてまた霞谷郷の内を流れる霞川の源流となる雪解け水を運ぶ山でもある。
この滾山に、人を食う大蛇が住みついたのは古く景行朝とも天武朝とも言われるが、実際のところは定かではない。
ともかく滾山の山深い地に口を広げる大きな洞穴に居を定めたこの大蛇は、山へ分け入る猟師や修験者、山師、木地師達を次々と丸呑みにした。
大蛇の噂は次第に一帯に広がり、郷人たちが恐れて山へ入らなくなると、大蛇は時折飢えを満たすためその巨躯を夜陰に溶かして山を下り、村々を襲って人を掠めた。
こうして幾歳の間、人を食い続けるうちに大蛇の体躯はさらに大きくなり、もはや蛇とは思えないほどの巨体となり果て、人々もかの大蛇を「滾山の蟒蛇」と畏怖した。
時が降って円融天皇の御世になると、滾山での事はついに朝廷の知る所となる。
この時朝堂の政を差配していた堀川の相国は、その対応に苦慮し、当世随一の天文博士・賀茂主計頭を用いて濃州の大蛇について卜占させた。
主計頭は、七日の祈祷の後、「六世百禍の父 楽広の蛇影 抱柱の信に霧散す」との託宣を告げた。
堀川殿、大蛇が百禍の元凶となることを恐れ、大蛇討伐の旨を奏上し、許されて神剣「大蛇麁正」を下賜される。
かくして、堀川殿は陣定において甥であり、武名高き多武峰少将入道の子・藤原右兵衛尉高尹なる者に手勢五十騎と大蛇麁正を与えて滾山へ向かわせることにした。
藤原右兵衛尉は手勢とともに京を出立し、霞谷郷へと下って数日の逗留の後、その足で意気揚々と滾山へと入山した。
そして、入山の十日後。
霞川の川面が、血のような朱色に染まり霞谷郷の里人を驚かせた。
右兵衛尉がついに蟒蛇を屠ったのだと声高に訴える者もいれば、蟒蛇が五十一人の武者を喰らっているのだと嘆くものもいた。
霞川の水はその後二十日の間真っ赤に染まりつづけた。
そして川の水がようやく元の清らかさを取り戻した頃。
うだるような暑い夏の夜。
滾山の麓のとある村で、母親とともに眠っていた幼な子の首から下が、朝になって跡形もなく消えてなくなっていたという奇怪な事件が起こる。
人々はようやくこの時、右兵衛尉の蟒蛇退治が失敗に終わったのだと悟った。
時の濃州国衙は事の重大さに鑑み、滾山に通じる全ての道に土を盛り固め、さらには道切の注連縄を山裾にぐるりと何重にも張りめぐらし、山ごと不入神域として封印を施した。
無論、そのような策で蟒蛇の跳梁を全て防ぐことなど出来はしないと誰もがわかっていた。
蟒蛇はそれからも三月に一度、新月の夜に必ず夜陰に溶けて封印の箍を破り、里へ下って跋扈した。
正に賀茂主計頭の卜占の如く、この厄いはその後何代にも渡り三州に百禍を齎し、村々の人家は廃れ、田畑は枯れ荒み、誰もが恐怖と悲しみの中で生きることしかできなかった。
そして六代の御世が廻った。




