第一話 1枠
わたしが最初に人を売ったのは、17歳の6月だった。
その3か月前、わたしはまだ、自分をいい人だと思っていた。
思っていた、というより、疑ったことがなかった。疑う理由が一度もなかったからだ。
3月4日、進路指導室の前に指定校推薦の一覧が貼り出された。
A3が4枚。大学名、学部、募集人員、必要な評定平均。それだけの表なのに、貼り出される10分前から人が集まっていた。
わたしは3枚目の右下を見た。
早瀬大学 経済学部 1名 評定平均4.3以上
1名。
去年は2名だった。おととしも2名だった。3年分の掲示を、わたしは覚えている。
「減ってる」
神谷楓が横に来た。
「うん」
「なんで減るの」
「去年の人が、1年で辞めたって」
「うわ」楓は笑った。「1人のせいで、枠が半分になるんだ」
そう言って、楓はわたしを見た。
「澪、出すよね」
「たぶん」
「たぶんって」
「まだわからない」
嘘だった。わたしは1年生の6月から、この1枠のために評定を積んでいる。
楓とは、中学1年から一緒だった。
わたしが中学に入って最初の1か月、誰とも話せなかったとき、隣の席から話しかけてきたのが楓だった。話しかけてきた、というより、返事を待たずに喋り続けていた。3週間そうしていて、4週目にわたしが返事をした。
高校の受験も一緒に決めた。志望校を南陵にしたのは楓が「制服がまし」と言ったからで、わたしは他の理由を持っていなかった。
去年の秋、わたしがインフルエンザで5日休んだとき、楓は5日分のノートを全部コピーして持ってきた。数学だけ、自分の書き込みを消して持ってきた。
「なんで消したの」
「わたしの解き方、たぶん間違ってるから」
そういう子だった。
今もそういう子だと、わたしは3月の時点では思っていた。
わたしの評定平均は4.6だった。2年の2学期までの通算で、学年で3番目。
1番と2番は国公立志望で、指定校推薦を使わない。学校側もそれを知っている。
使う可能性があるのは、4番目だった。
楓は4.5。
0.1差だ。
科目にすると、2つ分だ。2つの科目で4が5になれば、それだけでひっくり返る。
「わたしは無理だよ」
楓は言った。
「4.5あるでしょ」
「4.3以上って書いてあるじゃん。条件は満たしてても、1枠なら上が取るんだよ」
「わからないよ」
「わかるって」楓は言った。「わたし、数学が4なの。3年で5にするのは無理」
楓は笑っていた。わたしも笑った。
そのとき、わたしは安心していた。
安心した、というのが正確なところだ。友達が自分から降りてくれたことに、わたしは安心していた。
わたしは1年の6月から、評定を積むという言い方をしていた。
積むというのは、こういうことだ。
定期考査は当然として、提出物は期限の2日前に出す。授業中の挙手は1時間に1回。多すぎると印象が悪い。少ないと記録に残らない。実技科目は特に落とさない。美術と家庭科は、上位層が油断するから差がつく。
1年の3学期に、音楽で4を取った。合唱のパート練習で欠席が1回あった。塾の面談と重なっていた。
その1回で、通算の平均が0.05下がった。
わたしはそれ以来、塾の面談を日曜に変えた。
こういうことを、わたしは2年近くやってきた。
やってきたことを、誰にも話したことはない。話すと、こういう人間だと思われるからだ。
こういう人間なのに。
その日、進路指導室で評定分布の一覧を印刷してもらった。名前は伏せてあって、番号と数字だけが上から順に並んでいる。
4.8。4.7。4.6。4.5。4.4。4.4。4.3。
上から7人。4.3以上は、この学年に7人しかいない。
わたしはその紙を4つに折って、財布に入れた。
鞄に入れると忘れる気がした。財布なら、毎日開く。
理由は、たぶんそれだけだった。
3月4日は月曜日だった。
家に帰ったのは4時40分で、玄関に父の靴があった。
「お父さん」
「おかえり」
父はソファに座って、スマホを見ていた。テレビはついていなかった。
「仕事は」
「有給」
「今日?」
「まとめて取れって言われてな。使わないと消えるから」
父は48歳で、佐倉建材という会社をやっている。母方の祖父から継いだ会社だ。継いだ、というより、婿に入って引き受けた。社員は14人いる。
父が平日の昼に家にいるのを、わたしは初めて見た。
母が台所から出てきて、「手を洗ってきて」と言った。
いつもなら、おかえりが先に来る人だった。
中学2年の冬、わたしは早瀬大学のパンフレットを取り寄せた。
理由は特になかった。オープンキャンパスの案内が中学に来ていて、経済学部の写真がきれいだったからだ。
それを居間で見ていたとき、父が後ろを通って、こう言った。
「うちは、学費の心配はするな」
わたしはその一言の上に、それから4年分の計画を積んだ。
積んでいるあいだ、一度も土台を見なかった。
その夜、わたしはスマホで検索した。
「給付型奨学金 条件」
出てきたページを3つ読んで、家計基準の表を見た。世帯年収の区分が細かく分かれていて、わたしはうちの年収を知らないことに気づいた。
検索履歴を消してから、スマホを伏せた。
消した理由は、母に見られたくなかったからだ。
見られて困ることは何も書いていない。それでも消した。
その夜、父の電話の声が聞こえた。
わたしの部屋は台所の真上で、換気扇のダクトを通って、下の声が少しだけ届く。何を言っているかまではわからない。声の高さだけがわかる。
父は普段、電話で笑う人だった。
その夜は、10分間、一度も高くならなかった。
母が「もう寝たら」と言うのが聞こえた。父は返事をしなかった。
わたしは机の上の問題集を開いて、7ページやった。
やっているあいだは、下の音が聞こえなかった。
3月8日、進路面談があった。
室生先生は進路指導部で、来年度は3年の担当も持つ。机の上に、クリアファイルが12冊、背の高さの順に並んでいた。
「佐倉は堅いな」
「堅い、というのは」
「4.6だろ。早瀬の経済は4.3以上。条件は満たしてる」
「1枠です」
「そう。条件を満たしてる中で、一番上が取る」
「今、一番上ですか」
「今はな」
室生先生は書類をめくった。
「決まるのは3年の1学期までの評定だ。まだ4か月ある」
「はい」
「あとは素行」
「素行」
「規定にそう書いてある。遅刻、欠席、問題行動。ゼロが望ましい」
「わたし、遅刻したことないです」
「知ってる」室生先生は言った。「知ってるから、堅いって言った」
先生はクリアファイルを閉じた。
「ただ、うちの校内選考は、揉めたら止める」
「止めるって」
「疑いがあるやつは推せない。推した先で問題が起きると、来年から枠が来なくなるからな」
「疑いって、たとえば」
「たとえばはないよ」室生先生は言った。「起きてから考える」
面談のあと、廊下で東悠真に会った。
悠真は2年3組で、1年のとき図書委員が一緒だった。それだけの関係だ。それだけの関係のはずだった。
「佐倉、早瀬?」
「なんで知ってるの」
「掲示のとこで見てた」
「見てたなら聞かないでよ」
悠真は笑った。
「俺は無理だな。評定3.8」
「じゃあ、どうするの」
「特待」悠真は言った。「明和大の特待。入試の点だけで決まるから、評定は関係ない。授業料が全免になる」
「受かるの」
「受からないと、行けない」
言い方が軽かった。軽かったから、重かった。
「奨学金は」
「借りるのはもう決まってる。それでも足りない」
「足りないって、どれくらい」
「4年で400万」悠真は言った。「俺が自分で計算した」
わたしは何も言えなかった。
400万という数字を、わたしは自分の進路の話として一度も考えたことがなかった。
「佐倉んちは、そういうの平気だろ」
「……たぶん」
「いいな」
悠真はそう言って、階段を降りていった。
いいな、という言い方に、恨みはなかった。
恨みがないほうが、あとで思い出すときにきつい。
3月12日、楓と帰った。
駅までの15分、楓はずっと部活の話をしていた。バドミントン部の後輩が3人辞めるらしい。辞める理由を、楓は1人ずつ説明した。
信号で止まったとき、楓が急に黙った。
「澪はいいよね」
「何が」
楓は少し黙った。
「ううん。なんでもない」
信号が青になった。
わたしは聞き返さなかった。
聞き返さなかったことを、あとから何度も思い出すことになる。
3月15日、金曜日。修了式まで、あと1週間あった。
わたしは5時に学校を出て、駅の改札の手前で定期を忘れたことに気づいた。教室の机の中に入れたままだった。
戻った。
昇降口はまだ開いていた。階段を上がって、2階の渡り廊下を通ったとき、音楽室の前に2人立っていた。
楓と、東悠真だった。
触れてはいなかった。距離は1メートルくらいあった。話し声も聞こえなかった。
見た瞬間に何かがわかった、という書き方はしたくない。何もわからなかった。ただの2人だった。
わかったのは、楓がわたしに気づいたときの顔だった。
楓は、驚かなかった。
「澪」
「定期、忘れて」
「そっか」
「うん」
「進路の相談してた」楓は言った。「東くん、特待受けるっていうから」
「そうなんだ」
「うん」
悠真は何も言わなかった。
一度もこちらを見なかった。
わたしは教室に行って、定期を取って、戻ってきた。2人はもういなかった。
昇降口で、柏木千歳が立っていた。
同じクラスだった。1年間、同じ教室にいた。話した回数は3回くらいだと思う。挨拶を入れれば、もう少し多い。
掲示の前には、あのとき20人くらいいた。
その中に柏木千歳がいたことを、わたしは覚えている。
千歳は輪の外側に立って、一覧を見ていた。近づかなかった。近づかなくても見えていたのだと思う。彼女は誰よりも早く来て、誰よりも早く帰った。
そのときは、何とも思わなかった。
千歳は学年で1番だ。4.8。国公立の医学部を受けると聞いている。
「佐倉さん」
「はい」
「早瀬、出すんでしょ」
「……たぶん」
「そう」
千歳は靴を履き替えた。それから、振り返った。
「あなたの家、大丈夫?」
わたしは、何か言おうとした。
言葉が出る前に、千歳が続けた。
「ごめん、変なこと聞いた。うちの父、佐倉建材と取引あるから」
千歳は出ていった。
わたしは昇降口に立ったまま、財布のことを考えていた。
4つに折った紙が、そこに入っている。それだけを考えていた。
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