#1
カツン……と靴の音が鳴る。
エレベーターホールから一人の髪の先から爪の先まで全身黒ずくめの女が姿を現した。
一般的な書類サイズが入るくらいの大きさの鞄を片手に――
その音を耳にした構成員たちはサッと道をあけ、一礼した。
彼女は凛とした表情で「顔を上げなさい」と上品な口調で指示する。
彼らはその女の指示に従い、頭を上げた。
その人物の名は神永 由佳。
艶やかな癖のない黒髪のショートボブは顔の左頬にある傷痕を隠している。
先ほど彼女が発した育ちの良さそうな上品な口調に不釣り合いなアイラインから口紅まで黒を基調とした化粧をしていることもあり、威圧感を感じさせられる。
着崩した黒背広。
Yシャツの襟は立てており、胸元には蝶の刺青が見えている。
由佳は執務室の扉を開いた。
「おはようございます」
「おはようございます。神永さん」
彼女より先に来ていた女性秘書が出迎える。
「何かあった?」
「先ほど書類を預かったので、チェックをお願いいたします」
「ありがとう」
由佳は椅子に備え付けているS字フックにかけたあと腰かけた。
秘書から受け取った構成員が提出してきた書類に目を通し、左手で万年筆を取り、さらさらとサインを書く。
「それにしても、相変わらず雑な報告書ね……そんなに任務の報告書を書くことが面倒なのかしら?」
「そ、それはどうでしょうか……」
「今度、彼に会ったらそろそろ捨て駒になりそうだと伝えなければならないわね……」
「す、捨て駒はやりすぎなのでは……」
捨て駒……彼女の部隊では戦力外通告という意味で使っている。
由佳は他の幹部たちより書類の書き方や誤字まで厳しく見ていることもあり、外部の人間にも知られている有名な通り名の他に組織内だけで通じる第二の通り名が存在しているらしい。
「ふふ……構成員ならいくらでもいるわ。たまには入れ替えてもいいじゃない?」
彼女は冷酷な笑みを浮かべ、机に肘を付け、指を絡める。
「おそらく私は彼にご縁がなかったのだわ。他の部隊ではどうなるかは分からないけれど」
「人をバッサリ切るのは神永さんだけですよ」
おまけに捨て駒と告知された者に関しては直ちに切るくらいの冷徹さ。
「ふーん……私、そこまで怖い人だと思うのかしら?」
「今までの幹部メンバーの中で他にもいるかは知りませんが、神永さんの外見が原因なのではないかと……」
「そのようなことはないわ」
「はあ……そういうことにしておきましょう」
机の上に置かれた真っ白なノート型のパーソナルコンピューター。
それは開くと自動で起動されるもの。
画面に氏名とパスワードを入力すべく、キーボードを指を滑らせた。
「本日は鳴上さんと十四時出発の晩餐会を兼ねた会合がございます。それまでに事務作業を――」
「はーい。ある程度は事務処理をこなしておきなさいということでしょう?」
秘書が予定を読み上げると、由佳はキーボードを叩きながら返事をする。
「す、素直で宜しいです。何時も言っていますが、くれぐれも黒い口紅はやめてくださいね。あとは胸元を出すのはダメですからね! 貴女は首筋ではなくて良かったものの、胸元に刺青が入っているんですから!」
「分かっているわよ。念のために紅い口紅をつけるし、刺青はシャツのボタンを止めて隠すわ」
「それは当然です! あっ、手を見せてください!」
「な、何よ!? マニキュアなら落としてきたわよ?」
まるで教師と生徒のようなやり取りをしている中、彼女はじっと見てくる秘書に仕方なく両手を見せた。
普段は黒のマニキュアを塗られている爪だが、綺麗に整えられた爪と細く長い指が現れている。
「長くて綺麗な指ですね……真っ黒にするのが勿体ないくらい……」
「……真っ黒でないと私が落ち着かないわ……私はもともと人間よ? 貴女は私のことを人外だとお思いで?」
「いいえ。人間以外は思っていません。普段は執務室でマニキュアを落とすことが多かったので。コーヒーを淹れてきます」
静かなマウスのクリック音やキーボードを叩く音、コーヒーメーカーからの音とその香りが鼻腔を擽る。
パーソナルコンピューターのメールチェックをしている由佳に秘書はコーヒーとミルクを差し出した。
2026/06/30 本投稿




