追走と研磨
泥の重みが靴底に染み、馬車の揺れが背骨を伝わる。幌の中はインクと雷光の匂い、外では風が刃を研ぐ音を立てる。彼らは進路を反転させた。追うのではなく、待つ。叩くのではなく、研ぐ。敵の大軍が儀式のために歩む地獄の轍を、鉄のハンマーは静かに待っている。準備は整った。反撃の時が、今、動き出す。
その195
「……今は、彼らを弔い、この場所を浄化するのが先決だ」
ロスコフの低く澄んだ声が、崩れかけた司令部跡の埃っぽい空気を切り裂いた。
一行は盾を構え、剣の柄に手を添えながら瓦礫の間を進んでいった。焦げた木材の匂い、干からびた血の鉄錆のような香り、そしてまだ残る魔力の微かな唸り。砦は死んでいたが、その骨組みはまだ息づいているように感じられた。
だが、ノベルの足音が急変した瞬間、空気が張り詰めた。
彼は血相を変えてロスコフの元へ駆け寄り、見つけた羊皮紙を差し出した。表面にはカリスト将軍の名が墨で刻まれ、幾重もの行軍ルートと陣形図が走り書きされていた。
「ロスコフ様……! 状況が変わりました」
声はかすれていた。ただの恐怖ではない。計算が崩れたのだろうか、やや冷めた声だった。
「この砦と周辺に配置されていた敵兵は、ざっと見た感じでは二千に満たない数かと。その大半が【成り果て】でした……これは第十三軍団の前哨に過ぎません」
「……どういうことです?」
「御覧ください」
ノベルが地図を広げる。羊皮紙の中央には、この砦を起点とする巨大な赤い矢印が描かれていた。それは南――**『アンヘイム』**へと、鈍く太い筆致で真っ直ぐ伸びている。
「……敵主力は、既にこの砦を迂回し南下を開始していたようです。」
その報告を聞き、傍らにいたタンガが苦々しく唇を噛んだ。
「……知ってた。だけど、あの拷問の叫びが耳に残ってたんだ。放っておけねえ。ロスコフ様、それだけだ」
するとジルが、タンガの肩に手を置いた。
「ロスコフ様、タンガはようやっとる。人間なら誰しも、あんな光景をそのまま見届けておけんじゃろ?」
感謝の念を抱きながら、タンガは地図上の矢印を指差した。
「ジルさんと二人で、何週間も奴らの足元を引っ掻き回してたんだ。ほぼ把握してる。今から向かっても、十分に追いつけると思うんだ」
ロスコフはタンガの報告に頷いた。最初の連絡では国境に現れた敵が**『五万』**とあった。彼らは足止めを命じられ、妨害戦で数千を脱落させ、この砦の二千も片付けた。今もタンガの《地穿の残響核》は、遠くから来る鼓動のような振動を捉えている。
「……ここから南へ向かってる連中は、こことは全然比較にならねぇ大群だ。」
ゲーリックが小さく息を呑んだ。二千でさえこれほど苦戦したというのに。その二十倍以上の軍勢が、手薄になった王都へ向かっている。現実の重みが胸を締め付ける。
「率いているのはカリストではありません」
ノベルが地図に記された指揮官の名を読み上げる。
「ノクレイン司祭。……そう書かれています」
その名を聞いた瞬間、エクレアの瞳が鋭く光った。
「……厄介そうな奴が出てきたな。『司祭』という肩書きと、さっきの白鎧の戦い方から見て、こやつは恐らく『知と術』の将じゃろう」
彼女は瓦礫の山を見渡し、推測を続ける。
「さっきの白鎧は、自ら剣を振るい、兵を強化して戦う『前線の指揮官』じゃった。ならば、その後ろに控える司祭の本分は、間違いなく『儀式』そのもの……。闇のプリーストという輩は、純粋な殴り合いなら白鎧に劣るかもしれん。だが、奴らは兵士をただの戦力としてではなく、巨大な魔術を行使するための『生きた燃料』として扱いよる」
エクレアの声に、戦慄が混じる。
「四万もの軍勢を抱えた高位の闇術師が、遠距離から大規模な儀式魔術を放てばどうなるか……。広範囲の殲滅戦においては、あの白鎧よりも遥かにタチが悪い相手かもしれんぞ」
「……戻りましょう、ロスコフ様!」
クーガーが叫ぶ。
「今すぐ追いかければ、背後から挟撃できるかもしれない! アンヘイムが火の海になる前に……!」
全員の視線がロスコフに集まる。北へ進み、敵の本拠地を目指すか。それとも目の前の危機に対処するか。
ロスコフは砦の地下で見つけた「北部周辺の村々から吸い上げられた黒き血の輸送記録」をふと思い出した。オクターブの件や、これまでの北部の異変。全てが繋がっている。だが、今ここで北へ向かえば、アンヘイムは無事で済むとはとても思えない。故郷を灰にしてまで掴むべき真実など、今の段階ではあまりにも不確かすぎる。
ロスコフは顔を上げた。その瞳に迷いはなかった。
「……皆、反転しましょう」
「ロスコフ様!」
ノベルが驚きの声を上げるが、ロスコフは力強く頷いた。
「我々の第一の目的は、あくまで『北からの侵略を食い止めること』です。……四万以上の怪物を野放しにしたまま、不確定な敵の本拠地を目指すなど、ただの無責任です。」
彼は地図上の行軍ルートを指差した。
「幸い、ジル殿とタンガが、敵の進軍ルートを徹底的に破壊してくれています。四万以上の大軍がその悪路を越えるには、相当な時間がかかるはずです」
「……へっ、任せときな。あそこはもう道じゃねえ。巨大な洗濯板だ」
ジルがニヤリと笑う。
「ならば、追いつけます」
ロスコフの声に熱が籠もる。
「我々は軽装の魔導アーマー部隊と騎馬隊で先行し、敵軍の背後を強襲します。……そして、アンヘイムのラージン翁に伝令を送りましょう」
「挟撃……ですか」
ノベルが手持ちの水晶レンズを地図の上に置き、顔を上げた。その瞳は軍師としての冷徹な光を帯びる。
「ええ。アンヘイムの城壁と魔導アーマー部隊を**『金床』とし、我々が背後から『ハンマー』**となって敵を叩き潰す。……これが、今我々が取れる最善手です」
「……承知いたしました!」
ゲーリックが敬礼する。
「伝令はどうしますか? エクレア殿の鷲を使うので?」
「うむ。まだ疲労しておるが、魔法薬で回復させればもう一飛びくらいはできるじゃろう」
エクレアが肩に乗せた黒鷲の頭を撫でる。
「では、ラージン翁への手紙を。……『敵主力を背後より追撃中。アンヘイム前面にて挟撃されたし』と」
◇
鋼鉄の遠征 ~追走と研磨~
方針は決まった。北への遠征は一時中断。
鋼鉄のキャラバンは、故郷を救うため、地獄のような行軍を続ける四万の軍勢の背中を追うべく、進路を反転させた。だが、彼らは決して焦ってはいなかった。むしろ、巨大な獲物をじっくりと追い詰める狩人のように、一定の距離を保ちながら粛々と歩みを進めていた。
幌馬車の中は、熱気とインクの匂い、そして張り詰めた集中力に満たされていた。そこは移動する**「戦場工房」**と化している。
「……振動、来ます」
「了解。補正します」
ガタン、と車輪が轍を越えるたび、ロスコフとレザリアの手元が微かに揺れる。だが、二人の手は止まらない。彼らが挑んでいるのは、魔導アーマーの装甲に**『リアクティブ・シールド(反応障壁)』**の術式を刻み込むという、気の遠くなるような緻密な作業だ。
「急ぐ必要はありませんが、休む暇もありませんね」
ロスコフが額の汗を拭う。
「敵は四万を軽く超えるだろう大軍。正面からぶつかれば我々はひとたまりもない。……我々が『ハンマー』として機能するためには、この新しい盾の完成が不可欠です」
「ええ。アンヘイムまでの道中は、私たちにとって貴重な**“開発期間”**ですものね」
レザリアもまた、雷の律を指先に集中させながら微笑む。外で敵の足が遅くなっている今こそが、最強の機体を仕上げるための千載一遇の好機だった。
◇
一方、キャラバンの外では、ゆったりとしたペースで進むロスコフ隊の視界に、敵軍が通過した後の**「爪痕」**が飛び込んできた。
「……見てください、あれを」
御者台のクーガーが指差す先。ジルが「巨大な洗濯板」と称した悪路には、無残な光景が広がっていた。道は寸断され、泥に足を取られて動けなくなった輜重車が乗り捨てられている。さらに、その周囲には荷を運んでいたと思われる大型の魔獣の死体が何体も転がり、腐臭を放っていた。四万の大軍は、補給物資を運びきれず、荷を捨て、泥にまみれて混乱しながら進軍しているのだ。
「……へっ、ざまあみやがれ。これじゃあ、急ぎたくても急げねえな」
ジルが満足げに鼻を鳴らす。敵の進軍速度は、想定以上に低下している。これなら、ロスコフたちが作業を終える時間は十分に稼げる。
だが、幌馬車の屋根にいたタンガだけは、険しい顔で耳を澄ませていた。
「……いや、油断できねえぞ。音が、おかしい」
「音が?」
「……ただの行軍の音じゃねえ。足音の底に、低く重い……まるで巨大な炉の唸りみてえな響きが混ざってやがる」
タンガの《地穿の残響核》が捉えたのは、物理的な振動ではない。四万の軍勢の中心から絶え間なく発せられる、不協和音のような魔力の波動。それは行軍そのものが一つの巨大な**「儀式」**であり、その中心にいる指揮官――夜哭の司祭ノクレインが、移動しながらにして何らかの術式を稼働させている証左だった。
「……なるほど。奴らは歩きながら『何か』を練り上げているわけか」
報告を受けたノベルが冷静に分析する。
「なればこそ、我々は焦らず、その背中を突いて集中を乱し続ける必要があります」
「……距離、三千! 敵の後衛部隊、捕捉しました」
タンガの声が響く。伸びきった敵の最後尾、泥に足を取られ遅れている一団がついに射程圏内に入った。
「あら、良い的ね。……運動不足の解消に、少し付き合ってもらおうかしら」
馬上のロゼッタが愛剣【烈風剣】を抜き放ち、不敵に微笑む。
「……空からの援護は、任せて」
シャナが翼を広げ、ふわりと宙に浮く。
「レザリアは中で缶詰めだ。外の憂さは、私たちが晴らしてあげましょう」
ロゼッタの言葉に、シャナも短く頷いた。面白そうね、私も混ぜて――とばかりに結成された、規格外の**「女性陣(ロゼッタ&シャナ)」**による遊撃隊だ。
タンガが指差したポイントへ向け、二つの影がキャラバンから解き放たれた。地を駆けるロゼッタは風の魔力を馬の脚に纏わせ、音もなく疾風の如き速度で距離を詰める。空を舞うシャナは焦げ茶色の翼を広げ、上空から獲物を狙う猛禽類のように急降下体勢に入った。
「……敵襲!? 後方より、何かが来るぞ!」
殿を務めていた【成り果て】の兵士たちが背後に迫る殺気に気づき、鈍い動きで振り返る。だが、その時にはもう遅い。彼女たちは四万という数の暴力に怯むことなく、鋭い切っ先を敵陣の肉へと突き立てたのだ。
彼女たちは決して深入りしない。敵の隊列最後尾に近づき、風の刃や空からの急降下攻撃を叩き込み、混乱が生じた瞬間に即座に離脱する。徹底したヒット・アンド・アウェイ。
「《風牙》ッ!」
ロゼッタの剣から放たれたカマイタチが、密集した【成り果て】たちの首を音もなく刈り取る。そこへシャナが彗星のごとく突っ込み、指揮官級の個体を串刺しにして離脱する。
「……ひぇぇ。ありゃあ、敵さんにとっては悪夢だな」
その一方的な蹂躙劇を遠目で見ていたタンガが肩をすくめる。四万の大軍とはいえ、最後尾を延々と齧り取られ続けるストレスは計り知れない。彼女たちの活躍により、敵軍の歩みはさらに遅くなり、その分だけロスコフたちの開発時間は増えていく。
◇
通信の要となる一羽の鳥。
エクレアの肩で休息を取っていた黒い軍用鷲が、魔法薬で体力を回復し鋭い眼光を取り戻していた。
「……よいか。これが最後のひとっ飛びじゃ」
エクレアは鷲の足に、ロスコフが認めた小さな羊皮紙を結びつける。そこには敵の正確な位置、規模、そして**『挟撃作戦』**の決行タイミングが記されている。
「届け先はアンヘイム、ラージン翁の元じゃ。……途中で寄り道するでないぞ」
エクレアが腕を振ると、黒鷲は力強く羽ばたき南の空へと矢のように飛び去っていった。通信手段の乏しいこの世界において、この一羽の鳥が数万の命運を握っている。
「……頼んだぞ、ラージン。……老骨に鞭打って、持ちこたえてくれよ」
エクレアは小さく呟き、祈るようにその背中を見送った。
◇
こうして一ヶ月近く。ロスコフたちは付かず離れずの距離を保ちながら、昼は移動と遊撃、夜は徹夜での改良作業という日々を続けた。彼らにとってこの長い行軍は単なる移動ではない。決戦へ向けて刃を研ぐ、研磨の時間だった。
そしてついに、視線の先に懐かしい稜線が見えてきた。アンヘイムを取り囲む外壁。そしてその周囲を埋め尽くす黒い蟻のような四万の軍勢。
「……間に合ったか」
ロスコフは煤と油にまみれた顔で、完成したばかりの魔導アーマーを見上げた。装甲は以前よりも重厚さを増し、表面にはレザリアが刻み込んだ微弱な雷光を帯びた防御シギルが脈動している。【セントリス・改(フォルティス仕様)】。
「……始めましょう。我々の反撃を」
ロスコフの瞳に静かな闘志の炎が灯った。準備は整った。背後からハンマーを振り下ろす時が来たのだ。
◇
一方、ロスコフ隊が追走するその先。北から南へと続く荒廃した街道には、目を覆いたくなるような惨憺たる行軍が続いていた。そこはもはや道ではなかった。かつて街道だった場所は、ジルとタンガの手によって徹底的に破壊され深さ数メートルの亀裂と泥沼化した凹凸が延々と続く「巨大な洗濯板」へと変貌していた。
「進め! 足を止めるな! 止まる者は“薪”にするぞ!」
泥濘の中で、**【感情醸造師】たちの怒号と鞭の音が響く。彼らが指揮するのは理性なき【成り果て】**だ。だが、痛みを感じないはずの彼らでさえ、泥に足を取られ次々と転倒し後続に踏み潰されていく。泥の中には力尽きた者たちの手足が杭のように突き出し、そこかしこで押し潰された肉の不快な音が響いていた。物資を積んだ輜重車の車輪は砕け、牽引していた大型の魔獣は過労と泥の重みで心臓を破裂させ路肩に屍を晒していた。補給は既に崩壊している。
だが、それでもこの四万を超える軍勢が止まらないのには理由があった。
ヴゥゥゥゥゥン……。
軍勢の中心から絶え間なく響いてくる不協和音。それは物理的な音ではなく、タンガが感知した「巨大な炉の唸り」にも似た**魔力の重圧だった。その波動が兵士たちの脳髄を直接刺激し、肉体の限界を無視して足を前へと動かし続けているのだ。この行軍そのものが、巨大な「儀式」**の一部として機能していた。
だが、その強制的な行軍に鋭利な「雑音」が走る。
「……報告! 後衛部隊、また崩されました!」
伝令の【記憶摘出官】が泥まみれになりながら上官の元へと転がり込んできた。
「敵はたったの二人! ……いえ、二体と言うべきか! 風を纏う剣士と、空を飛ぶ槍使いです!」
「ええい、またか!」
後衛部隊を統率する**【祝福偽装官】**が苛立ちに顔を歪める。ロゼッタとシャナ。この二人の規格外の遊撃隊は決して深追いしてこない。だが、隊列が伸びきり泥に足を取られた瞬間に正確に現れ指揮官級の個体だけを瞬殺して去っていく。この執拗な**「齧り取り」**は単なる兵力の損失以上に、軍全体へ「いつ殺されるか分からない」というストレスを伝播させていた。
「……進軍速度は計画の半分以下。兵の消耗は想定の三倍。……これでは、アンヘイムに着く前に“燃料”が尽きちまう」
偽装官は舌打ちし懐から掌サイズの小さな**「黒鉄の小箱」**を取り出した。表面には苦悶の表情を浮かべた双子のレリーフが刻まれている。彼は小箱の蓋をスライドさせる。中には黒く干からびた**「人の喉仏の骨」**が綿の上に鎮座していた。偽装官は躊躇なく自らの指先をナイフで切り滴る鮮血を乾いた骨へと垂らした。
ジュッ……。
骨が生き物のように血を吸い込み、ドクン、ドクンと赤黒く脈打ち始める。これは**《双子贄の呪骨》**。同時に殺された双子の骨を使いその「断ち切られた魂の絆」を無理やり繋ぎ止めることで声を届ける冒涜的な伝達具だ。偽装官は脈打つ骨に口を寄せ祈るように囁いた。
「……ノクレイン司祭へ、至急報告を……」
◇
軍勢の中央。数体の【堕騎】に担がれた巨大な輿の中。静寂に包まれた空間で**カタカタ、カタカタ……**という乾いた骨が震える音が響いた。輿の中央に座する夜哭の司祭ノクレインの膝の上。そこに置かれた対となる「黒鉄の小箱」がひとりでに振動しているのだ。
ノクレインは閉じていた目を開くことなく優雅な手つきで箱を開けた。中にある骨が濡れたような不快な音を立てて空気を震わせる。
『……あ゛ー……あ゛、報告……報告します……』
骨から発せられる声は部下の声であって部下の声ではない。まるで沼の底から響いてくるような湿り気を帯びた歪なノイズ。この骨の持ち主だった「双子の怨念」が言葉を運んでいるのだ。
ノクレインはその不快な音色を楽しむように耳を傾けながら自らの指先からも一滴の血を骨に垂らした。それが「受信」と「返信」の儀式だ。
『……後方より追撃してくる“雑音”により……被害、拡大中……カリスト将軍を退けた連中です……ぐぅ……迎撃のために精鋭部隊を割く許可を……』
骨が軋み苦しげな声を吐き出す。ノクレインはその骨に向かってまるで愛しい子に言い聞かせるように囁いた。
「……却下だ」
その言葉は即座に魔力変換され骨の共鳴を通じて数キロ離れた部下の元へと「呪い」のように届けられる。
『えっ? ……しかし、このままでは……』
「お前たちは勘違いをしている」
ノクレインはようやく目を開いた。その瞳には兵士の命を憂う感情など欠片もない。あるのは数式を見る学者のような無機質な光だけだ。
「我々の目的はアンヘイムを物理的に落とすことではない。この五万の軍勢という**『祭壇』を、アンヘイムの城壁に突き立てあちらの民もろとも『儀式』**に巻き込むことにある」
彼は手元の小箱の中にある骨を冷ややかに見下ろした。
「あの“雑音”ども……どうやらただの戦士ではないようですね。カリスト程の者が後れを取るのも頷ける。ここで、奴らに構って足を止めれば、それこそ奴らの思う壺です」
ノクレインにとってロスコフ隊の襲撃は脅威ではなく儀式の完成を遅らせる**「不快なノイズ」**でしかなかった。
「よいですか。攻撃者への深追いは禁じます。奴らは放っておきなさい」
『は、はい……。ですが兵士たちの士気は……』
「ならば、“炉”の出力を上げましょう」
ノクレインが印を結ぶと輿から放たれる不協和音がさらに重く低く唸りを上げた。外では疲労困憊だった兵士たちが白目をむきながら奇声を上げ無理やり行軍速度を速め始める。命を燃やし魂を擦り減らす強制進軍。
「兵士などアンヘイムに着くまで形を保っていればそれでいいのです。……到着が遅れる分は、この道中で練り上げる儀式の“精度”で補います」
ノクレインは骨に向かって冷徹な命令を下した。
「後衛の指揮官たちに伝えなさい。雑音の除去は**『儀式を阻害しない範囲』**でのみ許可しましょう。……それ以上時間を浪費する無能は即座に“燃料”として釜に放り込みなさい」
言い終わると同時にノクレインはパタンと小箱の蓋を閉じた。骨の震えが止まり通信……いや**「怨念の共鳴」**が遮断される。彼は再び目を閉じ南の空――アンヘイムの方角へ意識を向けた。
「……小賢しい鼠ども。……せいぜい私の儀式が完成するまでの間その命を繋いでいなさい」
彼が座する輿のすぐ後方。その異様な巨体は泥濘を強引に踏み砕き地獄の底から響くような重低音と共に進んでいた。それこそがノクレインの言う「炉」でありこの行軍の心臓部たる**《嘆きの黒大釜》**である。直径5メートルはあろうかという黒鉄の釜。その表面には無数の苦悶の表情が浮き彫りにされ内部では収集されたばかりの《黒き血》が沸騰する泥のようにボコボコと不気味な泡を立てている。
その大釜は樹齢数千年を越える巨木を組み上げ黒鉄で補強した**「移動祭壇」とも呼ぶべき巨大な台座の上に鎮座していた。通常の車輪ではその重量を支えきれずに泥に沈む。そのため台座の下部には鉄のスパイクが打ち込まれた巨大な円筒形のローラー**が六基備え付けられておりジルたちが作った悪路ごと地面をすり潰しながら回転している。
そしてこの城壁のような質量を牽引するのは二体の**「巨獣」**だ。象をも遥かに凌ぐ巨躯を持ち全身が岩のような皮膚と筋肉で覆われた二本角の魔獣。その太い首には棘のついた鋼鉄の首輪が肉に食い込むほどきつく締められ鼻孔から荒い白煙を噴き出しながら太い鉄鎖をギリギリと引き絞っている。
この最重要拠点を守るため台座の上と周囲には鉄壁の布陣が敷かれている。釜の縁に立ち揺れる台座の上で平然と瘴気の調整と詠唱を続けているのは三名の【祝福偽装官】。彼らは黒い祭服を翻し時折力尽きた兵士を釜の中へと蹴り落として新たな燃料としている。
そしてその偽装官たちを守るように台座の四隅を固める巨大な影があった。**三体の【咎将】**だ。全身を黒いフルプレートメイルで覆った巨体は台座と一体化したかのように微動だにせずその全身からはただならぬ黒煙が発せられ異様な雰囲気を漂わせていた。近づく者があれば即座に反応しその戦斧で粉砕する構えだ。
さらに台座の足元ローラーの軋む音に紛れるように理性を残した人間の士官級兵士たちが十名抜刀した状態で警戒に当たっていた。彼らは【成り果て】とは違い明確な意思と高い戦闘技術を持ち狂信的な瞳で周囲を睨め回している。
巨大な悪意の塊は、その身を削りながら確実にアンヘイムへと迫っていた。
ここまでよんでくださりありがとう、また続きを見かけたら読んでみてください。




