五言目
「お前の……」
彼女は悪魔が語るよりも早くその言葉の続きをいいました。
「“お前の魂が欲しい。お前の魂が欲しい。魂と交換に願いを叶えよう”……でしょう?」
彼は黙り、少女は笑いました。
遠くで海鳥の声がする。遠くで波の音がする。遠くで人の声がする。
ここは海の見えるサナトリウム。その近くの高台。
彼女は大きな木の下のベンチで海を眺めていました。髪はストレートで長く、いつものように青いパジャマの上に白いカーディガンを羽織っています。
「……どうしたのこんなところに?」
「昼食の時にいなかったから探しにきたの。まーた、先生が怒るよ? “栄養管理も僕の仕事なんだー”ってさ」
わたしの言い方が面白かったのか早苗ちゃんは白い杖を持ったままクスクスと笑いました。わたしは彼女の隣に腰掛けながら早苗ちゃんの笑いにつられて吹き出しました。
互いにむせて、息を整えました。そして同じ景色を眺めます。
下のほうではグリーンの芝生と広葉樹の森が広がり、その先にはどこまでも続く青い空と海が見えました。
静かな空気の中、最初に喋ったのは早苗ちゃんからでした。
「……さっき、誰かとすれ違わなかった?」
「え、誰とも会わなかったよ? お客さん? 珍しいね」
「お客さんっていうよりもお迎えかしら」
「家族かなにか? それとも恋人とか!?」
わたしは彼女の言葉を無視するように茶化しました。何故ならここでお迎えはネガティヴな意味でしか通じないから。
彼女は白い頬を緩ませて微笑みました。
この笑顔に施設の人達はやられるのかと私は内心羨ましく思いました。
病院のマル眼鏡先生なんて早苗ちゃんの大ファンでいつもデレデレしているのです。
「彼は……悪魔よ」
「悪魔……それって、うーん」
わたしは彼女なりのレトリックなのだろうかと思い、首を傾げました。
男性で悪魔って……そういうことなのかしら。
早苗ちゃんのファンのお爺ちゃんや先生が聞いたら泣いちゃうだろうなぁ。
そんなわたしに彼女は言葉を続けます。彼女は当たり前のようにそれをいいました。
「私、近々死ぬからその前に魂をくれれば願い事を叶えくれるんですって」
「……へえ」
私はその言葉に息を呑みました。
この施設では死ぬという言葉は冗談として通じないのです。
ここを出てく人は治療のためか、“治療する必要のなくなった人”しかいない。
そして一つの推理に辿り着きました。
恐らくはその悪魔は医者で、彼女の余命を宣告しにきたんじゃないだろうか、と。
“治療する必要のなくなった人”は好きなことをさせてもらえるというのは施設内で有名な話でした。
「私、彼が来ることはずっとずっと前から知っていたの。そのことを彼にいったら凄く驚いていたわ。でもやっぱり本当の彼はずっと大きくて優しかった」
「……それでどうしたの?」
彼女はこの施設の古株。彼女は珍しく饒舌にわたしに話しかけました。
いつも大人しい彼女が歳相応に笑い、楽しそうに語ります。
それがわたしを酷く心配させました。
「それから彼の手を触らせてもらったの。そうしたらね、いろんなものが見えてきた。螺旋のように続く悲しみが。終幕のような悲劇が。膨大な時間と膨大な孤独が。ほんの少し触っただけで、頭の中がパンクしそうになったわ。それで私は驚いて彼の手を離してしまったの。……不思議よね、そうなるってずっと前から知っているのにその選択をしてしまうんだから」
「…………うん」
彼女は杖を握ったまま少し興奮したように話します。わたしは何だか彼女が遠くにいってしまうような気がして何も言えませんでした。
「私、見えてきたものが酷く悲しくて涙が出たの。彼の果てのない悲しみが怖くて恐ろしくて……そして辛くて。永遠に続く彼の業に鳥肌が立ったわ」
そういって彼女はぶるっと震えました。わたしは側に寄り添うと、彼女の背中を擦りました。
もう我慢できませんでした。
普段、大人しい彼女の明るい表情が無理をしているようでわたしを酷く焦燥に駆らせるのです。
「きっと……きっと病気はよくなるって! 先生も回復に向かってるっていってたし、最近は出てないじゃない。ね、だからそんこといわないでよ……!」
彼女の病気。
病名は知らないけど沢山の羽が出る病気。この長い歴史で十件しか報告されてないという病気。背中の骨が歪んで皮膚が鳥の羽毛のようになって剥がれ落ちる病気。
その痛みを彼女は全身を針で串刺しにされているような感覚だといったのをわたしは思い出しました。悲痛な叫びのあと、彼女が衰弱して涙を流していたのを思い出しました。
原因は不明で治療法もなくて、ただ痛みを和らげる為にモルヒネを打たれ続ける彼女。
それでも痛みは少ししか和らがなくて、先生は何度も何度も涙して壁に血が出るまで拳を打ち付けていたのを……思い出しました。
彼女の脳はぼろぼろで体もぼろぼろでわたしの心も今にも崩れ落ちそうでした。
「……いいの、私は私が一番よく分かってる。私を見つけたのも、羽が落ちていたからでしょう? 私には見えないけど見えるのよ?」
彼女はそういって微笑みます。わたしの頭を撫でて、声なく笑います。
わたしも声を殺して涙しました。
彼女に見つからないように。
彼女を不安にさせないように。
だけど体は震え、声が漏れます。
「彼はいったわ。それは昔、神様と結婚した私の先祖の血が甦ったものだって。私は神様の血が濃いんだって。そして、魂をくれるならその病気を何とかしてやれるって。でも断っちゃった」
「なんで……?」
彼女は優しくわたしを撫でます。柔らかく、小さな手がゆっくりと撫でます。
海を眺めながら、ただゆっくりと。
「彼ができるのはそこまでだから。私はずっと先を見てみたけど、その後必ず何か別のことで死ぬから。それは交通事故だったり、病気だったりね。既に私の死はさだめでそれが延命治療でしかないなら、私は早く死ぬことを選ぶわ」
そういって彼女は杖を待たず立ち上がりました。そしてゆっくりと探るようにして転落防止の小さな柵に近づきました。
柵に持たれながら彼女はこちらを向きました。
天使のような笑みが私を見つめます。
「私には世界中の声が聞こえるの。悲痛な叫びが、助けを求める声が……彼らの顛末が。きっとこれは人が持っていちゃいけないものなのね。だから私は死ななくちゃいけないんだわ。……悪魔にもそう私はいったわ」
「悪魔は……悪魔はそれを聞いてどうしたの?」
「静かにこういったの……時間よ止まれ、お前は美しいって。何それって聞いたら、昔彼と契約した人がいった言葉なんだって」
私は彼女の座っていた場所に沢山の羽が積もっているを見て、はっとしました。
彼女の歩いた地面には血の雫の跡がありました。彼女の額には汗が浮かび、目じりは痙攣しています。
「それで……悪魔は?」
「悪魔はそれで去ったわ。昔のように、いつものように、これからのように」
「早苗ちゃんは……どうするの?」
彼女の青いパジャマが破ける音。彼女は汗をボタボタと地面に落とし、足は震えていました。だけど……だけど何故か笑っています。
「飛べない……翼で空を、飛ぶの」
彼女は赤ん坊のようにふらつく足で柵を乗り越え、その白く輝く羽を見せました。
わたしはそれを止めることができませんでした。
止めたとしても彼女はきっと直ぐに死んでしまうから。
青ざめ、震えるその体は明らかにそういっていたのです。
なら、好きなことをさせてあげたい。
そう思うのは間違いじゃないはずです。
だから私はいいました。
泣きながら、顔をくしゃくしゃに歪めながら。
望んでもいないその別れの言葉を。
「……さようなら、早苗ちゃん」
「さような」
彼女は手を離し、下へと飛んでいきました。
「さようなら、永遠の旅人さん」
「きっといつかは終わる。お前の見切れていないどこか遠い未来で」
「そう……そうね。さようなら、まだ見ぬ先の旅人さん」
「願わくば審判の日に空で会おう」
「……ええ、また空で会いましょう」
「ああ、また」
悪魔は去りました。
一応最後です。
方法のネタが尽きたので、これが最後になります。
みなさん、お疲れ様でした。
賛否両論あるかと思いますが、感想なんか頂ければ幸いです。
追伸:偶然、半角の総文字数が6666文字でした。最後らしいといえば最後らしいのかな?
ブログ。
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