Case2. フィリップ・トマーソン
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フィリップ・トマーソンは、いつまで待ってもあらわれない婚約者に、ため息をついた。
待ち合わせにあらわれないのは、これでもう十回目だ。最初の頃はあった連絡も、この三回ほどはない。使いのひとつも寄越さない彼女に心底呆れるしかない。商人は信用がすべてだというのに。
婚約者は、フランシスカ・カノーサ。このペナトス地方を治めるカノーサ伯爵家の娘だ。二人が婚約したのは、数ヶ月前のことだった。
フランシスカが来なくても、フィリップは構わない。そもそも、この婚約は愛情で結ばれたものではない。
皇帝に命じられた婚姻。その前段階としての婚約だ。
フィリップの父は、ロマルノ帝国の都市フロレンシアにおいて銀行業で財を成したマティシス家の当主だ。その顧客には、各地の貴族だけでなく、皇帝まで名を連ねている。
トマーソンは母の姓。庶子として生まれたフィリップに本家から継げるものはなかったが、才覚はあった。
なにが金になり、なにが金にならないか。その嗅覚に優れていた。だから捨てられることなく拾われ、教育され、そして終には、貴族社会へと送り出されることになった。フランシスカとの婚姻が成れば、フィリップは男爵に陞爵されることが決まっている。
代々積み上げてきたマティシス家の財と信用は、皇帝すら動かすものだったらしい。父がどう計らったのか、フィリップは知らない。ただ、この婚姻が皇命であると知っていればよかった。
この婚姻に先立ってマティシス家は、カノーサ家が治めるペナトス地方に為替手形を扱う商会を立ち上げている。フィリップはその商会の会頭に一年前に就任していた。
すべては、マティシス家の利のために。
そのためだけに、フィリップも、フランシスカも、皇帝でさえ、使われる。
どこまでも合理的に、計算づくで。
婚姻とは契約だ。それ以上でも以下でもない。フィリップは最初からそう割り切っている。
初めてフランシスカに会ったとき、言われた言葉をフィリップは忘れていない。
皇帝の命令を遂行するために設けられた初めての顔合わせ。フィリップはただ、婚姻における条件を確認するだけのつもりだった。お互いの望むところを擦り合わせるのは、契約の基本だ。
だが、フランシスカはフィリップをひと目見て、冷めた表情を浮かべた。
「これは皇命だから、我慢する。我慢するしかないもの。でも、私を愛したりしないで。あなたに愛されるなんて、虫唾が走るわ」
美しい顔を嫌悪に歪めながら、「平民上がりの男爵に嫁がないといけないなんて」と吐き捨てたフランシスカを、フィリップはただ黙って見つめた。
カノーサ伯爵は叱る声をあげたが、彼女はつんと顎をそらしたまま、反省する様子は見せなかった。
侮られるのには慣れている。平民。庶子。金貸しの息子。誰もがフィリップを唾棄すべきなにかのように扱う。
フィリップをフィリップとして扱ったのは、ほんの数人だけ。期待することは、とうの昔に止めている。
だから、フィリップはそのとき「わかりました」と応えたのだ。
「フィリップ様」
かけられた声に顔をあげる。家令のバシリオが立っている。男爵になるにあたり雇った彼は、とても優秀だ。
「私の婚約者殿は今日も幼馴染のところか」
淡々と問うたフィリップに、バシリオは苦い表情でうなずいた。現れない婚約者を心配したということにして、カノーサ家に遣いを出した答えがこれだ。
フランシスカには病弱な幼馴染がいる。
レイノルド・サンチェス。サンチェス伯爵家の次男。彼女はできるなら彼と結婚したかったのだろう。幼馴染の看病を理由に、フランシスカは彼の寝室に入り浸った。貴族の娘としてはかなりの醜聞だ。
さっさと二人を婚約なり婚姻なりさせてしまえばよかったのに。その脇の甘さをマティシス家につかれた。皇帝に働きかけ、フィリップとの婚姻を決めさせた。伯爵家の末子である彼女に、皇命を覆すだけの自由は許されていない。
それでも、フランシスカはすんなりとは従わなかった。こうして、婚約者を放って、幼馴染のそばに侍りつづけている。
皇帝の命令を盾に結婚をせまる憎い男。フィリップの役回りはそんなところだろうか。
だから、フランシスカはフィリップを見ない。最初から知ろうとしない。
待ち合わせにも来ない。
使いをよこす必要性すら感じていない。
「なぜ、怒らないのです?」
バシリオの問いに、フィリップは肩をすくめた。
「気持ちはわかる。まあ、好きにすればいい」
彼女が誰を愛そうと自分には関係ない。必要なのは、婚姻の事実だけだ。
皇帝が授ける男爵位。それで得られる貴族との繋がり。ペナトスにおける商業権。領主であるカノーサ家からの後ろ盾による為替手形の発行。
それらを得るための婚姻。
愛など、最初から勘定に入っていない。
「来ないのは構わないが、連絡だけはするように伝えておいてくれ。時間は有限だ」
何か言いたげなバシリオを無視して、フィリップは、冷めかけた紅茶を口に運ぶ。
貴族御用達の喫茶店の窓際。秋の午後の陽光が、埋まることのない向かい席を明るく照らしている。
その眩しさに少しだけ目を細めると、また手元の書類に目を落とした。彼女があらわれないことを見越して、あらかじめ仕事を持ち込んでいる。今さら、腹も立ちはしない。テーブルに置かれた紅茶も最初から一客だけ。
それがこの婚約のすべてだった。
◇◇◇
婚礼はカノーサとマティシスの名にふさわしく豪勢なものだった。
「皇命だもの。結婚はするわ」
花嫁の控室に迎えにいったフィリップに、フランシスカはそう言った。
二人、祭壇の前に立つ。神の名のもとに婚姻の署名が終わった。神官の婚姻成立の宣言とともに、皇帝の使者がフィリップに男爵位に授けられたことを粛々と述べる。フランシスカと腕を組んだまま、フィリップはまっすぐに顔をあげて、その宣旨を聞いた。
式が終わり始まった披露宴では、さまざまな貴族から祝辞を受けた。フランシスカはそれを複雑な色を浮かべて受けている。
フィリップは口角をあげるようにしているが、目に浮かぶ色は彼女と似たようなものだろう。冷めきっていて、そこに喜びの感情はない。彼女が逃げ出さなかっただけましだ、と思っている。
宴の最中、フランシスカの友人が彼女に笑って話しかける。
「おめでとう。素晴らしい旦那様ね」
「素晴らしいですって? 平民上がりの男爵が? 売られるように嫁ぐのよ。まるで家畜よ」
フランシスカは小声で吐き捨てた。友人はフィリップを見てぎこちなく笑みを浮かべてから、困惑したように首をかしげる。
「でも、トマーソン男爵は財のある方でしょう? 今回の陞爵も皇帝からの信頼の証のようなものだし」
「それが私になんの意味があって?」
鼻じろんだ友人が黙り込んだあと、さらに声を低めて囁いた。
「……フランシスカ、あなたまだ、サンチェス伯爵令息のことを」
「私たちの愛は永遠よ。婚姻しているかなんて関係ない」
フィリップを振り払うように手を離し、祈るように両手を合わせて握りしめたフランシスカに、友人は言葉を失う。フィリップも彼女にちらりと視線を飛ばしただけで、何も言葉にはしなかった。
宴が終わり、すでに深夜の時間。やらなければいけないことが、まだ残っている。
フィリップは夫婦の寝室へと向かった。
誰もいない部屋で酒を傾けながら待っていると、しばらくして扉が開き、フランシスカが白い夜着で入ってきた。部屋の中央で立ち止まり、フィリップを上から下まで眺める。一瞬走った怯えは、つんとあげられた顎によってかき消えた。
「私と結婚することで、あなたは男爵になれるんだから感謝して」
「そうだな。感謝しよう」
初夜の部屋で、フィリップは腕を組んでつづけた。
「だが、君のことは愛していない。そのつもりでいてくれ」
フランシスカのずっと不機嫌だった表情が、初めて困惑を浮かべた。
「え?」
「君とは政略だ。政略の意味がわからないほど私は馬鹿じゃない。君のことはきちんと妻として遇すると約束しよう。だから、君も妻としての義務を果たしてほしい」
言葉を区切り、フィリップはフランシスカをまっすぐ見た。
「サンチェス子爵令息の妻になれなくて残念だったな。彼の寝室に入り浸って他の貴族から避けられるよう狙ったんだろうが」
フランシスカの顔から困惑が消えた。
「まあ、私は君が言うように貴族ではなく平民の商人だ。妻になる女性が純潔かどうかは気にしない」
フランシスカの顔色が変わった。冷たい怒りが浮かぶ。
「……なんですって?」
「あれだけ頻繁に男の寝室を訪れていたんだ。今さら清純ぶる必要はないだろう?」
「黙りなさい」
フランシスカの声が刺すようなとげとげしさを纏う。
「あなたは誰に向かってそんなことを言っているの? この私に向かって? 平民風情が?」
「平民、か」
苦笑をもらしたフィリップに、フランシスカは言い募る。
「そうよ。あなたはお金を持っているかもしれないけれど、所詮は金貸しの平民でしょう? 私は名門カノーサ家の娘よ。あなたに侮辱されるいわれはないわ」
フランシスカは、せきを切ったように喋り出す。
「婚約の間だって、連絡がどうとか時間がどうとか、まるで商売の相手みたいに! 私がレイノルドを見舞うことを、あなたにどうこう言われる筋合いはないわ? 横から出てきて、すべてを台無しにしたのは、あなたのほう! あなたには私たちの高尚な想いはわからないでしょうけれど、私たちは幼い頃からの――」
「フランシスカ」
フィリップの声の低さに、フランシスカは口を閉じた。フィリップが彼女を呼び捨てにしたのは初めてだった。
フィリップはゆっくりと歩み寄る。フランシスカが一歩後ずさった。
「覚えておくといい。君は私の妻だ。今日、自分の手で、署名しただろう?」
穏やかさは変えないまま、一音一音に刃のような鋭さを滲ませた。
「彼を見舞うのは構わない。これからも好きなだけ行くといい。だが侍女は同席させる」
「……侍女? 私を監視するつもり?」
「報告を受けるだけだ」
「笑わせないでちょうだい。あなたに私の何を――」
「もし侍女の同席を拒んだりしたら、次の月のものが終わるまで君の外出は許可しない」
彼女が息を呑む。フィリップはつづける。
「純潔である必要はないが、他の男の子どもを育てる気もない。もし私以外との子ができたとしたら、その子は育たないと覚えておいてくれ」
沈黙が落ちた。最新式のオイルランプの灯りが、二人を照らし出す。フランシスカの顔は今度こそ蒼白だった。
「それで、どうする? 婚姻の義務をここで果たすか?」
何度も口を開こうとしては、一言も出てこない様子のフランシスカに、フィリップは小さく息をつく。一歩引き、声から圧を抜いた。仕事の指示を出すように感情を交えずに告げる。
「それともうひとつ。来月、取引先を招いた昼餐会を行う。エスカランテ伯爵が出席する。妻として働いてくれ」
「私を商会の従業員だとでも思っているの?」
「何度も言うが、君は私の妻だ。君が貴族の娘であることに価値がある。私は卑しい平民育ちだからな。貴族の不文律がわからない。ぜひ君が誇る貴族としての力を発揮してくれ。その対価として、我が家はカノーサ家の借財を肩代わりし、君の暮らしを保証しているんだ」
フランシスカが目を見開き、まるで初めてかのように、フィリップをまじまじと見つめた。
「それが君が署名したこの婚姻の意味だ。いい加減、理解してくれるとありがたい」
「……今まで、そんなこと、一言も……」
「婚姻するまでは君は貴族で、私は平民だ。言ってどうなる? まあ、私は今日から男爵になったわけだが。――君は一体何になった?」
フランシスカの顔に驚きが広がり、やがて青褪めた。
フランシスカは初めて理解したのかもしれない。フィリップがこの結婚に愛など求めていないことを。冷静に、合理的に、必要なものだけをこの婚姻から切り取るつもりであることを。
フランシスカはしばらく黙っていた。長い沈黙だった。しばらくして絞り出すように言った。
「……そう。それがあなたのいう婚姻なのね。わかったわ」
今まで見せていた傲慢さは、どこかへ消えていた。
フィリップはうつむいたまま動こうとしないフランシスカに肩をすくめると、ベッドへと歩みを進める。ベッドの上でナイフを取り出すと、自分の指をついて血を滴らせた。
「何をしているのよ、あなた!?」
真っ青な顔で止めようと飛びついてくるフランシスカから、あわててナイフを遠ざけた。
「証拠を残しているんだが? 精液も残したいところだが、さすがにそこまではな」
「せっ!?」
「君はそっちの端でも使ってくれ。私はこっちの端を使う」
呆然として動かないフランシスカに、フィリップが笑う。
「初夜に放っておかれた妻だと思われたくはないだろう? それとも本当に既成事実を作るか?」
飛び上がるようにしてベッドの端に後退ったフランシスカにもう一度肩をすくめてから、フィリップはベッドに寝転がる。
さすがに初夜から別々に寝るのは、いらない詮索を生む。嫁いだばかりの夫にないがしろにされた妻と評されるのは、彼女の立場的によくないだろう。妻として遇すると宣言したばかりだ。
じっと横になっていると、ぎしりとベッドが音を立てる。フランシスカがゆっくりと身を横たえる気配がした。隣に慣れない温もりがあることを感じながら、フィリップは目を閉じた。
長い夜がようやく明けた。
目を閉じていただけで、フィリップは寝ていない。起き上がって窓際に立ち、夜明け前の藍色の空を眺める。寝息が聞こえる。フランシスカはちゃんと眠れているようだ。
婚姻は成立した。男爵位を得た。契約は履行された。これからは貴族との取引も増えるだろう。すべて計画通りだ。
「……最低だな」
フィリップの目が昏く沈む。
冷徹に利益と損益だけを計算する。そこに含まれる感情すら計算のうちだ。すべてを計算のうちに収めてしまえる自分は、冷たい人間なのだろう。だが、他の生き方をフィリップは知らない。
フランシスカへの怒りはない。こんな自分と婚姻をさせられるなど、むしろ哀れだとすら思っている。
鳥籠の中で育てられた綺麗な小鳥。風切り羽を切り取られているとも知らずに、いつでも大空に戻っていけると夢を見ている。
「飼われているのは、私も同じ、か」
フィリップも、マティシス家の支配下にある。皇命で逃げられなかったのは、フィリップも同じだ。ただ、フランシスカより状況判断が的確で、割り切るのが早かっただけ。
フィリップは小さく息をつくと、窓の外に明るさに目を細めた。
藍色の空が赤く染まっていく。
これからは、金を持つ者が力を持つ時代がやってくる。使うことしか知らない貴族はやがて没落していくだろう。彼らが仮初の平穏を怠惰に享受している間に、平民がどれだけのことが成し遂げるのか。彼らはきっと思い知ることになる。
「そのうち、平民に頭をさげる時がやってくる」
ぽつりと呟いたフィリップの声が聞こえたのか、フランシスカが寝返りを打つ。毛布がずれて、肩が剥き出しになる。起きた様子はない。彼女は寝相があまりよくないらしい。
小さく笑うと、フィリップはずり落ちた毛布をフランシスカの肩までひきあげ、彼女の横に滑り込んだ。
目覚めたフランシスカが、隣で寝転んだまま書類を読むフィリップを見て、大きな悲鳴をあげたのは、ずいぶん時間が経ってからだった。
◇◇◇
トマーソン家の広間は男爵家としては異例なほど広く、高い窓から陽光がさんさんと降り注いでいる。この屋敷は、ある高位貴族の別荘を買い取ったものだと聞いた。
優雅な生演奏がゆるやかに流れ、広間のあちこちで貴族らしい笑顔を浮かべた人々がほがらかに談笑している。よく教育された使用人たちが、招待客をもてなしていた。
フィリップが男爵に陞爵されて初めて主催する昼餐会。貴族の一員となった披露をかねての大事な会だった。
この日を迎えるにあたって、フランシスカが決めたことは、ほとんどない。彼女が決める前に、招待客も席次も、当日用意する料理までもが、すでに決められていた。フランシスカが決めたのは、友人たちのうち誰を招くかだけ。
フィリップが雇った優秀な家令が、何度も「奥様、これでいいですか?」と確認してきた。
元伯爵家の四男だという家令は、何事にもそつがない。フランシスカが手を出さなくても、昼餐会の手筈は滞りなく行われていくというのに。
「どうして、いちいち聞いてくるのよ!?」
「きちんと夫人として扱うよう、フィリップ様から命じられておりますので」
いらいらして怒鳴ったフランシスカに、家令は表情の読めない顔で答える。その答えに、きちんと女主人の意向を尋ねることで、彼女の面目を潰さないようにしているのだとわかった。
「夫人、ね。私を必要となんかしていないくせに」
鼻で笑ったフランシスカは、毎朝の食卓を思い返す。
フィリップは忙しいのか、朝夕の食卓にも姿をあらわさない。そもそも食堂には彼の食器すら置かれていないので、食事を共にする気があるかどうかすら怪しい。
彼の姿はないかわりに、フランシスカの席には毎朝小さなカードが置かれている。カードには、簡潔に書かれたフィリップのその日の予定。数日眺めたあと、そのカードを手に取ることもなくなった。
ようやくフィリップと顔を合わせたのは、昼餐会当日の朝だ。
嫌味のひとつでも言ってやろうと思っていたが、彼の顔色を見て諦めた。目の下に隈がべっとりと貼り付いている。
「寝ていないの?」
「寝ていない。この昼餐会と商会の決算が重なった。書類仕事が終わらない」
「それなら昼餐会を先延ばしにすればよかったんじゃないの?」
「早めに行わないと侮られる。貴族は面子が何より大事だろう」
フランシスカには返す言葉がない。確かに、貴族は舐められたら終わりだ。
フィリップが疲れた表情を消してフランシスカを見つめた。
「そのことで君に頼みがある」
「なによ?」
「私の顔を見るのも嫌だろうが、今日だけは我慢してくれ」
「どういうこと?」
フィリップの眉が困惑げに寄せられた。
「人の顔を見るなり悲鳴をあげていただろう」
「あれは! 見慣れない男が同じベッドにいたら、悲鳴もあげたくなるでしょう!?」
「そういうものか?」
フィリップが首をかしげる。
「……もしかして、顔を合わせないようにしていたの?」
「そうだ」
フランシスカは吐息を落とした。今までの会話から頭がよいのはわかっている。財もあって身なりも悪くない。どれだけでももてそうなのに、繊細な女性の心の機微は一切わからないらしい。
「別に。顔を合わせるのが嫌なほどではないわよ」
フィリップはしばらく考えるように黙ってから、やがて「わかった」と応えた。
フランシスカは、フィリップの腕を取って談笑しつつ、貴族たちの間を縫って歩く。
フィリップの隈は、フランシスカ付きの侍女の手腕でなんとかないものとなっている。化粧の威力に、フィリップは感心していた。
周囲からの視線が、ちくちくと刺さる。この会の主催者なのだから、視線は集まって当然。だが、その視線が新興の男爵家に向けるものではなかった。
本来なら新しく陞爵された男爵家がどこまでできるか、値踏みするように見られるものだ。それなのに、かけられる言葉はどれもフィリップにおもねるようなものばかりだった。
「トマーソン男爵、陞爵おめでとうございます」
「先日は融資をありがとうございました」
「街道整備の件ですが、ぜひ我が家にお力添えを――」
貴族に慣れていないはずの彼は、如才なくそれに応えている。つい先月陞爵されたばかりの人間の振る舞いとはとても思えなかった。
フランシスカに対しても同じだ。エスコートは完璧。周囲の扱いも、伯爵令嬢でいた頃よりもずっと丁寧だった。
「フィリップ殿。男爵の授位、おめでとう。ようやく君も貴族の仲間入りだな」
エスカランテ伯爵が親しげにフィリップの肩をたたく。存在感を示そうとして、どこか失敗していた。伯爵が新興の男爵にひどく気を遣っている。
「恐れ入ります」
フィリップは軽く頭を下げる。
フランシスカは驚きを表情に出さないよう、作った笑みを保ちつづけた。
「あちらで少し男同士で話でもどうだね? 紹介したい者たちがいるんだ」
「それはありがたい。人脈は何よりの宝ですからね。エスカランテ伯爵夫人、妻をお願いできますか?」
フィリップはきちんとフランシスカを伯爵夫人に頼んでから、伯爵と連れ立って離れていく。
フランシスカは、伯爵夫人に頭を下げた。
「エスカランテ伯爵夫人、本日はご参加くださり、ありがとうございます」
「まあ、伯爵夫人だなんて。ぜひマーガレットと呼んでちょうだい。わたくしもフランシスカ様とお呼びしてよろしくて?」
「ええ、もちろん。マーガレット様」
「ありがとう、フランシスカ様」
なぜこうも貴族たちが揃いも揃って、フィリップと親しくなろうとするのか。その疑問が顔に出たのか、伯爵夫人が扇の向こうで口角を上げた。
「もしかしてトマーソン商会の価値がいちばんわかっていないのは、貴女なのかしら」
「商会の価値ですか? たかが一介の商会ですのに?」
伯爵夫人が目を細める。真意を探るようにフランシスカをじっと見つめた。
「今のペナトスで、トマーソン商会を敵に回したい貴族はいないわ。それでも足元を掬われないようにしないといけないのはわかるかしら、フランシスカ様。――レイノルド・サンチェス伯爵令息とは、ずいぶんと仲がよろしいのね」
「幼馴染ですから」
「寝室にまで通される異性の幼馴染?」
「それが、なにか?」
目上だろうが構うものか。フランシスカは昂然と顎を上げ、挑戦的な目つきで伯爵夫人を見つめた。伯爵夫人が小さく息をつく。
「貴女が幼馴染の元に通うことで、あの方が侮られるのは困るの。当家も出資しているのだから」
「それが私と関係ありますか」
「貴女は、フランシスカ・トマーソン男爵夫人になったのではないの?」
フランシスカは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
誰も彼もが、フランシスカにフィリップの妻であることを求める。フランシスカが望んだものではないというのに!
伯爵夫人の物言いにも腹が立つ。カノーサ家の娘であったときは、ここまであけすけに言われたことはない。
「平民あがりごときに、どうしてカノーサの娘である私が配慮しなければならないのです?」
「貴女はもうトマーソン男爵夫人であって、カノーサ伯爵令嬢ではないからよ」
きっぱりと言い切って伯爵夫人が眉をひそめる。頑是ない子どもを見るような表情だった。
「貴女、ほんとうにトマーソン男爵に興味がないのね。ただの平民が貴族になってたった一ヶ月で、昼餐会を主催できると思って? その様子では、彼がフロレンシアの貴族学校を優秀な成績で卒業されたことも知らないようね?」
「貴族学校? どうして平民なのに」
「特待生として入学が許可されたと聞いているわ。マティシス家の力も働いたのでしょう。あの方は貴族になるべく、きちんと教育されているの。平民あがりと侮ってよい方ではないわ。マティシス家の名も含めてね。――婚姻は契約よ。婚姻した以上、きちんと義務は果たしなさい。貴女がそれこそ貴族だというのなら」
「余計なお世話ですわ」
伯爵夫人が扇の向こうで大きく息をついた。「ここまで言うつもりはなかったのだけど」と呟くと、にこりと微笑む。彼女の目が大きく弧を描いた。
「フランシスカ様。オルダーニ侯爵夫人、元、ヴァッレ子爵令嬢を知っていて?」
「いいえ」
「トマーソン男爵の幼馴染よ。貴女とサンチェス伯爵令息と同じね。だけど違うのは、トマーソン男爵はわきまえていたってことね」
伯爵夫人がすっと視線を横へ流した。彼女が視線で差した先を、フランシスカは追う。フィリップがいかにも高位貴族と思われる夫妻と遭遇したところだった。
高位貴族と思われる男が、快活にフィリップに片手を上げる。
「やあ、フィリップ!」
「オルダーニ侯爵。本日は当家まで足をお運びいただき、ありがとうございます」
慇懃に頭を下げたフィリップの背を、オルダーニ侯爵と呼ばれた男がたたく。
「堅苦しい挨拶はよせ。私とおまえの仲だろう」
「そういうわけには参りません。もう学生ではありませんし、私も男爵となりましたのでね」
「それはおめでとう。だが、学生のときと同じようにしないと、不敬罪に問うぞ?」
「止めてください。敬語なしで喋らないと不敬罪って理不尽すぎるでしょう」
侯爵と腕を組んでいる夫人が、「それはどういう理屈なの、エミリオ」と呆れたようにたしなめる。
フィリップが夫人に顔を向ける。
「こんにちは、アデリナ夫人。お久しぶりです」
「陞爵おめでとう、フィリップ。それからご結婚も。結婚式には参加できなくてごめんなさい」
「気にしないでください。体調はもう大丈夫ですか?」
「ちょっと風邪を引いただけなのよ。なのに、エミリオが許してくれなくて。――確かに、あなたに敬語を使われると少し寂しい感じがするわね」
侯爵の瞳の色に合わせた新緑色のドレスがよく似合っている。彼女が笑って首をかしげると、揺れた金茶の髪が窓からの光を受けてきらきらと煌めいた。
フィリップが眩しいものを見るように目を細めると、小さく微笑んだ。ほんの少し困ったように。どうしようもなく優しい色をその目に浮かべて。
フランシスカは息を呑んだ。
彼のそんな顔を自分は知らない。そんな顔を見たことがなかった。
胸の奥がざわつく。初夜の言葉が蘇った。
――君のことは愛していない。
あれは嫌味でもなんでもなく、ただの事実だった。フィリップにも愛している人が別にいたのだ。フランシスカと同じ、幼馴染だと伯爵夫人は言った。だけど、彼はそれを一度もうかがわせなかった。少しも態度に出さなかった。
地位や金にしか興味のない冷たい人間だと思っていた。爵位のためにフランシスカを買い叩いた、卑しい商人の男だと、そう。
フィリップはフランシスカが婚姻後も幼馴染を訪れることを厭わない。
それは、彼が最初からフランシスカに愛を求めていないからだ。彼が求める妻としての役割に、愛は含まれない。
――私を愛したりしないで。
初めて会ったときに彼に告げた言葉を思い出す。
そう言ったのは。そう決めたのは、自分のほう。
彼は何事もなかったように侯爵夫妻との会話をつづける。
素早く、なめらかに。取り繕う様子すらなく。まるで一瞬のやわらかな眼差しなど存在しなかったかのように。
「同じ幼馴染でもこうも違うとは、驚きしかないわね」
エスカランテ伯爵夫人の言葉に、何も返すことができない。
だけど意地でも笑顔だけは浮かべつづけた。フランシスカの存在を忘れたかのように侯爵夫妻と話すフィリップの横顔から、どうしても目が離せなかった。
「奥様にご挨拶をしても?」
アデリナ夫人の言葉に、フィリップがようやくフランシスカに視線を向ける。すっと熱が冷めた目がフランシスカを射た。
「フランシスカ、こちらに」
フィリップが彼女を呼ぶ。エスカランテ伯爵夫人に小さく会釈すると、フランシスカは夫となった男の元に震える足を進めた。
最後の客を見送って、やれやれとフィリップは肩を回す。
陽が陰ってきたエントランスは少し寒い。ぶるりと身を震わせたフランシスカに気づいたのか、彼は上着を脱いで彼女の肩へとかけた。
「今日は妻として振る舞ってくれて助かった。感謝する」
仕事ぶりを評価するような口調だった。だがフィリップに悪気はなく、本気でそう思っているのだと、今のフランシスカにはわかっている。背にかけられた上着には、まだ彼の体温が残っていた。
「……あなた、貴族学校を卒業していたのね」
こぼれた言葉に、フィリップはフランシスカに視線を据えた。
「エスカランテ伯爵夫人から聞いたのか? まったく、あの人は口が軽くていけないな」
フランシスカは、まだ温かい上着をぎゅっと両手で握りしめた。次の言葉を告げるには勇気がいった。
「…………あなたにも好きな人がいたのね」
真顔になったフィリップが静かに問う。
「なんのことだ?」
「オルダーニ侯爵夫人」
「――それも伯爵夫人か?」
「違うわ。見たから。彼女を見るあなたの顔」
表情を隠すように、フィリップは手のひらで顔をひと撫でする。それから顔をそらして腕を組んだ。
「……私には、彼女を地獄に引きずり落とす勇気がなかったな」
口元を歪めて笑うその顔をフランシスカは見つめた。フィリップはフランシスカを見ない。こうなって初めて、彼がいつもフランシスカと視線を合わせていたことに気づいた。フランシスカは彼をきちんと見たことがなかったから気づかなかった。
「……あなたは自分がどうなっても、そんなことはしない気がするわ。……たぶんだけど」
またこぼれ落ちた言葉に、フィリップが目を丸くする。
「どうしたんだ? あれほど平民と蔑んでいたのに」
「別に。あなたは平民、だったけど、同じ人間だったんだなと思って」
フィリップの顔から笑みが消える。じっと見つめてくる視線がなんだか落ち着かなくて、今度はフランシスカが顔をそらした。フランシスカのその態度に彼が小さく笑った気配がした。
「疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」
「あなたは? まだ寝ないの?」
「書類仕事が残っている」
「そう。……私にも手伝えるかしら?」
一瞬の沈黙のあと、フィリップが低く告げる。
「いや、商会の仕事だからな。君の仕事じゃない。構わず先に休んでくれ」
「……そう。上着、ありがとう。返すわ」
なにも知らない頃のフランシスカなら、冷たい人だと思ったかもしれない。
彼は約束通り、妻として常に尊重してくれている。フランシスカが彼をどう思っていても、彼が自分をないがしろにしたことは一度もない。
フランシスカは、誰もがフランシスカを彼女自身として見ないことに憤っていたけれど。フィリップは、ちゃんと彼女を見てくれていた。
反対に、自分はどうだっただろう。フィリップを彼自身として見たことがあっただろうか。彼ときちんと向き合ったことは、一度もなかった気がする。
ないがしろにされる痛みは知っているはずなのに。
自分が誰かを尊重してこなかったことが、こんなにも痛い。
昼餐会の数日後、フランシスカはひさしぶりに幼馴染のレイノルドの元を訪れた。
婚姻式の前から昼餐会までの間、手紙のやりとりはしていたが、忙しくて会うことは叶わなかった。
家令にレイノルドを訪れると話すと、きちんと馬車は準備された。他家を訪れるのにふさわしい贈り物も持たされる。実家から連れてきたのではない侍女が付けられた。
妻がひとりで他の男に会いにいくというのに、すべてが滞りなく、過不足なく、必要なことだけが整えられていく。
そこには愛情も嫉妬もなかった。ただ他出する妻に対しての最適な配慮だけがある。
幼馴染であるレイノルドの部屋は一階にあるせいか、いつも少し薄暗い。体が弱く、嫡男でもないレイノルドの伯爵家での立場があまりよくないものなのは感じていた。
だから余計に、彼を自分が支えるのだと思っていたのだ。
「フラン。会いたかったよ」
ベッドの上で身を起こして本を読んでいた青年が微笑む。甘く優しい声に、胸が弾む。
「身体の具合はどう?」
「最悪だね。医者は大人しくしていろと言うけれど、何もしないでいると内側から腐っていきそうだよ。退屈で仕方ない」
「少し熱っぽいわね」
なんのてらいもなく額に当てられたフランシスカの手に、レイノルドは目を細める。
「ねえ、フラン」
熱のせいか、いつも穏やかな彼には珍しく、少し浮ついた調子だった。
「君のお父さんに相談してもらえないかな。医者が言うには、南の療養所なら少しは良くなる見込みがあるらしいんだ。でも費用が」
「……それは」
「トマーソン男爵にでもいいんだけど。君から男爵に頼むのは難しい? 今の彼なら、その程度は端金じゃないか?」
フランシスカは黙った。
カノーサ家にも、トマーソン家にも、彼に資金を出す理由がない。彼が望むのなら叶えてあげたいけれど、フランシスカにはそこまでの財がなかった。
それに、レイノルドはわかっているのだろうか。
レイノルドが南に行くことは、二人の別れを意味する。
フィリップの妻になったフランシスカが、南の療養所まで付いていくことは、さすがに許されないだろう。
「……レイ、私、きっと南には一緒に行けないわ」
「だろうね」
あっさりとそう言ったレイノルドに、フランシスカは言葉を失う。
レイノルドはフランシスカの反応に構うことなく喋りつづけた。
南の療養地の話。医者の見立て。回復したあと、どうするか。言葉はとてもなめらかで、まるであらかじめ用意された台詞を読み上げているようだった。
――こんな人だっただろうか。
フランシスカは内心の不安と怯えを抑え込んだ。
今日のレイノルドはおかしい。ちっともフランシスカのことを見ようとしない。彼女が相槌すら打たなくなっても、レイノルドは気にしない。
フランシスカは部屋の中を見回した。幼い頃から何度も来た部屋だ。
ベッドを離れられない彼の横に座って一緒に本を読んだ。すぐに息を切らして胸が痛くなる彼の背を必死にさすった。「もう飽きた」と口を尖らせる彼に、ふうふう息をかけて冷ましながらミルク粥を食べさせた。熱を出して真っ青に血の気を失った彼の横で、彼を連れていかないでと見たこともない神に一晩中祈った。
思い出は、全部この場所にある。
なのに、レイノルドはそれを捨てて、南の療養所に行くという。
きっとそこに、フランシスカは含まれていない。
彼から決定的な言葉を聞くのが怖くて、尋ねることすらできない。
ずっと彼に愛されていると思っていた。でもそれは勘違いで、自分は都合のいい女だったのだろうか。いつでも心配して世話を焼き、勝手に恋をしてくれる。そして今度は、愛する彼のためなら、いくらでも金を用立てると思われているのか。
フランシスカの胸の中で、なにかがぷつりと途切れる音がした。
両腕がだらりと力を失くす。
「ごめんなさい。今日はもう帰るわ」
「フラン」
レイノルドが立ちあがろうとするフランシスカの左手を、そっと引いた。彼女の左手にはまった指輪をじっと見つめる。
「本当に結婚したんだね」
「レイ。私――」
「似合ってるよ。おめでとう。式には行けなくて残念だった」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
フランシスカの顔がこわばる。絞り出すように言った。
「本気で言っているの?」
「もちろん」
「……どうして? 私、あなたのことが」
「フラン。僕の薬代がどこから出ているか知っている?」
言い募ろうとしたフランシスカの言葉を遮って、レイノルドが微笑む。
「どこからって……」
「一年前からマティシス家が払っている。君が逃げないよう手綱を握っておくよう言われていた」
「なんですって?」
「そんな必要もなかったみたいだけど。体が弱くて学校にも通えない、政略にも使えない次男にかける金なんてないんだよ」
レイノルドが唇の端を歪めた。
「南の療養地の話、マティシス家から打診されている。きっと療養地に着く前に事故で死ぬか、あちらに着いてから毒をもられるか。まあ、旅に耐えられず、その前に寿命が尽きるかかな。どっちにしろ、僕はもう長くないよ。貴族以上に貴族的で容赦がないね、あの家は」
その言葉にフランシスカは息を飲み込んだ。
知らない。そんなことは、フランシスカは知らなかった。
彼の見たこともないくらい昏い目が、フランシスカを射る。
「君は家に逆らわなかった。僕を選ばなかった。それが、答えじゃないかな」
「だって! この結婚は皇帝の命令で、それに逆らえるはずは」
「僕と死ぬ気はなかったってことだろう?」
レイノルドはフランシスカから視線をそらした。
「さようなら、フランシスカ。僕を愛していると言いながら、僕を選んでくれなかった、薄情な君。君は生きて、幸せになるといい」
窓の外を見ながら、独り言のようにレイノルドが言った。
いつも通りの部屋だった。薄暗く、薬の匂いがして、誰よりも愛しいはずのレイノルドがいる。
それなのに、彼はもうフランシスカを見ない。彼のいない世界で生きればいいと言う。
レイノルドの手が、フランシスカから離れた。離れていく手を、フランシスカは引き止めることができなかった。
それきりレイノルドは何も喋らない。フランシスカがそこにいないかのように、本のページをめくる。
ためらいながら部屋を出る直前、フランシスカが振り返って見たベッドの上で、レイノルドがとても小さく見えた。
屋敷へ戻ったあとも、フランシスカは眠れなかった。夜着に着替え、ベッドの上に座ったまま、ずっと考えている。
胸の奥がじくじくと痛む。
レイノルドを愛している。幼い頃からずっと。
彼の回復を心から願っていた。いつか一緒に歩ける日がくると信じていた。
たとえ皇帝の命で別の婚姻を結ばされても、心だけは明け渡さないと誓っていた。
なのに。
――君は僕と死んでくれなかった。
今日の言葉が蘇る。
レイノルドはフランシスカに一緒に死んでほしかったのか。一緒に生きるのではなく。
レイノルドはいつ、自分の命を諦めたのだろう。
フランシスカがフィリップとの結婚を決めたときか。それとも、フィリップとは関係なく、もうずっと前だったのか。
――薄情。
レイノルドがフランシスカを評した言葉。
幼い頃から積み上げてきた関係の成れの果て。
フランシスカは膝を抱えた。
レイノルドが大好きだった。本当に愛していた。
ただ貴族の娘として、この婚姻から逃げられないと思ったのも本当だった。
フランシスカは、父母にとって、政治的価値のある駒だった。
マティシス家にとっては、貴族社会に食い込むための足がかり。
皇帝にとっては、マティシス家への借金を帳消しにするための質草だろう。
フィリップにとっては、男爵位を得るための道具にすぎない。
レイノルドにとって、フランシスカは――なんだったのだろう。彼はフランシスカのことを愛していたのか。それとも、ただ手放せない後ろ盾だったのか。カノーサの娘が気にかけていれば、彼の両親も彼をないがしろにはできないから。
どうすべきだったのか。レイノルドがどうしてほしかったのか。もう、わからない。聞くことができなかった。
あれだけ愛して、愛されていると思っていたのに。
扉がノックされる。応えを返すと、フィリップが入ってくる。まだ仕事をしていたのか、彼は普段着のままだ。
「夜遅くにすまない。向こう一週間の予定表だ。確認しておいてくれ」
「……こんな時間に?」
「朝から仕事の話をすると、君の機嫌が悪くなるからな」
フランシスカは何も言えなかった。
感情を含まない淡々とした声。甘さのかけらもない。ただ妻という役割を滞りなく遂行させるための緻密な配慮だけがある。
「なんだか浮かない顔だな。サンチェス子爵令息と喧嘩でもしたのか?」
「侍女に報告させているんじゃなかったの?」
「会話の詳しい内容は聞いていない。必要ないからな」
――じゃあ、なにが必要だというの。
好きだけでは足りなかった。愛だと思っていたものは否定された。
父に逆らっていればよかったのか。
二人で手に手をとって逃げて、どこかで野垂れ死んでいればよかったのか。
そうすれば、レイノルドはまだフランシスカを愛してくれていたのか。
わかっている。これは八つ当たりだ。
叫び出したくなった自分を、腕に力をこめてぎゅっと閉じ込める。
「……そんなんじゃないわ」
「ほんとうに何か変だな。体調でも悪いのか」
フィリップが顔をしかめた。伸びてきた手がそっと額にそえられる。体が固まった。
「ああ、すまない」
すぐに離された手を引き止めたくなる。泣きそうな自分を見ないふりをした。
「レイノルドが南の療養地に行くの。あなたは知っていた?」
「……いや」
すぐに否定したフィリップは、少し考えてから息を吐いた。
「マティシスか。――父に言っておこう。手出しは無用だと」
予定表を寝台の端に置き、フィリップは「おやすみ」と短く告げて出ていった。
初めての夜以来、フィリップとは一緒に寝ていない。彼が執務にかこつけて、夫婦の寝室ではなく、執務室に置いた作り付けのベッドで寝ているのを知っている。
ぱたりと音を立てて扉が閉まる。まるで世界にひとり取り残されたような気分だ。
眠れる気もしなくて、フランシスカはベッドの上で膝を抱えつづけた。
しばらくそうしていると、扉を遠慮がちに叩く音がした。応えを返すと、実家から連れてきたいちばん心やすい侍女が、おずおずと入ってきくる。
トレーに乗せたカップを差し出した。
「これは?」
「フィリップ様がお持ちするようにと」
カップの中を見る白い液体がなみなみと注がれている。ホットミルク。手に取りそっと口をつけると、ほのかに甘くスパイスと蜂蜜の香りがした。
――定番はホットワインだろうに。
フランシスカは知らず苦笑をこぼした。
子どもの頃からホットミルクが好きだった。体調が悪くなると、よく料理長にねだったものだ。どうしてフィリップは、フランシスカがホットミルクを好むと知っているのだろう。
「子どもみたいね」
自分がレイノルドを愛していなかったと、本人に突きつけられた痛みを受け入れられないことも。
愛していないはずの男からの心ない優しさに、すがりつくたくなる弱い自分がいることも。
ぽたぽたと寝衣の上に滴が落ちた。フランシスカの目からあふれたものがいくつもの染みを作っていく。
こぼれ落ちた嗚咽を、侍女は見ないふりをしてくれた。
◇◇◇
一週間後、朝食の席でフィリップが言った。
「サンチェス伯爵令息には仕事を用意した。彼は自分にもできることが欲しいと言ったからな。在宅で役所の書類を翻訳する仕事だから、そんなに負担にはならないはずだ。彼は数カ国語が読めるんだろう? 公職なら貴族としての面目も立つ」
その言葉にフランシスカは黙り込んだ。
レイノルドは、ベッドの上でいつも本を読んでいた。階段の上り下りさえままならない自分の体を冷静に観察しながら、自分にできることを必死に探していた。
最後に会ったときに、レイノルドが「なにもしないでいると内側から腐っていく」と言っていたのを思い出す。あれがきっとレイノルドの本心だったのだろう。
彼は何かしたかったのだ。自分にもできることがあると思いたかった。それが、フランシスカが最後まで見ようとしなかった彼の真実。
今になって。取り返せないほどの時間が経ってようやく、よく知っていると思っていた幼馴染のレイノルドのことが、フランシスカは初めて理解できたような気がした。
フィリップに向けて、ぎこちなく微笑む。
「ありがとう。お義父様のほうはうまくいったの?」
「条件が二つ。君が二度と会わないということと」
珍しくフィリップが言い淀んだので、「もうひとつは?」とフランシスカは促す。
「子どもが生まれたら、マルティシスの子と婚姻させる。まあ、君と私との間に子は生まれないだろうから関係ないな」
その言葉にフランシスカは胸を突かれた。
どれだけのものを、フランシスカはこの人に諦めさせたのだろう。
「……子を産むのは、妻の義務ではないの?」
「無理をすることはない」
やはりフィリップは、フランシスカの意志を尊重してくれる気らしい。
それがなぜかとても寂しいことのように思えて、フランシスカはあわててパンを口に入れた。
話は終わったというように、フィリップは書類に目を戻した。右手でカップを持ち上げる。その所作がとても美しいのに、フランシスカは初めて気づいた。彼の顔がとても整っていることにも。
「彼の処遇について不満か?」
不意にフィリップが顔を上げて尋ねた。
「不満なんてないわ。彼が望んだことでしょう? それなら私もそれでいいわ」
彼の口元が何かを言いかけて止めたように見えた。フランシスカが首をかしげると、彼は「そうか」とだけ口にして頷き、また書類へ視線を落とした。
フランシスカは自分の紅茶に口をつけた。
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど飲みやすい温度。以前なら気にも留めなかったけれど、今はわかる。これがフィリップの気遣いだということを。
フランシスカが熱いものが苦手なことも。
寝起きは機嫌が悪くなることも。
ホットミルクが好きなことも。
そんな細かいことを全部。ちゃんと彼は知っていた。
愛していないのに。彼はきちんとフランシスカを見ていたのだ。自分とは違って。
その事実が、フランシスカの胸を静かに抉る。
「……ねえ、どうして優しくするの?」
書類をめくる音が止まった。彼の視線がフランシスカを見る。
「優しく? 何が?」
「優しくない人は、毎朝カードを置かないわ」
「あれは――ただの業務連絡だろう」
「お茶の温度も気にするのも、ホットミルクを部屋に届けるのも、業務なの?」
数瞬の沈黙。フィリップが小さく息をついた。
「君は私の妻だからな」
フランシスカは微笑んだ。
知っている。知っていた。妻だから。それだけ。
愛している、ではない。好きだから、でもない。
求められているのは、妻としての役目だけ。だけど、毎朝届けられるカードが途切れたことはない。フランシスカが読まないと知っているくせに。
すべては契約を守るためで、夫しての義務を果たす配慮にすぎない。
フランシスカだから、では、ない。きっと妻が誰であっても彼はそうするのだろう。
フランシスカは俯いた。
知っている。知っていた。
「フランシスカ?」
気遣うような彼の声を今は聞きたくなかった。
視界が滲む。だけど、泣けなかった。泣いてしまえば、彼が悪者になる。
違うのに。
あの日。初めてカノーサ家の応接室で会った、あの日に。
フランシスカは彼に、愛するなと確かに言った。
その願いを、フィリップは今も忠実に守り続けているだけだ。
ただ、それだけなのに。
それだけのことが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
それからの月日は、穏やかに過ぎた。
フランシスカは、フィリップとの約束を守るようになった。相手が誰であっても、待ち合わせの時間には遅れない。遅れたり行けないときは、きちんと連絡する。
男爵夫人としての家政のとりまとめ方を、慇懃無礼な家令に食い下がって教えてもらった。帳簿の付け方を覚えた。茶会や晩餐会での振る舞い方をもう一度おさらいするために、家庭教師をつけてもらった。会を主催する手順を習うために、実家の母に頭を下げた。
フィリップの商会の仕事を理解しようと努めた。社交の場で夫を貶すような真似は決してしない。
約束どおり、レイノルドとは会っていない。一度彼から「元気でやっている」と短い手紙が届いた。直接預かったと手紙を手渡してきたフィリップに、フランシスカは呆れた。
彼を目で追うようになったのは、いつだっただろう。
毎朝届けられるカードに胸が弾み、食卓にあらわれない彼に落胆するようになったのは。
一緒に食事をするときの綺麗な所作。
執務室へ向かうまっすぐな背中。
帰宅したとき、上着を脱ぐ丁寧な仕草。
気づけばフランシスカは、フィリップを見ていた。
商談が長引いたのか、彼が予定通り戻らなかった夜。
寝室へ入っても眠れず、本を開いても文字が頭に入らない。
やがて玄関の扉の開く音がした。使用人たちが主人を迎える声と、それをねぎらう彼の穏やかな声。
無事に帰ってきたという事実に、ほっとする。ほっとしたことに気づいて、フランシスカは本をぱたりと閉じた。
無事かどうかを気にするなんて、まるで彼を心配しているようではないか。
もう布団をかぶって寝てしまおうとしたのに、フランシスカは彼が気になって何度も起き上がった。どうしても彼の無事を直接確認しないと眠れない気がして、寝室を出た。
執務室の扉の前で、扉をたたこうとしては、何度もためらう。
その時、「――そこで何をしているんですか」と背後から低く冷ややかな声が降ってきた。びくりと背筋を伸ばして振り返ると、夜食を運んできたらしい家令が目を細めている。
「彼にちょっと用があるのよ」
家令の鋭い視線に押されるようにして、執務室の扉を開けて中に入った。
しまったと思ったときには、もう遅かった。
フィリップは着替える気力もないのか、シャツ姿のままソファへ腰を下ろしていた。目元に薄く影が落ち、いつも綺麗に整えられている髪も乱れている。
そんな状態なのに、フィリップはすぐにフランシスカに気づいた。彼女が何を言おうか迷っている間に、彼が先に口を開く。
「フランシスカ? どうかしたのか? 何があった?」
「……ずいぶん遅かったから、何かあったのかと気になって」
「ああ。今度の商談で少し揉めている。互いの妥協点を探っていたら遅くなった」
「大変なのね」
「そうだな。まあ、そんな日もある」
フィリップが大きく息をつくと、片手で髪をかきあげた。
「……今日はもう寝たら?」
「ああ、そうする。さすがに限界だ。ありがとう」
彼がかすかに微笑む。そんなふうにありがとうと言われると、なんだか切なかった。
優しくもない、冷たくもない、気遣いに対する純粋な感謝。
ありがとうと言われて嬉しいはずなのに、フランシスカは指先が冷えていくのを感じた。
――違う。
自分の心がはっきりとそう言っていた。欲しかったのは、そんなものではないと。
フランシスカは目を閉じる。瞼の裏に昼餐会での光景が蘇る。
茶金色の髪をきらきらと光らせた女性と、困ったように笑うフィリップ。自分には一度も向けられたことのない顔。眩しいものを見るように細められた優しい眼差し。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
――愛さないで。あなたに愛されるなんて虫唾が走るわ。
フランシスカがそう言ったから。
誠実に。とてもとても誠実に。どこまでも誠実な彼は――フランシスカを愛さない。
あれは、ただの腹いせだったのに。指示に黙って従うなんて思われたくなかったから、せめて一矢報いてやろうと。馬鹿な子どもの嫌がらせだ。
怒らせるつもりだった。傷つけてやりたかった。だって、フランシスカは傷ついていたから。
なのに、フィリップはただ「わかった」とだけ。怒りも、笑いもしなかった。
あの時は、それがすごく腹立たしかったのを覚えている。今は彼らしいと笑うしかない。
泣けない。泣くようなことではない。
歯を食いしばったフランシスカの頭に、ぽすりと温かいものがふれた。
目を開けると、フランシスカの目の前に、彼女の頭に手を載せたフィリップが立っている。
まじまじと見上げる彼女に、「すまない」と言って彼は手を戻す。離れていく手を惜しいと思ってしまった。離したくなかった。つい言葉が滑り出る。
「今日はちゃんと寝室で寝てちょうだい」
「……いや、それは」
「こんなところで寝ても疲れが取れないでしょう?」
フィリップがじっとフランシスカを見つめる。
「……君はそれでいいのか?」
「夫の健康管理は、妻の義務よ」
仕方なさそうに、少し困ったように、彼は口元を歪めた。笑おうとして笑えなかったような顔。それがどこか嬉しそうに見えたのは、フランシスカの欲目だったかもしれないのに。フランシスカは、その顔がずっと忘れられなかった。
気がつけば誰もが、トマーソン男爵夫妻を仲の良い理想的な夫婦だと言うようになっていた。
実際、家としては上手くやっている。男爵家としての社交はそつなくこなしているし、商会の勢いは止まるところを知らない。トマーソン家をないがしろにできる家は、今のペナトスにはない。
でも、フランシスカは知っていた。
フィリップが一度も、フランシスカに「愛している」と言ったことがないことを。
助かったも、ありがとうも、よくやっているとも、言ってくれる。そこには、常に妻への敬意と感謝があった。フィリップはいつもフランシスカを言うことに耳に傾け、その意向を尊重してくれる。
だけど、いちばん聞きたい言葉は、聞けないままだ。きっと、このまま一生聞くことはないのだろう。
ある夜会の帰り、外はひどい土砂降りだった。今はもう馬車の中で、フィリップが書類を読むこともない。それだけの余裕ができたのだと、フランシスカにももうわかっている。真っ暗な外を窓枠に腕をかけて眺めているフィリップに聞いた。
「……あなたは今、幸せ?」
「君は?」
「質問に質問で返すのは、ずるいわ」
「それは、すまない」
違う。ずるいのは。
フィリップからは安定と安全を。
レイノルドからは愛を。
二人の男を天秤にかけて、都合のよいところだけを手に入れようとした。そうして、自分だけは傷つかないようにしようとしたのは――フランシスカだった。
フィリップが少し考える。
「悪くないと思っている」
彼らしい、どこまでも誠実な答えだった。
フランシスカは微笑んだ。悪くないと思ってもらえるなら、それで充分だ。
この人から愛する人と一緒に過ごすという人生を奪った自分は、今の穏やかさを守ることが、彼にしてあげられる唯一のことだろう。
馬車が屋敷の前に止まった。エスコートしようとするフィリップの手を断って、ステップを下りようとする。つるりと足が滑った。支えようと伸ばしたフィリップの手は間に合わない。
ばしゃんと水音を立てて、水たまりだらけの地面にフランシスカは転がり落ちた。
沈黙が辺りを支配する。雨の音だけが聞こえた。
「もう! なんなの!?」
一瞬呆然としてから、全身泥まみれになった姿で、恥ずかしさのあまりフランシスカは地面をばしゃりと叩いた。さらに泥飛沫が跳ね上がり、それをみずから被ってしまって、くしゃりと表情が歪んだ。
あまりの情けなさに泣きそうだ。いや、すでに半分泣いている。
あわてて馬車から降りてきたフィリップが、信じられないものを見たように目を丸くした。しばらく黙然としてから、やがて小さく笑い出す。堪えようとして堪えきれないように、口元を手で押さえた。
「なによ! そんなにおかしいの!?」
「いや、君もそんな顔をするんだなと思って」
「どういう意味?」
じとりと睨みつけたフランシスカに、フィリップはまた笑った。
「なんなのよ、いったい!」
怒鳴るフランシスカに、フィリップは手を差し出す。それをフランシスカが掴まないとみると、雨に濡れるのも構わずに、泥まみれになったフランシスカを、フィリップは「よいしょ」と抱き上げた。
「きゃあ!?」
急に抱き上げられ、今までにない距離間にフランシスカは悲鳴をあげる。
「あなたも泥まみれになるわよ!」
怒鳴りつけたフランシスカに、フィリップは彼女を抱き上げたまま、器用に肩をすくめてみせた。
「だからといって放ってはおけないだろう。君は私の妻だから」
「妻、だから、よね」
困ったようにフィリップが微笑う。
「もう全部必要なものだけでいいと思っていたんだが」
フィリップは、フランシスカを抱いたまま屋敷に入る。手近な椅子に座らせると、侍女があわてて渡してきたタオルで、わしゃわしゃとフランシスカを手ずから拭き始めた。同時に風呂を急いで準備するよう命じている。
「あの。何をしているの……?」
「君を拭いている。君が風邪を引くと私が困る」
「どうしてあなたが困るのよ」
「君が私の大事な奥さんだからだな」
「お、奥さん!?」
「そう呼ばれるのは嫌だったか」
「べ、別に!?」
フィリップが珍しくとても楽しそうだった。唇が弧を描いている。
「私の奥さんがずいぶん可愛いんだが」
「か、かわっ!?」
突然の甘い言葉にフランシスカは混乱する。
怒涛の言葉責めに目を回しそうだ。実際、頭がくらくらする。
そんなフランシスカをどう思ったのか、不意にフィリップが真顔に戻って首をかしげた。
「今気づいたんだが。――私は君がかなり好きなようだ」
その言葉をフランシスカは呆然と聞く。タオルの隙間からフィリップの顔を見上げた。彼の目がじっと彼女を見下ろしている。
「愛してはだめだが、勝手に好きになるのは構わないだろう?」
フィリップは微笑んで、目を細める。その目は、いつか見た優しい色を浮かべていた。
「……何、その理屈。悩んだ私が馬鹿みたいじゃない……!」
「何を悩むんだ?」
首をかしげた彼を、フランシスカは本気で殴りたくなった。
――本当に、本当に、この男は!
女ごころが一切! まったく! ほんの欠片も! わからないのだから!
怒り心頭のフランシスカにさらに首をかしげながらもフィリップは、湯浴みをさせるために侍女に彼女を預ける。風呂からあがったフランシスカは、ホットミルクを飲まされ、容赦なくベッドに寝かしつけられた。身動きできないほど毛布に包まれる。
その後、熱を出した彼女は、ベッドから出してもらえなかった。フィリップは誠実に甲斐甲斐しく看病に勤しむ。
フランシスカの体から熱が冷めないのは、決して風邪のせいではなく、ここぞとばかりに甘やかすフィリップのせいだということを、フランシスカだけが知っていた。
◇◇◇
フィリップ・トマーソンが、実父の養子に入ったのは十歳の頃だった。
幼い時からフィリップは、頭が良いと評判だった。平民の初等学校に通う前から計算もできたし、物事の本質を見抜くのも得意だった。
だけど、それはすべて母が教えてくれたことだった。
母は没落した元子爵家の娘で、父の妾だった。儚い雰囲気を持った美しい女性で、まだ貴族であった頃はずいぶんともてていたらしい。
確かめたことはないが、母を手に入れるために、父は母の実家を没落させたと、フィリップは思っている。それほど母は、不思議な魅力を持っていた。
いつもどこか遠くを見ているような人だった。家事もできなくて、自分で服を着ることすらままならない。放っておくとご飯すら食べないので、どうやったら口にするか、あれこれ試行錯誤したものだ。
ただ、計算や文書読解など、学問に関しての知識と思考は際立っていた。
何より異質だったのが、契約に関することだった。先を見通した上での契約書を作成し、それをきちんと守ることを徹底していた。父との妾契約書を見たときには、その細かさに気が遠くなりそうだった。
何か重要な契約書を作るときは、商売には冷徹なあの父が、わざわざ母の意見を聞きにくるほどだった。
フィリップと母は、母家から離れた小さな小屋に二人で暮らしていたが、本妻の子どもである兄弟たちがやってきては、フィリップをよく殴った。本妻より大切にされる妾の子が目障りだったのだろう。
目の前で暴力を振るわれそうになると、あのいつもぼんやりしている母が身を挺してフィリップを守ろうとするので、そのうち異母兄弟たちが来る時はあえて外出するようになった。兄弟たちも無抵抗な歳上の女性を殴ることに引け目を感じたのか、母の前では暴力は振るわなくなった。その分、外では容赦なく殴られた。
悔しさや痛さを表情に出すとやつらを喜ばせるだけだったので、感情をあらわさない術を身をつけたのは、この時分のことだ。
先を見通すことに長けていた母は、自分の死ぬ時期も知っていたのかもしれない。死ぬ半年前に父に直談判し、フィリップを養子に入れさせた。妾の契約書には、子どもができた場合の条項がきちんと載せられていたのだ。
母の死とともに母家に移されたフィリップは、常に目撃者となる第三者といるように立ち回ることで、暴力は回避できるようになった。
フィリップが十三歳になったとき。父が長兄以外にもう一人、貴族学校へ入学させると言い出した。長兄はすでに貴族学校に通い、それなりに良い成績を取っている。
父は欲が出たのだろう。残りの兄弟の誰かをペナトスのカノーサ家と結びつけ、そいつを貴族にする計画を思いついたらしい。
一年間、学問、儀礼、剣術などあらゆることを競わされた。後ろ盾のないフィリップは、本妻から毒を盛られようとしたこともある。盛られた毒の皿をしれっと取り替え、本妻の三男に食べさせようとして大騒ぎになった。
さすがにその後、本妻は父に釘を刺されたらしく、毒を盛られることはなくなった。
そして、最終的に選ばれたのは、フィリップだった。父に名を呼ばれた瞬間、異母兄弟たちに向けて「ざまあみろ」と、彼は言ってのけた。後で使っていない部屋に連れ込まれ、足腰が立たなくなるまで暴力をふるわれたが、そんなことはどうでもよかった。
貴族学校に行けることになり、幼馴染のアデリナに会えることだけが楽しみだった。アデリナの母は、子爵令嬢であった頃の母の友人だ。嫁いだあとも母を気にかけ、よく小屋に訪ねてきていた。幼いアデリナを、フィリップの遊び相手にと一緒に連れて来てくれていた。
アデリナは子爵令嬢のくせに、なぜか、フィリップを対等に扱った。いや、今思えば対等ではなかったのかもしれない。屋根より高い木に登れだの、川から魚を取って来いだの、無茶振りばかりされていたように思う。彼女も同じようにしていたから、当時は気づかなかった。
兄弟たちに殴られ、いつもどこかに傷を作っていたフィリップを、庇護すべき弟分とでも思っていたのかもしれない。ただ、フィリップのことを庶子とも、平民とも蔑まないアデリナのことが、フィリップは好きだった。彼女だけが、まっすぐに彼を見てくれた。
残念ながら、母の死とともに彼女と会うこともなくなった。最後にアデリナと会ったのは、母の葬式だった、息子のフィリップが泣いていないのに、泣きじゃくっていたアデリナの頭をおずおずと撫でたのが、彼女との最後の記憶だ。
貴族学校で再会したアデリナは、すっかり淑女になっていた。もう木に登ろうともしないし、魚を取るために水に入ったりもしない。ただ再会を喜んで、変わらずフィリップを友人として扱ってくれた。
そのうちアデリナは、同じクラスの侯爵令息に見染められた。彼女も侯爵令息のことを好きになって、子爵家では足りない家格を補うために必死で学んでいた姿を、フィリップはずっと横で見ていた。
成績だけはよかったフィリップが勉強を教えることも、たびたびあった。アデリナとフィリップの仲を侯爵令息が誤解したときには、アデリナ抜きで直接、話をしに行った。
それ以来、すっかり侯爵令息に気に入られて、気の置けない友人扱いされたときは、「私は平民なんだが」と遠い目になったものだ。敬語を使うと怒られた。それでも使いつづけると、「おまえと私の仲なのに!」と泣かれたので諦めた。
よい奴なのだ。オルダーニ侯爵令息は。なによりアデリナをとても大切にしている。
アデリナも侯爵令息に向かって、見たこともない可愛いい顔で笑う。心を許した人間だけに見せる、安心しきった笑顔だ。
彼女が幸せなら、それでいい。彼女のことは好きだが、振り向いてほしいわけではない。彼女が努力して掴んだ幸せを壊したいとも思わない。
フィリップが彼女を手に入れることは、彼女を不幸にすることだと誰よりも知っている。
だから、自分には手の届かない幸せを実現させる二人を、フィリップはただ黙って眺めていた。
二人は学校を卒業後すぐに結婚して、侯爵家を継いだ。
学校を卒業してしばらくしてから、フィリップにも婚約者が予定通りあてがわれた。婚姻が皇帝の命令になっていたのは、予想外だったが。
でも、たぶん。これもフィリップの想像でしかないけれど。最初にこの大きな絵柄を描いたのは、母ではないかと思う。きっと父に夢物語のように言って聞かせたのだろう。だけど、母にはその物語を実現させる気はなかった。父はその夢を叶える気になった。母はもういないというのに。
婚約者になった女性には、フィリップとは別に愛している幼馴染がいた。初対面のときに、「虫唾が走るから愛するな」と言われた。
別に構わなかった。
こんな庶子と結婚させられるなんて、貴族女性として屈辱なのは理解できたし、シャーシャーと毛を逆立てる子猫のようで、むしろちょっと可愛かった。
フィリップは愛を信じていない。
愛が人を幸せにするというのなら、なぜ母はあんなにも不幸だったのだろう。
「愛している」と言いながら、父は母から父母も爵位も自由も、女性としての尊厳すら奪った。
虫唾が走るという意見には同感だ。
だから、フィリップは婚姻後も閨を強要しなかった。
自分の血を残したいとは思わない。母もそれでいいと言うだろう。
ただ他人の子をうまく育てられる気がしなかったので、托卵だけはしないよう釘を刺した。
男爵になった披露目の会のあと。
妻が「あなたも同じ人間だったのね」と言ったときは、ずいぶんと驚いた。あれだけ平民の商人と蔑んでいたのに。アデリナを見る目がうんぬんと言っていたが、何を言っているのかよくわからなかった。
ただ、それを境に、妻が変わったのは確かだった。
妻の幼馴染を、父が始末しようとしていたことがわかったので、いくつかの条件で手を出さないよう父と契約した。
ベッドから動けないという妻の幼馴染に、どうしたいかを聞きに行く。「自分にも何かできることが欲しい」というので、役所の下翻訳の仕事を紹介した。
幼馴染は一連の話を聞くと、目を丸くして「正気?」と尋ねてきた。失礼な。
「君のためじゃない」
言い返すと、幼馴染は笑った。
「なんだ。結構、フランのこと好きなんだな」
「私の妻を愛称で呼ぶのは止めてくれないか」
そう言うと、彼はもっと楽しそうに笑った。
「嫉妬しなくていいよ。フラン――フランシスカはこっぴどく振っておいたから。もう俺に愛想をつかしているはずだよ」
「……嫉妬?」
問い返すと呆れたように「あなた、女ごころがわからないって怒られない?」と言われた。失礼な。
幼馴染の処遇に不満があるか妻に聞いたら、「彼が望んだことならいい」と返ってきた。まだ、彼のことを想っているのか聞きたかったが、口には出せなかった。
しばらくして、幼馴染はわざわざ商会までフィリップを訪ねてきて、妻宛ての手紙を託してきた。わけがわからない。商会まで来られるなら屋敷まで行って自分で渡せばいい。
ただ、それを想像するとなぜか腹が立ったので、仕方なく預かって妻に渡した。これもなぜかわからないが、妻にひどく呆れられた。
夜会帰りの雨の夜。
妻が馬車から転げ落ちて、ひどく慌てた。人生であんなに狼狽したことはない。彼女を失くすかもしれない恐怖に背が凍りつきそうだった。
急いで駆けつけた先で、妻は泥だらけの姿だった。泣きそうな顔で、ひどくしょぼくれている。
いつも勝ち気な彼女のそんな顔が、ひどく可愛らしく見えて困った。
とりあえず風邪を引かせるわけにはいかないと、動く元気もなさそうな彼女をかついで屋敷に戻った。奥さんと呼ばれて顔を赤くする姿がさらに可愛かった。
どうやら、フィリップは妻のことがかなり好きらしい。
そう気づいて素直に伝えると、すごく怒っていた。初対面から嫌われているのだ。告白に激怒するくらい嫌われているとしても、今さらだ。多少落ち込みはするが、気にしても仕方がない。人の気持ちは変えられない。
とりあえず、ぷりぷり怒っている妻にケガはなさそうで、心からほっとした。
その後、妻が熱を出した。死ぬほど心配して、必死に看病した。
今日はアデリナが当家を訪れて、妻と茶会をしている。
いつの間に仲良くなったのか。
アデリナが帰った後、どういう話をしていたのか気になって妻に尋ねる。
「どういう話って、あなたの話よ」
「私?」
「そう。あなた。アデリナ様と意見が一致したわ。――朴念仁」
「は?」
「朴念仁よ、あなたは。理由は、頑張って一生考えて」
「一生」
「答えは、私が死ぬ時に教えてあげるわ」
「それは……」
君は一生、私と一緒にいてくれるということで合っているだろうか。
声にして尋ねる前に、妻がつづけた。
「アデリナ様。妊娠されたんですって」
「それは、おめでとうを言いそびれたな」
「きっと侯爵が家から出してくれなくなるって言ってたから、二人でお祝いに行きましょう」
「ああ、わかった」
「それでね。私も子どもが欲しくなったの。あなたとの子ども以外は育たないんでしょう? だから夫としての義務をちゃんと果たしてね?」
「…………それは、君を抱いてもいいという意味か?」
今度はきちんと声に出して聞けた。呆れた調子の言葉が返ってくる。
「それ以外の意味があるなら教えてちょうだい」
はっきり言わないと、この手のことは、あなたは理解しないとわかったのよ、と、腰に手をあてて胸をはる妻に、勝てる気がしなくて黙り込む。
とりあえず、私の妻が非常に可愛いことだけは間違いない。
何ひとつ、思いどおり、ままならないのが人生だとして。
それでも生きていれば、ときにびっくりするようなことに出会うことがある。
母も、アデリナも、婚約者から妻になったフランシスカも。
まるで、フィリップにとっては、びっくり箱のようで。とても大切な宝物だ。
今日、妻が産んだ赤ん坊が、おそるおそる差し出したフィリップの指をきゅっと掴んだ。折れそうに小さい手なのに、指の先にきちんと爪がある。
何が気に入らなかったのか、「ふにゃあ」と声をあげて泣き始めた。なのに、フィリップの指を離そうとはしない。
どうして。
悲しくもないのに。
涙があふれるのだろう。
母が死んだときでさえ、泣かなかったのに。
自分の子どもを望んだことはないはずなのに。
出産で疲れ切っているはずの妻が、とても優しい目でフィリップと赤子を見つめている。
フィリップは愛を信じていないけれど。
信じていなくても、生きていれば。
生きてさえいれば、愛しいと思えるものに出会えることがあるのだと。
それを思い知った、今日だった。




