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Case1. アルバート・カーリング

 きらびやかな照明の光が広間を照らす。その光の下で、いつもの制服と違い着飾った学生たちが賑やかに談笑していた。学園主催の練習をかねた夜会でのこと。

 

 カーリング男爵家のアルバートは、隅の壁に背を預けて、その賑わいを眺めていた。人々の輪の中心で、楽しそうに笑うひと組の男女に目を細める。

 男性は、伯爵家長男エルトン・スラットリー。女性はハーパー子爵家の一人娘、リゼット。アルバートの婚約者だ。


 リゼットがなにかを囁いて、エルトンの頬に指先を添える。きっとエルトンの体調を気遣う言葉をかけたのだろう。あまりに自然な仕草だった。リゼットは可愛らしい顔に、心配の色を浮かべている。エルトンが頬に添えられた彼女の手を握ると、はかなげに微笑んだ。


 周囲の生徒たちの視線が、リゼットとアルバートの間を往復する。


 困惑。哀れみ。

 あるいは――嘲笑。

 婚約者を他の男に取られている男への。


 そんな視線にも、アルバートはもう慣れてしまった。

 男爵家から子爵家への婿入り。本来なら格上との縁談を持つ身として、羨望されてもおかしくない立場だ。だが、その実態がこれでは、あまりに滑稽でしかない。


 婚約者であるリゼットは、幼馴染の伯爵子息を気遣い、彼のそばから離れない。それは、三年の婚約期間で見慣れてしまった光景だった。入場だけは一緒にしたものの、その後、彼女がアルバートを思い出すことはない。


 エルトンが小さく咳払いした。

 とたんリゼットの顔が曇り、彼の背をやさしく撫でる。


 アルバートは二人を視界から断ち切るように、右手のグラスを傾けた。

 胸の奥が少しだけ痛む。それすらも、慣れたものになっていることに自嘲する。


「……潮時、なんだろうな」


 婚約の成立時、喜んでくれた父や兄には申し訳ないが、これ以上はアルバートの気力が持ちそうになかった。

 アルバートの視線はいつもリゼットを追っているのに、彼女がそれに振り向くことはない。一つ上の爵位である彼女に釣り合いたくて、認められたくて、いつだって頼ってほしくて、学園で上位の成績を取り続けたけれど。

 いつもリゼットは「すごいわ」と微笑むだけだった。その横でエルトンが少しでも顔色を悪くすれば、彼女の視線も関心も心も、すべてが彼に奪われる。


 歪んだ表情を隠すように、アルバートはくしゃりと前髪を掴んだ。


 エルトンが体調を崩したからと、反故になった約束がどれだけあっただろう。いつの間にか、その回数を数えることも止めていた。

 時間を積み重ねれば、心が重なることがあるかもしれないなんて。愚かな期待をしていた自分が嫌になる。アルバートには積み重ねる時間どころか、その機会すら与えられなかった三年だった。


 伸ばした腕一本分の距離を空けて、誰かが隣に立った。

 青いドレスの背が、アルバートと同じように壁に預けられる。

 手を下ろして横目で隣をうかがうと、深い青色の目がアルバートを見た。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 かけられた挨拶に、ただ挨拶を返す。

 ロザリンド・オコーナー伯爵令嬢。ひとつ学年が上の彼女とは、話すのもこれが初めてだ。


「これは私の個人的な感想だけど。――君は充分頑張ったと思うよ」


 アルバートは息を止めた。

 青い目が弧を描く。

 すっと姿勢を戻すと、ロザリンドは歩き出した。青いドレスが目の前を通り過ぎていく。

 正面を見すえる凛とした横顔が印象に残った。


 青いドレスの向こうに、胸元を押さえて青い顔をしたエルトンと、彼を支えて会場を去っていくリゼットが見えた。

 アルバートがここにいることに、リゼットが気づくことはない。それがいつしか二人の当たり前になってしまっていた。

 アルバートは、黙ってそれを見送る。


 なぜか胸はもう、痛まなかった。



 ◇◇◇



「アルバート、婚約を解消するって、ほんとうなの!?」


 約束もなしに訪ねてきたリゼットは、玄関でアルバートの顔を見るなり詰め寄った。

 三年間で初めて見る顔。いつも澄ましたやわらかい笑みを浮かべているその顔に、今は焦りが色濃く漂っている。


 彼女は今日も、アルバートが贈ったことのない香りを身にまとっていた。女性用ではない清涼感のある爽やかな香り。咳を鎮め、呼吸の通りをよくする効果のあるもの。


「ほんとうだよ」

「どうして……?」


 アルバートは、リゼットをまじまじと見つめた。

 ――君がそれを聞くのか。


「僕には務まらないとわかったからだよ。解消すれば、君はこれからもずっとスラットリー伯爵子息と一緒にいられる」

「それが理由? わたしがエルトンに構ってばかりいるから?」


 リゼットの顔が不快げに醜く歪む。


「エルトンのことなら、ただの幼馴染だって言ったじゃない! 彼は胸に病気があって、すぐに息が苦しくなってしまうから、わたしがついていないと。わたしなら対処方法もよくわかっているし」


 アルバートは表情を動かさずに淡々と返した。


「それは、婚約者をほうってまでしないといけないこと? 他の人に任せちゃだめだったのかな」

「それは……」


 言いかけて、リゼットは口をつぐむ。


「君は、彼といたほうが、きっと幸せだよ」


 アルバートは穏やかに告げる。リゼットの顔に複雑なものが浮かんだ。

 逡巡。不安。期待。打算。そして――執着。

 それは、きっと、貴族として正しい。


「……エルトンでは子爵家の執務に耐えられないわ」


 結局出てきたのはそんな言葉で。

 アルバートの笑みに苦いものが混じる。


「その分、君が頑張ればいい。女性でも爵位は継げるんだ。彼の体を案じるなら、それがいいんじゃないかな」


 否定しようとして、リゼットは言葉を失う。なんと返したらいいか、わからないのだろう。アルバートにはそれがわかった。三年間、彼女を見続けてきたから。


「アルバート、わたし……あなたのことを、軽んじていたつもりは」


「そうだね」とアルバートは静かに遮った。


「君は僕が嫌いだったわけじゃない。ただ、スラットリー伯爵子息のほうが大事だっただけだ」


 ずっとその事実を見ないようにしてきた。直視してしまえば終わる。そう思っていた。しかし実際に言葉にしてみれば、それはほんとうに()()()()のことだった。


「君を責めるつもりはない。――でも僕はもう、君といることに疲れたんだ」


 恨んではいない。怒ってもいない。ただもう、(リゼット)を好きでいることに疲れてしまった。


 リゼットが唇を噛んだ。


「あなたは次男でしょう? わたしと結婚しなかったら貴族籍を失うのよ? それでもいいっていうの?」

「官吏試験を受けるよ。幸い僕の成績なら推薦が受けられる」


 リゼットの夫として子爵家を継ぐ予定だった。子爵としてふわしいと言わせたくて、役に立つことを彼女に証明したくて、意地で取り続けた成績だけど、今はそれがアルバートの強みになる。


「アルバート、わたしは……」


 リゼットの言葉が終わるのを待たずに、アルバートは告げる。


「さようなら、リゼット・ハーパー子爵令嬢。――君が僕を見なくても、僕は君が好きだったよ」



 ◇◇◇



 アルバートに手ひどく拒絶されたリゼットは、唇を引き結んだまま家に戻った。

 婚約解消を願われているとだけ聞いて家を飛び出した彼女を待っていたのは、両親の叱責だった。

 婚約解消を願う手紙に同封されていた書類だと、それを手渡されたリゼットの手が震える。


 リゼットが反故にしたアルバートとの約束のリスト。

 リゼットの不誠実な行いが、何十もの事実として並んでいた。


 日々のお茶会や食事会、観劇などの出かける用事。それだけでなく、アルバートの誕生日まで。リゼットはエルトンを優先した。アルバートを顧みることをしなかった。

 リゼットが彼に贈った数少ない贈り物も、同封されていたらしい。


 もうひとつ両親から差し出された手紙に、リゼットは息をのむ。

 エルトンとの婚約を打診する手紙。


「この話は受ける」


 父の言葉にリゼットは顔を跳ね上げた。


「あの、でも、彼は体が……」

「おまえが子爵になるしかないだろう。カーリング男爵家からは婚約解消を呑まない場合、このリストを公開すると言われている。呑まないわけにはいかん。まさか、こんなことになっているとはな。一人娘だからと甘くしすぎた。せっかく優秀な後継者を手に入れたと思っていたのに」


 苦々しく吐き捨てた父に、リゼットは力なく顔を伏せた。彼女の手の中で、後悔しかもたらさないリストがぐしゃりと潰れた。


 アルバートとの婚約解消は、すぐに学園中に噂として広まった。

 格下であるアルバートからの申し出だったこと。そして、スラットリー伯爵家長男エルトンのリゼットへの婿入りが打診されたこと。

 もともとリゼットを頂点とした三角関係は、学園内では有名な話だった。アルバートが身を引く形で収束した三角関係に、学園での口さがない話は止まることがない。


 リゼット自身も、急激に変化した身の上に、まだとまどっている。

 友人たちから、エルトンからの婚約打診を「おめでとう」と言われるたびに、落ち着かない気分になる。なにか大切なものを忘れている気して仕方がない。


 エルトンとの新しい婚約が整った翌日、リゼットはようやく息を吐いた。

 アルバートとはただの政略。彼は優しくて優秀だったけど、それだけ。エルトンだって、体のことがなければ、学園の成績は優秀なのだ。しかも、幼馴染で気心も知れている。だから、これは誰にとっても正しい結末のはずだ。


 エルトンが発作を起こして学園を休んだ日、リゼットは学園での授業が終わると、スラットリー家を訪れた。以前のように、すべてを後回しにして、彼の元に駆けつけたりはしない。子爵家を継がなければならないのだ。学業を疎かにはできない。


 寝室のベッドの上で、エルトンが笑うのを見た時、リゼットは自分の体が固くなるのを感じた。

 なにかが、違う。

 うまく言葉にできない、なにかが引っかかった。

 黙ったままベッド横の椅子に腰かけたリゼットに、エルトンが首をかしげた。


「リゼット、元気がないね」

「元気じゃないのは、エルトンでしょう」

「……ああ、そうだね。 一段落ついてつい気が緩んだんだ」

「一段落……?」


 エルトンの口角があがる。


「やっと彼が引いてくれてよかったよ」

「エルトン?」

「諦めさせるのに、結構骨が折れたな」

「エルトン。アルバートになにか、したの?」

「僕はなにも。君がいつも僕を優先してくれたおかげだ。助かったよ」


 エルトンがリゼットに微笑んだ。

 いつもとは違う、はかなさのない、力強い笑み。


 その笑みに答えを探そうとして、リゼットは視線を忙しなく動かした。昨日まであったはずのなにかがもうどこにも見えないことが、リゼットは怖かった。

 ゆっくりと首をかしげる。唇が震えていた。


「……エルトン」

「なんだい?」

「あなた、わたしが好きよね?」


 エルトンが目を瞬かせた。


「僕が? 君を好き? ――まさか。そんなこと、あるわけがないだろう?」

 

 凍りつくような冷たい声音だった。いつもの甘くなめらかな声とはまったく違う。


「君は僕に子爵は務まらないと思っていた。だから僕を婚約者には選ばなかった」


 歌うように楽しげに、いっそほがらかな声で、エルトンは続けた。


「君は知ろうともしなかったよね。君に庇われるたび、僕がなにを思っていたか。伯爵家の長男でありながら、家を継げないということがどういうことか」


 エルトンの口の端がいびつに歪む。


「死にかけの、みじめな愛玩動物に優しくするのは、ずいぶん楽しかったようだね。優越感はなににもまさる甘露だ」


 ようやく衝撃から立ち返ったリゼットは、悲鳴のような声をあげた。


「ち、違うわ! わたし、そんなつもりじゃ」

「いいよ。わかっている。君はいつも、()()()()()()じゃない」


 ほの暗い色がエルトンの目を覆っていた。

 その底が見えない暗さに、リゼットはすくみあがる。


 ようやくリゼットは気づいた。エルトンがずっと憤っていたことを。

 リゼットが彼への気遣いだと思っていたものが、彼の誇りを踏みにじりつづけ、エルトンはそれを赦す気がないことを。


 ――ああ。アルバート。


 リゼットは心の中で、元婚約者の名を呼ぶ。


 アルバートは一度も、求めず、縛らず、ただ見守ってくれていた。リゼットが冷たくしても怒らず、無関心にも傷ついた顔すら見せず。他の男性を優先するリゼットに、どれだけ胸を痛めていても、彼はずっと誠実でいてくれた。

 だから、気づかなかったのだ。それが、どれほど得がたいことだったのか。


 ――君が好きだったよ。


 アルバートの声が胸に響く。

 淡々としていながらも、それでも捨てきれない感情を含んでいた、あの言葉。


 もう遅い。もう取り返せない。

 リゼットは、この道を進むしかない。

 リゼットへの憎しみに染まる、幼馴染であるこの男(エルトン)と。


「どうしたの、ぼんやりして」


 そう言うと、エルトンは心の底から嬉しそうに――嗤った。


「君はもう僕と結婚するしかない。二度も婚約解消した令嬢に次はない。それに、残念ながら、僕は死ぬつもりはないんだ。改めてよろしく頼むよ、婚約者殿」


 差し出されたエルトンの右手を、リゼットはどうしても握り返すことができなかった。



 ◇◇◇



 リゼットとの婚約が解消された翌朝。

 届けられた一通の書簡が、カーリング男爵家の小さなタウンハウスに騒ぎを巻き起こしていた。


「アルバート! おまえ、学園でなにかやらかしたのか!?」


 休日の朝から自室で官吏試験の勉強をしていたアルバートのところに、次期カーリング男爵、兄であるホレスが駆け込んできた。


「兄さん、うるさい。なんの話?」


 うろんげに見返したアルバートに、ホレスは震える手で書簡を差し出した。


「オコーナー伯爵家?」

「おまえ宛てだ! なにか失礼でもしたのか!?」

「身に覚えはないな。先日の夜会で挨拶だけはしたけど……」


 首をかしげながら封を切ったアルバートは、中身を読んで大きく目を見開く。


「どうした? 相手はなんだって?」

「……今日うちに訪問したいって」

「なんの用で?」

「僕に婚姻を打診する用意があるとかで」

「は!?」


 兄が素っ頓狂な声を上げる。


 書簡の内容は、貴族としての体裁を保ちながらも、非常に簡潔なものだった。

 ――カーリング男爵子息アルバート殿に対し、オコーナー伯爵家は、嫡女ロザリンドとの婚姻を打診する用意がある。ついては、本人の意向を確認するため、本日午後に訪問したい。

 末尾の署名はオコーナー伯爵ではなく、ロザリンド個人のもの。


「婚約をすっ飛ばして、婚姻って、なんだよ!?」


 ホレスが叫んだ。常識で考えればありえない。なにがなんだかわからないながらも、格上からの要請だ。取り急ぎ承諾の返事を送ると、礼とともに訪問の時間が知らされた。


 約束の時間に現れたロザリンドは、紺色のドレス姿で優雅に礼をした。


「ご機嫌よう、次期カーリング男爵ホレス様、ご子息アルバート様。ロザリンド・オコーナーです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 格上の貴人を招き入れるには質素な応接室へと案内すると、ロザリンドは品よく勧められたソファに収まった。


「それで、今日はアルバートとの婚姻の打診とうかがいましたが」


 恐る恐る差し出した兄ホレスの言葉に、彼女はにこりと青い目を細める。


「打診では、そちらに断る余地がなくなりますでしょう? 今日は意向調査といったところです」

「意向調査……」


 困惑したようにホレスが繰り返す。アルバートは小さくため息をもらした。臆することなく、ロザリンドに視線を据える。


「オコーナー伯爵令嬢様」

「はい。なんでしょう、アルバート様」

「様は結構です。僕を選んだ理由を教えてください。そして、よろしければ、いつも通りでどうぞ」


 言外に気を遣わなくていいと告げたアルバートに、ロザリンドの唇の両端が綺麗に吊りあがる。含み笑いをもらすと、ドレスの下で足を組んだ。ソファの背もたれに肘を置くと頬杖をつく。

 一緒についてきていた侍女が、貴族令嬢らしくないその態度にとがめる視線を送ったが、それには目もくれない。

 貴族令嬢の仮面を完全に脱ぎ捨てて、ロザリンドが告げた。


「君を選んだ前提は、五つある」

「前提?」


 眉を寄せたアルバートに向けて、ロザリンドは右手の指を一本立てる。


「前提一。うちの父の体調が思わしくない。オコーナー伯爵家は爵位継承を急いでいる」


 その指の横に、さらにまた指が立つ。


「前提二。私は一人娘だ。爵位は私が継ぐ。だが、さすがに継いですぐの私が、一人で領を回すのは厳しい。優秀な婿がほしい」


 さらにもう一本。


「前提三。爵位継承も婚姻も、私の卒業すぐを予定している」


 その言葉に、アルバートは小さく「ずいぶんと早い」と呟く。

 ひとつ学年が上であるロザリンドの卒業は、わずか三ヶ月後。爵位継承を急いでいると言ったが、それにしてもずいぶん急な話だった。


 ロザリンドの指が四本立った。


「前提四。婿は、現在婚約者がいなくて、すぐに領地経営に携われるほど優秀で、私と一緒に卒業できる者」


 アルバートは両手を組んで口元に当てると、難しい顔で考え込んだ。順当にいけば、アルバートの卒業は一年以上先だ。


「……それなら失礼ながら、すでに官吏として実績があるとか、年上の方を探されたほうが」


 言いかけた兄ホレスを遮って、ロザリンドは手のひらをアルバートに向けて広げた。


「前提五。私が君をとても気に入っている。――帰結。君が適任だ」


 ホレスがぽかんと口を開けた。その兄を横目に見てから、アルバートが尋ねた。


「気に入っているとは、どういう意味ですか?」

「目的のためにひたすらに努力できる君を、私は買っている。それに伴う実力もある。ただ、なにも言わずに我慢する癖は直したほうがいいと思う」


 アルバートは目を細めて首をかしげた。ロザリンドの青い目が真剣な光を浮かべて、アルバートを射た。


「君には、ずいぶん無理をしてもらうことになる。卒業しかり、領の経営を早急に覚えてもらうことしかり。やる気のない人間に、無理やりさせることほど、無駄な労力はない。だから、君の意向を聞きにきた。返事のために何日ほしい?」


「最低一週間。できれば二週間ほしいです」


 しばらく考えてから答えたアルバートに、ロザリンドが笑った。


「その二週間、君はなにをする?」

「父の意向確認。卒業に必要な単位の確認。オコーナー伯爵家の調査。――オコーナー伯爵令嬢の、調査」

「素晴らしいよ、アルバート。存分に調べてくれ。君からの色良い返事を期待している。では、二週間後、同じ時間に、またここで」


 満足気にそう告げると、ロザリンドは紺色のドレスを綺麗に翻し去っていった。


 そういえば、こちらから会いに行くばかりで、リゼットがこの家に来たことは一度もなかったと、アルバートはこの日初めて気づいた。



 ◇◇◇



 伯爵家の書庫で古い資料と格闘していたロザリンドに、落ち着いた穏やかな声がかかる。


「ちょっと一息いれようよ。そろそろ頭が甘いものを欲しがっているだろう?」


 茶と茶菓子をのせた盆を片手に持って、アルバートが立っていた。


「どうしてアルバートが? 侍女に任せればいいのに」

「侍女だったら君が忙しいって追い返すじゃないか。それに僕が君とお茶をしたかったからね」

「わかった。そうしよう」


 小さく息をついてそう言ったロザリンドに、アルバートが微笑む。窓辺の明るいスペースに配置されたソファへと、ロザリンドを誘う。手にした盆をテーブルに置いた。

 薄暗い書棚の奥から出てきたロザリンドは、その窓辺の明るさについ目を細めた。それに気づいたのか、アルバートがレースのカーテンを閉めた。


 ソファを引いてロザリンドを座らせると、その向かいにアルバートも座る。

 ロザリンドが書棚から引っ張り出し積んでおいた古い資料を見つけ、アルバートは興味深そうにめくりだした。


 彼が用意してくれた茶に口をつけると、ロザリンドはそっとアルバートを見つめた。


 不思議な人間だ。

 穏やかで、我慢強い。

 声を荒げるところを見たことがない。

 勤勉。努力家。理解力は、ずば抜けている。

 優秀なのは、間違いない。


 学園を一緒に卒業して一年近く経った今、伯爵位を継いだロザリンドがなんとか領の経営を回せているのも、彼によるところが大きい。


 学園に入学する前。まだ実家の領地にいた頃、アルバートは、忙しい父や兄のかわりに、病弱なカーリング男爵夫人の世話をよくしていたらしい。遊びたいさかりにもわがままひとつ言わず、ずっと母のそばに付いていたと、義父であるカーリング男爵が言っていた。


 彼のなにも言わずにじっと耐える性質は、その頃に形作られたのかもしれない。

 相手をよく観察し、相手がそのとき必要なものをすっと差し出すのが、習い性のようになっている。


 父であるオコーナー元伯爵は、片足を事故で失った。それ以来すっかり消沈し、ベッドで寝たまま過ごす日々を送っていた。

 届けを出すだけの婚姻式を王都で済ませ、領地のオコーナー邸に移ってきたアルバートは、父に会うなり、「平民に体に触れられることは嫌ではないか」と尋ねた。

 意図がわからずとまどう父とロザリンドを尻目に、絶対的な拒否はなさそうだとみてとると、さっさとカーリング領から人を招き、父の介護にあたらせた。


 これといった特産品を持たないカーリング領では、傭兵として働く者が多いそうだ。傭兵が多ければ、手足を失うものもまた多い。そのため、欠損を抱える者の介護に、婦人たちは慣れているという。


 カーリング領からきた三人の婦人たちは、交代で父の介護にあたった。

 父の体を拭き、硬くなっていた体を動かし、侍女も嫌がる下の世話も明るい笑顔で行った。ときには、動こうとしない父を叱り飛ばし、どんな小さなことでも自分でやろうとすることがあれば手放しで褒めた。できることが増えたら、泣いて喜んだ。

 貴族相手に平民の彼女たちがそこまでできたのは、アルバートが、なにかあったら自分の首をかけて守ると言ったからだと、後で知った。ついでに「いつものように、やっちゃって」と頼んでいたらしいことも。


 アルバート自身も、少しでも領のことでわからないことがあれば、父の寝室まで押しかけて質問していた。

 日に何度もやってくるアルバートに苛立ち、「いちいち出入りするな。うっとうしい! 仕事ならここでしろ!」と、とうとう父が、自分の寝室にアルバート用の机と椅子を置いたのを見たときは、ロザリンドは自分の目を疑った。


 足とともに生きる気力すら失い、死んだような目でなにをするにも人任せだった父と同一人物とは思えなかった。


「病人は独りにしないほうがいい。やることがあったほうが生きる気力が湧くから」と、アルバートが言っていたと、これも後で執事に聞いた。


 領内の視察から戻り報告にきたアルバートに、「そんなことしか見てきとらんのか!」と怒鳴りつけた父は、その日から両手に杖を持って歩く練習を始めた。

 アルバートは怒鳴られても飄々としたもので、気にした様子もなく肩をすくめて笑っていた。


 父が気力を取り戻すことで、ロザリンドの執務の実働時間も、伯爵としての重責への不安もかなり減った。相談できる相手がいるということは、大事だ。

 現役だった頃のように活動的にとはいかないが、父は寝室を出て、執務室で書類仕事をばりばりこなしている。寝室にあったアルバートの机と椅子も、その隣に移った。

 おかげで、ロザリンドもこうして古い資料を引っ張り出し、勉強する時間が取れるようになっている。


 父はそのうち視察に行くと言い出すに違いない。

 それを想像すると、少しくすぐったいような気分になる。少なくとも、今のオコーナー伯爵家に一年前のような焦りに彩られた絶望的な暗さはない。


「あ、ごめん。つい気になって」


 あわてたようにアルバートが顔をあげて、読んでいた資料を閉じた。お茶に誘っておきながら、ロザリンドを放置していたことに気づいたようだ。

 アルバートを見つめたまま、ここ最近のことを思い出していたロザリンドは、べつに退屈はしていない。目を細めて、にこりと微笑んだ。

 この一年で、会話をしていなくても彼が同じ空間にいることは、当たり前になった。


「その資料は役に立ちそうかな」

「ああ、三代前の日記だね。冷害についての記述があるから参考になりそうだ」

「こんな短時間でもう読んだのか。ほんとうに君は得がたいほど優秀だな」


 実感のこもったロザリンドの言葉に、アルバートはカップをとりあげて苦笑した。


「褒めても今以上のものは出ないよ」

「なにを言っているんだか。今の君で充分だ」

「充分……」


 カップを手に持ったまま、アルバートがぽつりと呟く。


「あの時も君は、僕に充分だと言ったね」


 学園の夜会で初めて会話した時のことだと、ロザリンドにもわかった。

 あの時はアルバートがずいぶん辛そうにしていたから、思わず声をかけてしまった。そんなに辛いなら、もういいんじゃないかと思ったのだ。終わりにしても。君はよくやっていると教えたかった。


「婚約者の不誠実を責めることもなく、相応しくあろうと君は必死に自分を磨いていた。充分だろう。今は夫として充分どころか、それ以上だな」


「夫として、それ以上……」とまた呟いたアルバートが、にこりとした笑みを作った。


「それならご褒美に、君のこと、ロゼって呼んでもいいかな?」

「え? ああ。好きに呼んでくれて、構わないが」

「僕のこともアルと呼んでくれたら嬉しいな」


 珍しくねだるように言うアルバートに、ロザリンドは目を瞬く。


「……アル」


 気がつけば、その名前を呼んでいた。アルバートが柔らかく目を細める。


 愛しいなにかを見るようなその笑顔に、ロザリンドの息が一瞬止まる。

 アルバートは、最近よく笑うようになった。以前の彼はもっと気を張りつめていて、どこか感情を押し殺しているように見えた。今は違う。肩の力が抜けている。時折浮かべるこんな柔らかな笑みを見るたびに、ロザリンドの胸の奥が歓びで満たされる感じがする。


「なに、ロゼ?」


 呼ばれた名前に、ロザリンドの胸がとくりとはねた。頬が熱くなる。


「……私は君がずいぶん気に入ってるみたいだ」

「それ、婚姻の意向調査のときも聞いたよ。前提五」


 思い出し笑いをするアルバートに、ロザリンドはゆっくりと考えるように首をかしげる。


「――ああ、いや、言葉を間違えた。アル、私は君が好きだ」


 するりとこぼれ落ちた言葉に、アルバートから笑みが消えた。とまどったような表情が浮かぶ。


「え?」

「君が好きだよ、アル」


 言葉にすれば、その気持ちはストンとロザリンドの中に落ちた。

 アルバートが笑うと嬉しくて、そばにいると安心できて、元気がないと心配で、愛称で呼ばれると胸が弾む。

 そして、他の誰にも渡したくない。その目が自分以外を映すことが許せない。


「ほんとうに?」

「事実からの帰結ではそうなる」

「ほんとうに、ロゼ?」

「君にそう呼ばれるのが、私はひどく嬉しいようだ」


 ロザリンドの真意を探るように、しばらくじっと見つめてから、アルバートが真顔で告げた。


「じゃあ――君に触れていい?」


 二人は婚姻後も閨をともにしていない。

 伯爵位を継いだばかりのロザリンドに子ができては、とてもでないが仕事が回らない。ロザリンドが伯爵としての仕事に慣れ、妊娠・出産の期間をアルバートが代行できるようになるまでは、自重するしかなかった。


「そうだな。君が触れてくれたら嬉しい。……たぶん?」


 実績がなくて、確定できない。

 だから、ロザリンドは最後に付け加えた。


 アルバートが勢いよくソファから立ち上がると、「よいしょ」とテーブルを持ち上げ横へ動かす。案外力持ちなんだな、と考えていたロザリンドの正面に立つと、アルバートは腕を伸ばしてロザリンドを抱きよせた。

 ロザリンドの頭がアルバートの胸に押しつけられる。背に回された腕が温かい。


「……ありがとう。僕を見つけてくれて。君だけが、僕がどうしたいか、僕に尋ねてくれた」

「当然だ。こちらこそ、私を選んでもらえて光栄だ。感謝している」

「君を愛しているよ、ロゼ」


 降ってきたアルバートの言葉に、じわじわとした熱が胸に込みあげた。その悶えたくなるような熱さを堪えて、ロザリンドは小さく呟く。


「愛かどうかはわからないが、君を私のものにしておきたいのは確かだな」


 アルバートの腕に力がこもる。


「……嬉しくて死にそう」

「死なれたら困るんだが」

「僕がいなくたったら困る?」

「困る」

「仕事が回らないから?」

「きっと淋しくて仕方がなくなる」


 それを聞いて、くすくすと笑うアルバートの声がとても楽しそうで、彼の腕の中でロザリンドは息を落とした。彼が楽しいならそれでいいか、と思ってしまった自分がいる。


 アルバートは、また「よいしょ」と声をかけると、膝裏に腕を回してロザリンドを抱き上げる。くるりと位置をいれかえてソファに座ると、膝の上にロザリンドを横向きに座らせた。


「……君、意外と力持ちだよな」

「これでも鍛えているんだよ。視察は体力勝負だから」


 どこまでもアルバートらしい言葉に、ロザリンドは笑みをこぼした。

 アルバートの執着を示すように、彼の腕がロザリンドの腰を強く抱き寄せる。反対に、壊れ物に触れるように頬に伸ばされた手に、ロザリンドは青い目をそっと閉じた。


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― 新着の感想 ―
 めっちゃハッピーエンドでニコニコしちゃいました。アルバートもロザリンドもおめでとー。よかったー。幸せ甘々が読めてよかったです。
そら先生新作ありがとうございますっ!!まだ1話目なのに濃い!!オムニバスだから特濃になりそうで今から歓喜!! アルバートォォーーー!! 蔑ろにされ続けた誠実な君が幸せになってくれて嬉しいよ。元々有…
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