8. 小さな世界
気が付いた時、私は自分の教室に居た。
普段は黒髪の彼が座っている最前列の窓際の席で、先生が授業をする声をぼんやりと聞き流す。
秋も近い今、本来であれば窓の外には紅葉が広がっているのだけれど。
目を向けた先に広がっていたのは、青々とした葉が茂る木々。
……ああ、これは夢だろうな。
はっきりと見通せない並木の先を見ながら、ふと思う。
いつも授業を受ける彼越しに見ていた景色は、覚えているようで曖昧な部分がある。
それはきっと、手の届く距離にいる彼を見つめすぎていたからだろう。
とても幸せな、けれどどこか物足りない夢。
それは、あっという間に終わりを告げる。
気付けば徐々に木々の輪郭は曖昧になっていき、既に授業をしているのが誰の声かも分からない。
『そこは僕の席なのですが』
色も形も音も曖昧な空間で、いつの間にか聞き慣れていた彼の声だけがはっきりと聞こえた。
男の子にしては少し高め、けれど少し不機嫌そうに響く声。
私は振り返ろうとして、瞬間、視界が闇に染まる。
どうせなら最後は彼の姿が見たかったな、なんて。
そんな贅沢を私は望んではいけないのかもしれない。
意識が闇から浮かび上がる。
「……夢?」
真っ白な天井を寝転んで見ながら、私はそんな言葉を零した。
少し空いた窓から入り込む風は、枯葉の匂いを乗せている。
「おはよう、シルフェードさん」
「ええと。お久しぶりです、先生」
半分回らない頭で返事をして、ベッドの中から周囲を見回す。
夢の中では会えなかった彼の姿に期待したけれど、この部屋にいるのは声の人物と私だけだった。
目前の白衣の男性と殺風景な景色から、学校の保健室ではなさそうだと当たりをつける。
この人はざっくり言うと、王国直属の魔術専門機関である魔術院の偉い人だ。
専門のお医者さんではないけれど、私の症状に関しては彼の方が詳しい。
魔術研究の一環だと言いながら、ここ一年半程、色々と面倒を見てくれている。
知らぬ間に、私はつい半年前まで入院していた王都の病院に来たらしい。
記憶には一切ないので、保健室では持て余されて搬送されたのかもしれない。
上体を起こそうと力を込めれば、すかさず背中を支えられた。
ぐらりと眩暈がしたけれど、眠る前と比べれば全然体が軽くなった気がする。
「症状は落ち着いた?」
「はい。いつもより元気なくらいです」
「それは良かった」
そう言って、先生は表情を緩めた。
私は髪を直そうと片手を持ち上げ、違和感を感じて左手に視線を向けて繋がれた点滴に気付いた。
「私、もしかして長い間眠っていたのでしょうか?」
「二日と半分くらい、かな」
「それは、ご迷惑をおかけしました」
迷惑ではないけれど、と彼は言葉を続ける。
「回復まで時間が掛ったのは、これまで症状を抑えてきた薬や術が効かなかったからだよ。原因を一度検査する事になると思う」
「ええと、つまり……入院、ですか?」
「うん、そうなるかな」
思い出すのは眠る直前まで一緒にいた、素っ気ないけれど優しい黒髪の彼の事。
心配をかけてしまっただろうか。
――心配を、してくれただろうか。
「あの……」
思わず口を開いたものの、どう言えばいいのか分からない。
微熱っぽい頭では、どうも冷静には判断できないみたいだった。
「ええと。私、記憶では最後に、クラスメイトと一緒に、保健室に居たんですが……。なにかお話、しましたか?」
先生は途切れがちな私の言葉を聞いて、思い当たることがあるようだった。
ああ、と頷いて優しい笑みを浮かべる。
「君と一緒にいた子には、入院して様子を見るとだけ。昨日と同じなら、あと一時間くらいで来ると思うよ」
「ありがとうございます」
ええと、それは、喜んでいいのだろうか。
つい浮かび上がった私に、でも、と先生は静かな声で告げる。
「今の君が起きて待つのは、許可できないかな」
「……はい」
自分でも分かりやすいくらい声がしぼんだ。
けれど未だ熱がある自覚はあるので、我儘は言えない。
「よければ、意識が戻ったことを伝えておこうか。明日まで様子を見て問題なさそうであれば、その時に会わせてあげられるかもしれない」
悩んだのは一瞬だった。
「よろしくお願いします」
「うん、承知しました」
その後、先生は問診をして脈を測ると『状態が分からないから、くれぐれも無理はしないで』と言い残して部屋を出て行った。
検査は準備に時間が掛かるため、再来週辺りになるそうだ。
一人きりになった白い部屋で、私は掛け布団ごと膝を抱えて顔を埋めた。
視界に映るのは、幼少期から見慣れた景色ではあるけれど。
殺風景で音の少ない空間に、小さな世界に取り残されたようで、どうしようもなく不安になった。
「夢の続きは、見れるでしょうか……」
手に入れた幸せな時間は、いつもあっさり奪われる。
目を瞑れば瞼の裏に浮かぶ景色も、今はとても遠かった。
「うーん、まだちょっと高いわね」
「駄目でしょうか……」
思わず沈んでしまった私の声に、目の前の女性はにっこりと笑った。
「まぁ、許容範囲かしら」
熱を測っていた器具を片付けて、彼女は起き上がった時に乱れた私の掛け布団を整えた。
「無理をしなければ、大丈夫よ。今回入院してもらってるのも、原因が分かる前に学校で不測の事態が起きると怖いからだもの。絶対安静って訳ではないしね」
「ありがとうございます」
きっと私の表情は分かりやすいのだと思う。
ノートになにかを書き込みながら、彼女は軽い調子で会話を続ける。
「でも良かった。ティナちゃん素敵なお友達が出来たのね」
「はい。授業は難しいですが、みなさん優しいので毎日とても楽しいです」
「そういえば、彼氏さんとは上手くやってる?」
「え、と。そういうのは、ないです」
「なんだ。いつも来てくれている子は違ったのね」
彼女との付き合いは王都の病院に転院してからなので、そろそろ一年位だろうか。
なんだか年の離れたお姉さんのようで、つい気軽に色々と話してしまう。
「さて、また夜に来るわね」
「よろしくお願いします」
「熱が下がるまでは、大人しくしているように!」
「……はい」
頷いた私の頭を、よし合格と撫でて彼女は部屋を出る。
途中ドアを開いて驚いた表情を浮かべると、彼女はこちらを振り返って笑顔を浮かべた。
締め切られないままの扉の向こうに、彼女の姿が消える。
数秒後、半開きのドアから律儀に短いノック音が聞こえた。
「はい?」
私はきょとんと首を傾いで、それから壁に掛かった時計とカレンダーを見て気づく。
「失礼します」
「こんにちは、シリル君」
心なしか弾んだ声が出た。
「……起きていて、大丈夫なんですか?」
「皆さんが、心配性すぎるのです」
小さく頬を膨らませた私に、彼は目を眇めると真っ直ぐ歩み寄って掛け布団を捲る。
その下には、昨日こっそり母に持ってきて貰った数冊の本があった。
「あなたという人は、なぜ大人しくしていられないんですか」
どうして気付かれてしまったのだろうか。
先程までいた彼女には、何も言われなかったのに。
「私、もう元気ですよ?」
「……まだ熱があると、聞こえましたが」
「あれ、いつから居たのですか?」
話題を変えようとすれば、鋭い視線で睨み付けられた。
この様子では、昨晩こっそり遅くまで勉強していたのもバレているに違いない。
「もう一度測りましょうか。先程の方を呼んできます」
「ごめんなさい」
素直に謝れば、シリル君は溜息を零した。
「その様子では、これはお渡しできませんね」
「あ、それは」
彼が手に持っていた鞄から抜き取ったのは、見慣れた装丁のノート。
授業中や昼休みの課題中、いつも彼の一番近くに置かれていたものだ。
「無理は絶対にしません」
言い切った私に、シリル君は疑うような眼差しを向けてくる。
思わず怯みかけて、けれど視線を逸らさずにいれば、彼は手に持ったノートを私に差し出した。
「……本日までの授業のノートです」
「ありがとうございます」
「分からない所があれば、後日補足します」
そう言って、彼は視線を逸らした。
私は受け取ったノートをおもむろに開く。
見慣れた几帳面な彼の字が並んでいるけれど、後ろの方のページだけ数ヵ所が色でマークされているのは、きっと私の為だと思って良いのだろうか。
「シリル君のノートはとても丁寧なので、きっと授業を受けるより分かりやすいです」
「冗談は寝てから言ってください」
呆れたような声音でシリル君は言った。
このノートの方が、いっそ自分で授業を受けるより要点がまとまっているのは間違いないので、別に冗談のつもりはなかったのだけれども。
ページを閉じてベッドの袖机に置こうとすれば、下に別の薄い冊子が重ねられていたことに気付く。
渡してきた彼に似合わない可愛らしい表紙に、私は思わず隣を凝視してしまう。
「それはあなたのご友人からです。中身は知りません」
「メリッサですね。ええと……」
それは表紙付きのバインダーで、中身はメッセージとシリル君が受けていない選択科目の内容だった。
心配してるよ、早く帰ってきてねえと彼女特有の丸みを帯びた文字で書いてあり、その隣には彼女とリリィの困り顔のイラストが添えられている。
なんだか様子が浮かぶようで、ついくすりと笑ってしまった。
残念ながら、授業のメモは途中で力尽きたのか色々と文字になっていないけれど。
「……今度解説しましょうか。昨年受講しているので、大体は分かります」
「もし明日までに分からなければ、お願いしても良いですか?」
「数分前の言葉も覚えていないんですか。自分で言っていたでしょう」
「ええ、と……無理しない程度に、頑張ります」
つい、言葉が小さくなってしまう。
先程カレンダーを見た時に気付いたのだけれど、明日は休日だ。
今の私には、彼と一緒にいてもらう勇気と理由が圧倒的に足りていない。
俯いた私に、シリル君は溜息を零してベッドサイドの椅子に座る。
「分かりました。見張っていればいいのでしょう」
「本当に、大丈夫ですよ?」
「信用できる要素がありませんから」
彼はあっさり告げると、自分の鞄から取り出した本を膝の上に広げた。