9. 君の居る日常
最近は秋の終わりの冷たい天気が続いていたが、今日は久々の晴天だった。
締め切られた窓から室内に差し込む光は、ほんのりと温かい。
検査は昨日無事に終わって、後は結果を待つだけになった。
長いようで短い入院生活も折り返しは過ぎたと信じたい。
少しぐらつく視界を首を振って払うと、私はベッドに座って素足を床につける。
動ける時に多少行動しなければ、体力はどんどん低下していく。こんな日に引き籠っていて良いことはない。
幸い今日は休日なので、病院内に人は少ない。
夜の検温までにちょっと部屋を出てすぐに帰ってくれば、特に気づかれないはずだ。
「さて」
問題はこの壁に掛けられた、左腕の点滴だった。
一昨日の晩までは熱が下がらず吐き気が酷かったし、昨日も検査で一日食事がとれなかったため仕方がないことではあるけれども。
私は数十秒悩んで、おもむろに点滴を引き抜こうとした時、ドアの方から視線を感じた。
そういえば、思考に沈んでいる間にノック音が聞こえた気がしないでもない。
「……あ」
思わず気の抜けた声が出た。
無言でこちらに歩いてくる彼に、私は小さく首を傾いだ。
「シリル君、こんにちは?」
「……何をしてるんですか、あなたは」
「ええと、お散歩に行こうかなと」
彼は深い溜息を零して、左手の針に添えていた私の右手を外した。
視線を合わせて貰えないまま、彼は近くの椅子に座って視線で私にベッドへ戻るよう促す。
もしかして、不機嫌なのだろうか。
「あの、怒っていますか?」
「自分の状態を考えてください」
続けられた言葉に、余計意味が分からなくなる。
鋭い視線を足元に向けられ、私はやむを得ず掛け布団の中に戻った。
状況と言われても、現在王都の病院に検査入院中だけれど用件自体は昨日終えており、今は結果を待つだけだ。
明確な外出許可は取っていないけれど――もしかして、それだろうか。
「共犯、ですね」
良い返事は得られなさそうなので、こっそり行動を起こすつもりだった。
ここで私を見逃せば、彼は後で先生から怒られるかもしれない。
点滴を外した時点で物証は残るけれど、それはベッドサイドのものを取る時に外れたとか壁沿いに置かれた荷物を持ち上げて転んだとか理由ならどうとでもなる。
「大丈夫です、ちゃんとバレないようにします」
「どうしてその結論に至ったのかは聞きませんが、自分の顔色に自覚はないんですか」
「普段通りではないでしょうか」
袖机の端に置かれた、小さな鏡を見る。
熱も下がったので肌が白く見えるのは少し不健康だけれど、別段変わりは無いように思える。
なぜか目前の彼の眉間に線が一本増えた。
こちらにも言い分はあるので、その反応は少し不本意だ。
「結局二週間も寝込んでしまいましたから。引き籠りは体に良くありません」
「病人が歩き回るのが良いことだとでも?」
「シリル君、最近少し意地悪です」
出会った頃はもっと優しかった気が――途中まで考えて、そうでもないと思いなおした。
今までに彼が優しくなかったことはないし、素直な言葉をくれたこともない。
「あなたの場合、結果が出るまでは病人扱いで十分です」
「別に検査入院なので、病気ではないのですけど……」
「なにか言いましたか」
「いえ、なんでもありません」
これ以上口答えをすると、余計に機嫌を損ねてしまいそうだ。
限られた時間を微妙な空気で過ごすのは避けたい。
大人しく座る私を一瞥して、シリル君は鞄の中から分厚い本を取り出した。
静かな部屋に、彼が本のページを捲る音だけが響く。
相変わらず、こちらの様子に興味はなさそうな態度だ。
けれど声を掛ければ、律義に手を止めて会話に応じてくれるのは、ここ数日で分かっている。
「……まだ、駄目でしょうか」
自分でも、少しいじけた声だったと思う。
私は床に置かれたシリル君の鞄を見た。
彼から借りたノートを元にその日の授業内容を勉強するのが、数日前までの日課だった。
空間を共有しながら、全く別の作業をする。
その間は互いに無言だけれど、なぜか彼と一緒であれば心地良い時間だった。
私が勉強に行き詰っていれば、読書の手を止めて丁寧に解説してくれる。
男の子にしては少し高めの声が紡ぐ言葉は、私の理解度に合わせられている分、学校の先生よりも分かりやすい。彼がノートの文字を追う、僅かに伏せられた翠の瞳を見るのが好きだった。
退屈で心細いだけの日々の唯一楽しい時間は、けれど数日前に唐突に終わってしまった。
原因は多分ひとつではないのだと思う。
致命的だったのは、シリル君との会話中に眩暈で倒れかけたことと、熱が全然下がらないと知られてしまったことだろうか。
私の様子と視線で、シリル君には言いことが伝わったらしい。
駄目ですね、とあっさり一蹴された。
「そもそも、今日は持って来ていません。先日お伝えした通り、次は教室で渡します」
「ええと、でも……」
「大人しくしていれば、あと数日だと自分で言っていたでしょう」
「そう、ですね」
先生から明示された訳ではないので、完全に希望的観測だけれども。
病は気からともいう。私の場合は単なる体質なので、当て嵌まるかは少し怪しいが。
口籠った私を見て、シリル君は再び手元の本に視線を落とした。
「いつまで起きているんですか」
「寝るのには飽きてしまいました」
彼が来なければ、外に出ようと思っていたくらいだ。
そう簡単に眠れるはずもない。
なぜそんな冗談を口にしたのかは自分でも分からない。
俯き加減のシリル君の視線を追いながら、私はぽつりと呟いた。
「シリル君が額にキスをくれたら、眠れるかもしれません」
「お断りします」
顔を上げないまま、一刀両断だった。
「寝言は寝てから言ってください」
「眠ってからでは言えません」
「そうですか。では、無言で寝てください」
「やっぱり、シリル君は意地悪です……」
彼は溜息を吐いて、私を見る。
仕方なくベッドに横になれば、シリル君の視線は本のページの上に戻された。
しばらくの沈黙の後、彼は視線をあげないまま静かに口を開く。
「ですが、まあ、友人として無理のない要望でしたら考慮します」
「私、シリル君のお友達でよいのですか?」
「なにを今更」
間髪入れず当然のように返された言葉に、私は少しだけ浮かれてしまう。
シリル君に、お願いをしたいこと――。
彼の様子を見るに、きっと多少は無理な要望でも引き受けては貰えそうな気はした。
幾つか脳裏に浮かんだ案は、とても魅力的だった。
けれど、と私はそれを否定する。
「では、その本が読み終わるまで、ここにいてください」
「いつもと変わらないと思いますが」
「……いいんです、それで」
私が浮かべた願いの中に、この時間よりも輝いているものはなかった。
シリル君は一度怪訝そうに私を見て、再び本を読み始める。
その横顔を、私はじっと見つめた。
目を瞑った後は、一秒がほんの少しだけ長く感じる。
それは錯覚から生まれた、私が大好きなおまじないだった。
けれど今、瞼を閉ざす数秒間を、私は初めてもったいないと思った。
耳に届いた静かな寝息に、僕は顔を上げた。
こちらに肩を傾けて眠る彼女を見て、ページ数を確認すると本を鞄に仕舞う。
仰向けにしようと手を伸ばしかけて、止まった。
余りにも血の気の少ない彼女の唇に不安になる。
僅かにもれる呼吸音で確かに生きているのだと実感できた。
彼女に触れないように、そっと首元まで布団を掛けなおす。
「……ティナ」
起きている時には呼べないその名を、僕は小さく呟いた。
検査入院なので、来週には退院のはず。
彼女はそう言っていたけれど、その顔色からは、にわかに信じられない。
無理をして明るく振舞っているのは、長い付き合いではないけれど、なんとなく分かる。
他人の事は心配をするくせに、自分の事には無頓着。
こちらは心配すら、ろくにさせて貰えない。
「意地悪は、一体どちらですか……」
誰にも聞こえない言葉が、真っ白な部屋に溶けて消えた。




