10. 夢の終わり
一瞬途切れた意識が、闇から浮かび上がる。
「大丈夫ですか!? 返事をしてください、ティナ」
普段はあまり動じない彼の、焦った声が耳に届いた。
なんだ、もしかして以前保健室で聞こえた声は、聞き間違いじゃなかったのかも。
回らない頭でそんなことを考えて、私は重い瞼を持ち上げる。
視界に映る景色は記憶の最後とそう変わらない。
支えてくれる誰かは、この場には一人しかいなかったはずだ。
左手から背を包む温もりを辿って顔を上げれば、大きく目を見開いた黒髪の少年がいた。
先程まで彼が読んでいた本は、いつの間にか床の上に落ちている。
指に触れる手を握り返せば、彼はほっとしたように息を吐いた。
場違いにも、やっと彼に手が届いたみたいだなんて、私はぼんやりと考える。
「おはようございます、シリル君」
そう言葉にしたつもりだったけれど、思った以上に声は音にならない。
私は表情の乏しい彼の頬に手を伸ばして、そっと触れた。
「どうか、しましたか?」
言いながら、私自身も記憶を辿る。
今日もシリル君はいつも通り私の病室に来て、互いに別々の本を読みながら他愛もない会話をしていた。
私がきちんと休んでいないことには少し渋い顔をしていたけれど、それでも問いかければ律義に手を止めて言葉を返してくれる。
学校の様子や授業の内容。彼の今週末の予定――は、当然ながら答えてくれなかった。
そして、いつもの発作が起きたのだ。
急に胸が苦しくなり、左側に痺れを感じて上体を崩した。
彼が慌てて立ち上がったのを見た所で、私の意識は完全に途切れている。
目を覚まして最初に彼を見られるなんて、期待してなかったと言ったら嘘になるけれど。
いつもの表情に戻って欲しくて、私は彼の頬に手を滑らせた。
彼はなにかを言おうと口を開いて、けれど唇をきつく噛み締めると私から視線を逸らす。
「……先生を呼んできます」
「待ってください」
離れていく手を掴んで、引き留める。
力はそれほど無かったはずだけど、彼はあっさり動きを止めた。
「大丈夫です。ちょっと寝てれば治ります」
「なにを、言って……」
「ありがとうございます」
私は、ちゃんと笑えていただろうか。
昨日検査の結果が出た時から分かっていたことだった。
今まで症状を抑えていた術や薬は、恐らくもう効くことはない。
具体的な退院日は、現在未定。
素敵な夢は――もう、終わってしまった。
普段と違い、無言の時間がとても長く感じた。
互いの呼吸音だけが、真っ白な部屋に響く。
椅子に座ったシリル君の表情は、少し長めの前髪に隠れてよく見えない。
「聞いてもいいですか?」
ぽつり、と彼は言った。
「ええと、なにが知りたいですか?」
私はなるべく明るい調子で口を開いた。
彼にだったら知られてもいいかな、なんて。
数ヶ月前であれば絶対思わなかったに違いない。
自分から全てを説明しないのは、せめてもの抵抗だった。
彼との時間を失いたくない、私の身勝手な我儘だ。
「あなたは自分は病気ではないと、何度も言っていましたね」
「はい。単なる体質みたいなもの、でしょうか」
「……原因は、分かったんですか?」
「先日の検査では、なにも」
分かるもなにも、原因は昔から知っている。
幼い頃から何度も耳にした言葉を思い浮かべる。
「先生は先天性魔力生成疾患と呼んでいました」
いつ考えても、不思議な呼称だ。
おかしいですよね、生成が異常というより、自分の魔力に体が耐えられないだけなのに。
私がそう軽く笑っても、シリル君の反応はない。
こんな退屈な話は終わりにして楽しいことを考えようとして――やめた。
真っ直ぐこちらに向けられた翠の瞳に、私はふわりと笑い返す。
隠すのは、やめにしよう。
不器用で優しい彼を傷つけるのは本意ではないけれど、裏切ることはしたくなかった。
「以前少しだけお話ししたと思うんですが、私は複合属性持ちなんです」
彼ならば、今更その話を持ち出した意味が分かるはずだ。
数秒考えるように瞳を伏せて、冗談でしょうと小さく呟いた。
複数の属性魔力を併せ持つのは、わりとよくあること。
それが光と風など離れた系統であれば、なんの問題もない。
ただ、私はそれが光と闇だった。
過去に数件しか事例がないその組み合わせを引き当ててしまったのは、単に不運だったのだろう。
相反する属性は、併用すると思わぬ効果をもたらすことがある。
術構成における基礎だけれど、それは当然この場合も当て嵌まった。
私の場合は、突発的に起こる魔力の過剰生成。
自分の容量限界を軽く超える力が、異常な速度で生成されてゆくのだ。
当然のように制御は出来ず、過剰な魔力は私の体を内側から徐々に削ってゆく。
「私の体は残念ながら人並み以下なので、器として不十分なのです」
「……どういうこと、ですか」
彼はきっと理解しているだろうに、私に問い掛ける。
最初から体が弱かったのか、それとも度重なる負荷で劣化しているのかは分からないけれど。
今更それを考えても仕方がない。結論は、きっと同じだ。
「遠くない未来に、私はいなくなるんです」
数年後かもしれない、十数年後かもしれない。
けれど、それは人よりとても近くにある終わりの話だ。
シリル君は私の言葉に小さく息を呑んだ。
その様子を嬉しいと思ってしまうのは、きっと許されないことだろう。
そんなことないよ、また頑張ろう。良いことは、きっとあるから。
田舎の病院では相部屋が基本だったから、紡がれる前向きな言葉は余計苦しくなるだけだった。
自分を置いて退院していく、両隣の子供達。
ここより少しだけ広い部屋に私はひとり取り残される。
私が欲しかったのは、未来への希望ではなくて。
ただ時々、誰かと静かで穏やかな時間を共有したかったのだと、改めて思う。
「どうして、あなたは笑っているんですか!?」
「もう、試したんです。全て」
術も薬も、やることは魔力の生成を一時的に止めること。
生きていくのに最低限必要な魔力すら止めてしまうから、それは万能ではない。
意図的に魔術を使って消費しようにも、零れた水が器に戻らないのと同じだ。
暴走時点で生成されていた力は体内を喰い荒らすだけなので、悪化しかすることはない。
ここ半年服用していたその薬も、今の状況に拍車を掛けているのだろう。
体の方が魔力生成を抑えた状況を平常だと誤認してしまい、前回の検査では平常時の魔力の値が一年前より跳ね上がっていた。
全ては元から、承知の上ではあったのだけれども。
「魔術から離れた生活を送れば、影響は最小限に……」
シリル君は途中で言葉を切った。
無理なのは、どう考えても明らかだったから。
現代は完全な魔術社会だ。
たとえば、街灯。
日中の光を蓄積して、夜になると道を照らす魔道具だ。
一部旧式の魔力石で動いているものもあるが、どちらにせよ大気中の魔力を多少は動かすことになる。
同じように、水道や調理器具も、検査のための計測器も――全ては魔道具。
魔力なしでは日常生活を送れないと言っても過言ではないだろう。
それに人間だって、魔力で生きている。
他の全てを遠ざけたところで、残された時間が多少伸びる程度でしかない。
「思ったんです、普通の学校生活が送りたいなって」
田舎の院内学校では、友達が出来る間もなく周囲は入れ替わっていく。
年齢も学習内容も当然バラバラだった。入院期間も異なるので、当然話も合わない。
魔術課程を選んだのは、当時はまだ足掻く気力あったから。
こちらの学校に編入後、授業に付いていけなかったのも当然かもしれない。
病院内の設備と体質の関係で、魔術関連の実技は最低限しか経験がないのだから。
「あの学校に通っていた理由、私も同じです。他に選択肢がなかったから」
残りの人生を好きに生きると決めて、周囲を説得した。
最初は反対されたし、編入する学校を探すのも苦労した。
長い入院生活で、私には体力も専門知識も足りない。
それに一般課程や他の特殊課程では、魔力疾患に対処できる先生もいなかった。
だから選ぶ余地はなかったのだ。
私にとって、こうして素敵な友人に出会えたことは、この上なく幸運なことだった。
「魔術に関わらなければ、他人に関わらなければ、もう少し元気だったかもしれない。でも、それで私は幸せなのかなって。たくさん、考えました」
そんな未来を選んでもいいと、両親から直接言われたこともある。
王都に来る決断をするまで何度も迷った。
けれど学校に通い始めてからは、選ばなかった選択肢について深く考えることは無くなっていた。
「私、後悔していないです」
同年代の優しい友達と街で買い物をしたり、色々な先生に怒られたり。
まるで夢のような時間だったと思う。
大切な思い出を、たくさん貰った。
――誰よりも、貴方から。
編入してからの私は、これ以上ないくらいに幸せだったと思える。
だからはっきりと、伝えておきたかった。
「あるか分からない未来よりも、私にとっては、今この時間の方が大切なんです」
シリル君は言葉を探すように口を開いて、僅かに瞳を伏せる。
束の間の沈黙の後、彼は私から目を逸らした。
「……済みません。やはり、先生を呼んできます」
不器用で優しい彼は、昔の私より余程傷ついたような表情で部屋を出て行った。