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歌声は恋を隠せない  作者: 三島 至
番外編
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高嶺の花・オーキッド

 

 自室で就寝する前に、ビオラは教室で読んでいた本を取り出した。

 高尚な詩集でもなく、難しい本でもない。好んで読むのは、巷で流行のロマンス小説。カバーをかけているから、外側からは分からない。

 ヒロインの心に共感する時、想う相手に重ねる人は、昔から決まっていた。

 義理の兄に恋してしまった主人公は、最後は結婚して幸せになる。今読んでいる本は、そんな内容だ。ビオラはいつからか、その手の話ばかり集めて読むようになっていた。

 本の表題を、指でなぞる。静かに机の上に置くと、寝具に寝そべり、明かりを消した。

 暗闇で、ビオラは小さく言葉を溢す。


「キッド兄様が、私の夫になってくださるのなら……私は、世界で一番幸せな花嫁になれるわ」


 そんな幸福は物語の中だけだと、頭の中で誰かが囁いた。









 オーキッドがレユシット家に引き取られたのは、彼が六歳の時の事だ。


 グラジオラスがオーキッドを気に入って、一族に迎え入れた。孤児院に居た頃からオーキッドは、周りの人間に愛想良く接していたが、よく見ていれば見破られる程度の、拙い愛想笑いだった。グラジオラスもそれに気が付いていた。


 レユシット家でも、オーキッドは決して反抗的な態度を取らなかったが、どこか壁があった。

 それに、孤児院という狭い空間で育った彼には、レユシット邸は広すぎた。

 最初の頃は、屋敷の中でよく道に迷っており、使用人に尋ねるも、面倒がられることもあった。レユシット家の使用人だけあって、態度に出す者は殆ど居なかったが、自分が疎まれていると、オーキッドは敏感に察した。使用人達は、解雇になるような、あからさまな嫌がらせをすることは無かったが、オーキッドは彼らに極力話しかけたくないと思っていた。


 彼はまだ、たった六歳の子供だった。追い出されないために、反発しないでいるのが精一杯で、自分を嫌っている大人たちに積極的に話しかけるのは、ひどく疲れることであった。


 オーキッドは、レユシット邸に引き取られてから四年間、妹のビオラに会う事はほぼ無かった。

 生まれたばかりの一人娘は、屋敷の奥で大事に育てられ、広いレユシット邸の中で、オーキッドが彼女に会う機会は無く、また彼も会おうとは思わなかったのだ。


 当時のレユシット家当主は、オーキッドにあまり関わろうとしなかった。いくらグラジオラスのお気に入りでも、オーキッドにはさして興味が無いようだった。


 オーキッドにもプライドがある。ただグラジオラスの相手をするだけのような日々に、彼は不満を募らせていた。


 俺は、グラジオラスの玩具じゃない。

 屋敷で飼われる愛玩動物じゃない。


 オーキッドはこの時、グラジオラスを兄とは認めていなかった。ごく普通の家庭を、身の丈に合った平民の生活を望んでいたオーキッドを、こんな場違いな家に呼んだのは彼だ。自分の存在意義は、グラジオラスの話し相手というだけ。


 憤ると同時に、哀れんでもいた。グラジオラスは、よほど友人がいないのだろうか。わざわざ孤児院から、五歳下の子供を連れてくるほど、寂しかったのだろうか。グラジオラスに勝てるところがないオーキッドは、少しの蔑みを込めて、負け惜しみにそんな事を思った。


 グラジオラスの容姿は、子供ながらに美しすぎる。それに加え高すぎる身分は、返って心を許せる友人が作れないのかもしれないと、オーキッドは自分を納得させた。


 グラジオラスが寂しさから、オーキッドを引き取ったのだと思うのは、彼がオーキッドに対して、あまりに優しいからだ。

 痛めつけたり、見下したりされた事は一度も無い。笑顔で話しかけてきて、オーキッドから話しかけたときには、本当に嬉しそうにする。だが、それが逆に、施しを受けているようで気に障る。


 兄さん、と呼ぶと、グラジオラスは嬉しそうに振り返る。

 笑顔の裏でオーキッドは、心を許すまいと、感情を抑制していた。





 五歳のビオラが、物陰からオーキッドを見つめるようになって、それは変わってきた。


 オーキッドとグラジオラスが、いつものように、二人で話していた時だ。

 グラジオラスを見かけると、怯えたように固まってしまうという妹が、何故かこちら見ている。

 どうしたのだろうと考えて、すぐに、グラジオラスではなく、オーキッドを見ているのだと思い至った。


 グラジオラスは、暇があればオーキッドに会いに来ていた。そしてオーキッドはその度に、遠くからじっとこちらを見つめる瞳を見つけた。

 ビオラは、隠れるのがあまり上手ではなかった。

 彼女に関する話題を、グラジオラスに振る事は無かったが、意識だけは、ビオラにも向いていた。

 二人の視線は、ビオラからオーキッドへの一方通行で、交わってはいなかった。





 オーキッドが一人でいるときに、ビオラが行動を起こした。

 何の偏見も無く、オーキッドに話しかける、義理の妹。

 まだ穢れの無い子供。

 ビオラがオーキッドを見上げる瞳には、使用人とは違う、純粋な興味があった。


 そうか、この子は俺のことを、まだよく分かっていないのか。


 幼いビオラは、貴族としての意識が低いのだろうと、オーキッドは思った。


 オーキッドの出自は、屋敷の誰よりも低い。義理の兄になったとはいえ、ビオラの歳がもっと近くて、貴族としての教育が進んでいれば、彼の存在は受入れ難いものだっただろう。


 レユシット家の使用人のなかには、下級貴族の者もいる。それが何の間違いか、孤児院育ちの平民が、上級貴族の暮らしを手に入れた。人から見れば、これ以上ない幸運かもしれない。だが、生まれは変えられるものではない。

 オーキッドには、家系と呼べるほど立派な血筋など無く、どれだけ調べようとも、生涯レユシット家とは関わる事もないような人間だ。五歳の時には孤児院にいた。それ以前も、オーキッドには惨めな生活をしていた自覚はある。


 グラジオラスは見るからに貴族だが、ビオラを見た時も、これが貴族のお嬢様か、といった感じだった。

 人の手で綺麗に整えられた髪に、何度も袖を通したようには見えない上質な服。オーキッドは一瞬だけ、嫌だな、と思った。

 今はこんなに邪気の無い瞳で見つめるビオラが、このまま貴族相応に育っていけば、いつかはオーキッドを見下すようになるのだ。

 そう決め付けてしまう、子供らしくない思考にも嫌気が差したが、それよりもビオラに嫌われたくないのだという事実に気が付いて、オーキッドは驚いた。

 ほんの少し話しただけで、もう嫌われる心配をしていた。


 貴族のお嬢様。本来ならば、出会うはずも無かった少女が、オーキッドの疲れた心に入り込む。

 十歳のオーキッドは、五歳のビオラを、妹としてではなく、お世話になっている家のお嬢様として見ていた。

 最初から妹ではなかった。

 自分とは違う、高貴な人なのだ。

 妹として接して、後から身の程を弁えろと言われるのではないかと、予防線を張っていた。


 オーキッドに自覚は無かったが、初めて会話した時から、彼は妹に特別な感情を抱いていた。

 このときはまだ、恋ではなかった。





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