おっさんの魂
――あの朝の、赤い岩山の風。
「……竜と人間の“契約”……?」
グレート・ロック・マウンテンの岩棚で、リーザスは炎竜エルニードと向き合っていた。隣に立つアブラナの肩は、まだ興奮の余熱で小刻みに上下している。
『千年以上生きる竜族にとって、恐ろしいのは肉体の老化ではない。魂の老化だ』
念話の声音は低く、深かった。
『多くの竜は五百歳を超えたあたりで生の意味を見失い、最後は植物や岩石に近い静止に堕ちる。魂の輝きもまた、失われる……』
リーザスは無意識に息を呑んだ。閉じたまぶたの奥で、蔦に覆われ眠る古竜の幻がよぎる。
『だからこそ、人間との契約がある。我らの魂を長く持たせる術だ』
エルニードの言葉に、リーザスとアブラナは目を見交わした。
『契約とは、竜と人の魂の一部を交換すること。人の若い魂を一滴受けると、新しい衝動や視野が芽生える。忘れていた“生”の味が戻るのだ』
「なるほど……オラの魂が、エルニードを若返らせる……」
アブラナが感嘆とともに呟く。リーザスは小さく、しかし必死に割って入った。
「……けど、それなら俺にも可能性が……俺だって、まだ三十五。老人ってほどではない」
炎竜の金の眼が、ゆっくりとリーザスに向いた。
『契約には条件がある。ひとつは魂の“成熟”』
「魂の成熟……?」
『人の魂は十五を過ぎて、ようやく輪郭を持つ。未熟すぎれば竜にとって毒だ。逆に――』
エルニードはアブラナに視線を移す。
『アブラナ・ルーエン。お前は丁度いい』
「オラ十九歳だ」
『もうひとつ、重要なのは“これからの伸びしろ”』
リーザスの胸がきゅっと鳴る。
『貴様は既に三十五。魂は硬化し、性格も価値観も、ほぼ固まっている。竜騎士として共にいられる時間も短い。騎士団の相場では三十代後半で引退だ』
ズガン、と胸の中心に見えない杭が打たれた。
『あえて言おう。おっさんの魂では、我らは輝けない』
赤い風が、さっと頬を撫でた。
回想が薄れ、今に音が戻る。
「本日は格技の時間とする!」
訓練場にダミアンの怒声が響いた。リーザスはまだ胸の奥に、さっきの言葉の棘を残している。砂を踏む音、鎧のこすれる音が重なる。
「騎士たるもの剣とともにあるべき――それでも剣から引き剥がされた時、ものを言うのは己の肉体である!」
唾を飛ばしながら壇上を往復するダミアン。脇にいたクレオが、顔をしかめて小さく漏らした。
「マジかよ。朝から散々走らされて、ここから格技って……」
ぴたり、と空気が止まる。
「クレオ。貴様、何か言ったか?」
(しまった!)
ダミアンがカツカツと近づき、木剣の石突で地を鳴らした。
「戦場では疲労の極みでの戦闘が日常だ。貴様は戦場を舐めてるのかッ!」
「いいえ、舐めてません教官殿!」
「いや、舐めている! 舐めすぎている!」
ダミアンはくるりと身を翻し、今度はリーザスを射抜いた。
「おい、そこのおっさん!」
「……私のことですか?」
「そうだ。他に誰がいる、おっさん!」
ざわ、と周囲が揺れる。ダミアンの口角が吊り上がる。
「命ずる。この目障りな顎を、格技で叩き割れ!」
クレオが肩をすくめた。
「はぁ? おっさん、お手柔らかに頼むぜ」
「勝てたら、名前で呼んでやるぞ。おっさん」
「……分かりました」
リーザスは黙って上着を脱ぎ、中央へ歩いた。(おっさん、おっさん……どうして、こんなに言われなきゃならない)
脳裏に浮かぶ声が重なる。
「人生を舐めてるのかッ!」
「なんでおっさんが」
『おっさんの魂では輝けない』
クレオも上着を脱ぎ、腕を回す。
「おい、おっさん。あんまりムキになんなよ」
「俺の名前はリーザス・モートンだ」
リーザスは真正面からクレオを見据え、低く言い放った。
「次、おっさん呼びしたら――」
奥歯が噛み鳴った。
「殺すぞ?」
「殺す? だと? なにマジになってんだよ、おっさ――」
最後まで言わせなかった。リーザスの拳が、唸りを上げて飛んだ。
ガッ!
クレオは両腕で受け、流したが、重い。二、三歩後退し、足で砂を噛む。
「……やるじゃねえか。だが俺も第八騎士団の内定者だ。簡単には――」
言葉の途中で、リーザスの手がきらりと光る。掌底の構え。
ズドン。
顎に響く低い破裂音。クレオの身体が弧を描いて吹っ飛び、砂を削る。
ざわ――。
「おい今……剣もなしに闘気を飛ばしてないか?」
「すげえ……リーザスさん」
周囲がざわつく中、リーザスは一歩、また一歩と詰める。掌から迸る細い衝撃が、連続して走った。
「だだだだだだだ!」
「ぐああああああ!」
クレオは必死にガードを固める。だが押される。腕が痺れ、肩が焼ける。
(よく考えりゃ、竜と契約できなくても構わない)
内なる声が、拳と同じリズムで響いた。
(天馬に乗って支援する聖騎士だっている。地上で軍勢を率いる騎士だっている。騎士のまま団長にまで上り詰めた例だって――)
シュ、と滑るように間合いを殺し、腹へ一撃。
ドス。
クレオの体がくの字に折れ、吐息が漏れた。
(アブラナほどじゃないが、俺だって闘気はトップクラスだ)
(だったら――おっさんならではの熟練で、首席で卒業してやる)
リーザスは顎をくいっとしゃくって挑発した。
「立てよ、クレオ。殺されたくないならな?」
クレオの口元が、悔しさと笑いの中間で歪む。
周囲の見習いたちは息を呑み、ダミアンは腕を組んだまま片眉を上げた。
(おっさんの魂がどうとか――好きに言え。
俺は俺のやり方で、まだ“伸びる”。三十五だろうが、魂は、まだ動く)
砂漠の風が、熱を帯びて吹いた。
殴り合いは、まだ始まったばかりだ。




