赤竜の山
砂を蹴り、リーザスは走った。
背後で風が裂ける。羽音がどんどん大きくなり、砂が渦を巻く。
(まだ距離はある……まだ……!)
太陽の光が容赦なく照りつける。
振り向けば、黒い飛竜が一直線にこちらへ迫っていた。
その鋭い爪が、背負っていたアブラナのリュックに突き立つ。
「キャアアアアアアア!」
布が裂け、二人は砂上に転げた。
リーザスはすぐに起き上がり、少女に駆け寄る。
「アブラナ! 大丈夫か!」
「はい……なんとか……」
見ると、背負っていたリュックが切り裂かれ、中身が砂に散らばっている。
リーザスは咄嗟に上空を見た。
飛竜は旋回しながらこちらを見下ろしている。
(くっ……どうする。まだ一匹だけだ。戦うか?)
木剣を握る手が震える。だが、すぐに首を振った。
(いや、無理だ。竜への攻撃は厳禁。それに武器は木剣だけ。勝てるはずがない)
そして、脳裏に浮かぶのは教官ダミアンの講義。
「竜族を敵に回すことは、セイラム全土を危険に晒すことになる」
(仮にこの竜を傷つければ、人類の味方である竜族全体を敵に回す……)
アブラナの顔を見た。
泣きそうになりながらも、彼女は懸命に立ち上がろうとしている。
(逃げるしかない……だが、こいつを連れて?)
迷いの中で、アブラナが息を切らしながら言った。
「行ってください……私が竜を引きつけます」
「なにっ!?」
「オラ、走るの遅いっすから……だからリーザスさんだけでも……!」
その言葉が喉を突いた。
砂漠の風が一瞬止まったように感じた。
「馬鹿を言うな! 一緒に逃げるぞ!」
「……オラ、無理です」
小さな声。それは諦めの響きを帯びていた。
リーザスは唇を噛んだ。
(どうする……置いていくのか?)
彼の中で二つの声がぶつかり合う。
仲間を見捨てるなという声と、現実的な判断を促す声。
(俺にはビアンカを助けるという目標がある。ここで死ぬわけにはいかない)
握った拳が震えた。
太陽が背を焼く。
心臓がうるさいほど鳴る。
「……すまない」
小さく呟き、リーザスは背を向けて走り出した。
◇
(しょうがないだろ! 俺たちは戦争に行くんだ!)
足音が砂に吸い込まれていく。
肺が熱い。頭の中で言い訳が連鎖する。
(俺が残っても二人とも死ぬのは明白。
戦場で一人の命に拘っていたら、部隊全体が全滅する。
俺が生き残ることは……対ゾラ戦に必要なんだ!)
胸の奥の声が、さらに言い訳を重ねる。
(そう、これは国益のためだ。むしろ英雄的行為だ!)
その瞬間、脳裏に浮かんだのはビアンカの笑顔。
――だってリーザスさんは、私の憧れで、世界で一番かっこいい騎士なんですから。
ドクン、と心臓が跳ねた。
足が止まる。
(……俺は、あの子の言葉を裏切るのか?)
太陽の光が目に刺さる。
汗と涙の区別がつかなくなった。
「……チッ」
リーザスは振り返った。
山肌の向こう、飛竜がアブラナのすぐ前に降り立つのが見える。
「待ってくれぇぇぇぇ!」
声が砂漠に響いた。
アブラナが振り向く。驚きの表情。
リーザスは息を切らせながら、竜の方へ歩いていく。
木剣を下げ、両手を広げた。
「竜よ! 勝手に住まいにお邪魔してすまない!」
飛竜はゆっくりと首を傾けた。
黄金の瞳が、まっすぐ彼を見つめる。
その眼光に貫かれるだけで、膝が笑いそうになる。
「お、俺たちはセイラム軍事大学校の騎士だ!」
喉が乾く。声が上ずる。
必死に笑顔を作るが、口元がひくついていた。
「竜騎士になる訓練で、この山に来たんだ……」
ドクドクと血流の音が耳にこだまする。
飛竜は何も答えない。
ただ、喉の奥で低く唸った。
熱風が顔に当たる。
「な、なんとか……見逃してくれ……」
声はほとんど懇願のようだった。
その時――。
山全体が鳴動した。
周囲の空に、影が次々と浮かび上がる。
飛竜たちだ。
数百の翼が光を遮り、太陽が消えた。
グレート・ロック・マウンテンの空が、竜の群れで埋まる。
(四百頭……!)
訓練校で聞いた記録が頭をよぎる。
セイラム軍事大学校で使役される竜の大半は、この山の出身。
彼らは年に一度、卒業を控えた学生と“契約”を結ぶため、数頭が選ばれて人前に現れる――。
(……が、ここにいるのは契約前の野生の竜たち)
リーザスは悟った。
彼らの多くは人の言葉を理解するが、人間を友と認めるわけではない。
契約者以外の命など、砂粒ほどの価値もない。
「……やばい」
リーザスは両腕を交差し、闘気を全開にする。
飛竜の喉元が光った。
炎のブレスが吐き出される。
轟音。
世界が赤に染まる。
「闘気で……ガード!」
全身の気を集中し、身を包む。
焼ける。皮膚が焦げ、鎧の布が炭化していく。
(熱量が……! サラマンダーのブレスなんか比じゃねえ!)
熱風に足が持ち上がり、砂が舞う。
限界だ、と心が叫んだ。
その時――。
「やめでけろぉぉぉぉぉ!」
背後で轟く声。
巨大な闘気の奔流が、炎を押し返した。
アブラナが両手を広げ、リーザスの前に立っていた。
その体から吹き出す闘気は、地面を割り、砂を吹き飛ばす。
「オラたちは敵じゃねえぇぇ!」
炎が霧散した。
竜の瞳が、一瞬だけ細まる。
リーザスは見上げた。
(……なんだ、このとんでもない闘気は……!)
少女の背中から立ち上る光は、まるで炎そのもの。
彼女の叫びに呼応するように、胸のペンダントが脈を打った。
竜と人。
その狭間で、二つの心臓が、同じリズムで鳴り響いていた。
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