地獄の入校式
雷が鳴ったのかと思った。
耳の奥が震え、心臓が跳ねる。
……いや、違う。今のは声だ。
「気をつけぇえええええええええっ!!!」
轟音。地面がわずかに揺れた。
教官――ダミアン・ローベルの咆哮だった。
彼の怒声だけで、ホール全体の空気が一変した。
思わず背筋が伸びる。反射的に軍靴のかかとが合わさった。
周囲の新入生たちも、我に返ったように一斉に姿勢を正す。
(すげぇ……声だけで人を殺せそうだ)
目の前の男は、岩のような体格だった。
灰色の髪は短く刈り込み、首には幾本もの傷が刻まれている。
手に持つ木剣の先から、見えない重圧が放たれているように感じた。
「俺がこの“地獄の最終訓練”を叩き込む、お前らの担当教官にして副校長――
ダミアン・ローベルだ!!!」
その声には確かな説得力があった。
戦場を何度も渡り歩いた男だけが持つ、重み。
言葉の端に、血と鉄の匂いが混じっていた。
「騎士になった? 合格した? ほざけぇ!」
木剣の石突が床を叩く。
その一撃だけで、床の砂が舞い上がる。
「お前らはまだ半熟卵だ! 人前で“騎士”を名乗るのは百万年早ぇ!」
ダミアンは列の間をゆっくりと歩く。
新入生の顔を一人ずつ覗き込み、木剣を担いだまま悪魔のように笑う。
(うう…こええ)
最前列で、ぽっちゃりした女の子が硬直していた。
地方訛りのある顔立ち。たぶん力自慢なんだろう。
だが、今はそんなこと関係ない。
彼女に向かって、ダミアンが容赦なく踏み込んだ。
「おいデブチン! 豚小屋から出てきたのか!? そうだろ? ブヒブヒ言ってみろ!」
空気が凍った。
少女――アブラナ・ルーエンと名乗っていた――は顔を真っ赤にして震えていた。
でも、泣かない。唇を噛みしめていた。
彼女の屈辱を堪能したかのようにダミアンは満足げに鼻を鳴らし、次の列へ進む。
「次! そこの、男か女か分かんねぇ顔!!」
中性的な顔立ちの少年――ルーカ・ミルヴァンが目を見開いた。
細い手が小刻みに震えている。
「今日からお前の名は“ピーナッツ”だ!
そうだろ、ブツもピーナッツぐらいちっちぇえんだろうが!!」
笑いが起きる。
ルーカの唇も震えた。
もちろん、何も言い返さない。
ただ、静かに目を閉じて祈るように息を整えていた。
その祈りのような仕草に、何か見覚えがあった。
ビアンカが祈る時と、似た表情だ。
胸の奥が少し熱くなった。
◇
ダミアンはさらに次の列へ。
筋肉の塊みたいな青年の前で立ち止まる。
見た目はまるで劇画から飛び出したような、全身の筋が浮き上がる美形。
名前はクレオ・クラヴィル。竜騎士志望らしい。
「お前、自分のことカッコいいと思ってんな?
その見せかけの筋肉、気持ち悪ぃんだよ。顎も伸びてんぞ。折ってやろうか?」
クレオの口元が引きつった。
完璧に磨かれた歯を見せて、無理やり笑顔を作る。
この状況で笑顔を作れるのは相当な胆力が必要であろう。
が、笑っているが、額には冷や汗が滲んでいた。
そりゃそうだ。まだ二十歳そこそこの若者だもんな。
◇
次に呼ばれたのは、そばかす混じりのメガネの少女。
騎士希望とは思えないほど、華奢な体格。
メルナ・カストラ――
「ここは研究室じゃねぇぞ。真っ先に死ぬタイプだな。
てかメガネ外せ、気に障る!」
メルナは慌てて眼鏡を外した。
その瞬間、空気が変わる。
周囲がざわめいた。
思わず見惚れるほど整った顔立ち。
彼女はすぐに恥ずかしそうに眼鏡を掛け直した。
そんな仕草がまた周囲の笑いを誘う。
(……この子、本当に騎士希望なんだろうか?)
木剣がまた床を叩いた。
全員の視線がダミアンの次の標的へと移る。
◇
最後に立たされたのは、無表情な青年。
ゼファルド・ライオン。
竜騎士志望。感情を一切見せず、冷たい灰色の瞳でダミアンを見返していた。
「お前、感情あんのか? 仲間を虐殺しそうな顔してるな。不気味くんでいいか?」
ゼファルドは何も言わなかった。
ほんの一瞬だけ、目の奥の光が揺れた気がした。
しかしすぐに、氷のように静まり返る。
(……あいつ、只者じゃないな)
見ているだけで背筋が寒くなる。
◇
そして、ダミアンの木剣がピタリと止まった。
列の端――俺の前だった。
空気が一変する。心臓が鳴る。
「そして貴様だ……」
視線が突き刺さる。
「そこの老け顔!!!」
ドクン。
鼓動が一拍遅れて響いた。
教官の眼が、まるで獲物を見つけた猛獣のように光っている。
「おいおい、迷子のおじさんが列に紛れ込んだか?
ここは職にあぶれたおっさんの再就職先じゃねぇぞ!!」
若者たちの笑い声が後ろで弾けた。
顔が熱くなる。だが視線を外せない。
年齢で弄られるのは覚悟の上だ。
俺はそんなことで揺るがない。
「……お前、いくつだ?」
「三十五です」
一瞬、沈黙。
そして――ダミアンは額を押さえ、天井を仰いだ。
「老け顔っていうか、マジで老けてるじゃねぇか……」
ゆっくりと手が下り、木剣がこちらを指す。
絶対に揺るがない。
(ビアンカ・・・力を貸してくれ)
「三十五歳で軍事大学校? 騎士団を舐めてんのか……いや」
目が見開かれた。
次の瞬間、声が爆発する。
「人生を舐めているのかっ!!!」
空気が砕けた。耳が痛い。
俺はただ、まっすぐ立っていた。震えながら。
ダミアンの最後の一喝が、ホールを貫いた。
「今すぐ故郷に帰れ!!!」
全員が息を止める。
若者たちの笑いも消えていた。
砂漠の街の熱が、凍るほど冷たく感じた。
揺るがないと決めていたはずの俺の膝は細かく震えていた。
その瞬間、俺は悟った。
これが十週間の地獄の、始まりだ。




