――マルコ外伝――
別で作ってたものをこちらにまとめました。
【あらすじ】
俺の名はマルコ。三十歳、王立騎士団の雑兵。
斬岩剣の成功率は五回に一回。才能はない。夢はある。だが、たぶん叶わない。
俺の隣にはいつも、リーザスという男がいた。
練習では百回中百回成功するのに、本番で必ず失敗する男。
「ノミの心臓のおっさん」と笑われる、俺の親友。
これは、先に夢を諦めた男の話だ。
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第一話 五回に一回の男
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白状する。
俺は、あいつが試験に落ちるたび、心のどこかで安心していた。
―――
俺の名はマルコ。
セイラム王国騎士団の雑兵だ。歳は三十。
正騎士昇級試験の課題である斬岩剣の成功率は――五回に一回。
(今年もダメか)
試験官の前で振り下ろした剣は、岩の表面に浅い傷をつけただけで止まった。
周囲から失笑が漏れる。俺は頭を下げて列に戻る。慣れたものだ。
俺には才能がない。
それは十年かけて、嫌というほど分かった。
だが、才能のない男が落ちるのは当たり前だ。
当たり前のことに、人は傷つかない。
問題は、俺の後ろに並んでいる男のほうだった。
「次! リーザス!」
その名を呼ばれた瞬間、俺は顔を上げた。
汗だくの男が、震える手で剣を握っている。
顔は真っ青。呼吸は浅い。剣先が小刻みに揺れている。
(またか、リーザス)
俺は知っている。
こいつが今朝、河原で何をしていたか。
夜明け前。誰もいない川べりで、あいつは巨岩を一撃で真っ二つにしていた。
息を吐く音ひとつ、無駄がなかった。剣筋は美しかった。
俺は木陰からそれを見ていて――正直に言うと、その場を動けなかった。
(あれが、才能ってやつだ)
俺が五回に一回しか成功しないものを、あいつは百回中百回成功させる。
道場でも、訓練場でも、酒場でも。
ただ、本番だけができない。
試験官の前に立った瞬間、あいつの心臓は跳ね上がる。
汗が噴き出し、指が固まり、十年積み上げた技術が煙みたいに消える。
そして今年も。
リーザスの剣は、岩に当たって甲高い音を立てた。
岩は、割れなかった。
―――
その夜、酒場は俺たちの残念会だった。
「だからな、俺は本当は実力はあるんだっつーの!」
酔ったリーザスが立ち上がる。
常連たちが「知ってるぞ!」と囃し立てる。
あいつはテーブルの上の酒瓶に、剣も抜かず、素手の手刀を振り下ろした。
スパン、と。
瓶が、真っ二つになった。
断面はガラスの結晶みたいに滑らかで、中の酒が一滴もこぼれていない。
「おおおおおおおお!」
店じゅうが沸く。
サーシャが「ちょっと! 瓶を無駄にしないでよ!」と怒鳴り、リーザスがビクッと肩を跳ねさせる。
俺はジョッキを傾けながら、その断面を見ていた。
(素手だぞ。素手で、瓶を斬るんだぜ)
できねえよ、そんなこと。
俺は剣を持っても、岩ひとつまともに斬れないんだ。
「なーんで、手でもできる事が、剣を持っても出来ないんでしょうね?」
サーシャが皿を片付けながら言う。
俺は笑って口を挟んだ。
「しょうがねーよ。リーザスはノミの心臓だからな」
「うるせーなマルコ。お前だって、今年も試験落ちた雑兵同士じゃねーか」
「いやー、俺とお前は違うだろ」
俺はそう言った。
「何がだよ」
「俺は斬岩剣なんて五回に一回成功すればいい方。試験に落ちて当然だ」
常連たちが笑う。
俺も笑った。
「だけど、お前は練習では百回中百回成功するのに、本番じゃ失敗してるだろ」
――言ってしまってから、後悔した。
それは慰めの言葉じゃなかった。
冗談の形をした、告発だった。
(お前は、持ってるんだ)
(持ってるくせに、落ちてるんだ)
(俺が喉から手が出るほど欲しかったものを、お前は毎年、試験会場に置いてくるんだ)
「結果だけ見たら同じだろ」
リーザスがふてくされて言う。
「まあな」
俺は頷いた。
同じじゃない。
同じじゃないことを、たぶんこの店で俺だけが知っている。
「でも、来年こそは受かりたいよな」
「だな」
常連たちがジョッキを掲げる。
万年見習い騎士の二人に、来年こそ正騎士の栄光を、と。
「乾杯!」
俺は笑って酒をあおった。
旨かった。
実家が酒の卸問屋だから、旨い酒の味は子供の頃から知っている。
―――
帰り道、月がやけに白かった。
俺は、あいつが落ちるたびに安心していた。
あいつが受かってしまったら、俺はひとりで雑兵の詰所に取り残される。
あいつが受かってしまったら、「才能があっても受からない奴がいる」という言い訳が使えなくなる。
あいつが受かってしまったら、俺は自分に才能がないという事実と、素面で向き合わなければならなくなる。
だから俺は、心のどこかで祈っていた。
(来年も、一緒に落ちてくれよ、リーザス)
最低な祈りだと思う。
だが俺は、それが叶わない日が来ることを、たぶんこの時すでに知っていた。
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第二話 拳を合わせた日
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その年、リーザスが変わった。
三十一歳になったあいつは、山に籠るようになった。
犬のジョンを連れて、何日も帰ってこない。訓練場では剣を振り続け、詰所では剣の手入れをし、酒場に顔を出す回数が目に見えて減った。
「なんか、リーザスさん怖くない?」
サーシャがカウンター越しにそう言った時、俺は曖昧に笑った。
(怖いよ)
俺は追いつけなかった。
同じ量を振れば、同じ量だけ強くなれると思っていた。
だがあいつは、俺の三倍振って、十倍伸びた。
斬岩剣どころか、上級騎士の技である飛竜剣まで、あいつは独学でモノにしていた。
(才能ってのは、努力を裏切らないんじゃない。努力を、俺たちのぶんまで持っていくんだ)
俺の斬岩剣は、五回に一回が、三回に一回になった。
それが俺の一年だった。
―――
試験当日。
「よお、リーザス」
会場の入口で声をかけると、あいつは涼しい顔で振り返った。
「余裕そうだな。今年は、ノミの心臓卒業か?」
「もちろん緊張はしているよ。だが、それ以上に一年間続けてきた訓練が俺の自信となったのさ」
――キマってやがる。
「すげえな。俺なんかいまだに三回に一回しか斬岩剣成功しないのに……」
遠くでサーシャたちが手を振っている。店の連中が総出で応援に来ていた。
「今年は絶対受かる」と、誰もが疑っていなかった。
「はは、じゃあ今夜は祝賀会だな」
リーザスが笑う。
俺はその時、拳を突き出した。
「やってやろうぜ」
「!?」
あいつが目を丸くして、それから笑って、拳をぶつけてきた。
「ああ」
―――
あの瞬間のことを、俺は今でもよく思い出す。
俺は本気だった。
あいつと一緒に正騎士になって、一緒に戦場に立って、一緒に酒を飲む。
その未来を、あの拳の硬さで、確かに信じていた。
――そして俺は、宙を舞う剣を見た。
試験官の前で、リーザスの手からすっぽ抜けた剣が、青空を回転しながら飛んでいくのを見た。
会場が静まり返った。
サーシャが口を押さえた。
俺は、笑えなかった。
笑いたかったのに、笑えなかった。
―――
七日後、リーザスは王都から消えた。
置き手紙もなかった。
俺は詰所で、上官からそれを聞いた。
「リーザスは騎士を辞めた。故郷で木こりをするそうだ」
……そうか。
その日の夕方、あいつの家の前に犬が繋がれていた。
ジョンだ。首輪に手紙が挟んであった。
『マルコへ ジョンを頼む リーザス』
それだけだ。
十年一緒に落ち続けた男の、別れの言葉がそれだけだ。
「……ふざけんな」
俺はその場にしゃがみ込んだ。
ジョンが心配そうに、俺の顔を舐めた。
―――
リーザスのいない一年は、静かだった。
驚いたことに、俺は訓練場に行かなくなった。
行けないんじゃない。行かないんだ。
朝、目が覚めて、剣を握る理由が見つからない。
(俺は、あいつがいないと騎士でいられない男だったのか)
その代わり、俺は実家の酒蔵に顔を出すようになった。
親父は喜んだ。兄貴は「そろそろ本気で継ぐ気になったか」と笑った。
樽を担ぐ。帳簿を見る。取引先を回る。
俺には、そっちのほうが向いていた。悔しいくらいに、向いていた。
そして俺は、余った酒をサーシャの店に卸すようになった。
「マルコって、こういうの詳しいのね」
カウンターの向こうで、サーシャが笑った。
俺は、その笑顔を見た。
――ジョンが、足元で尻尾を振っていた。
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第三話 戻ってきた男
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「マルコ!」
詰所の前で荷物を運んでいた俺は、その声に顔を上げた。
旅の埃をかぶった男が、そこに立っていた。
「リーザス!? お前戻ってきたのか!」
俺は荷物を放り出して、そいつの手を握った。強く握った。
「元気そうで何よりだ! 村で木こりをするって聞いてたから、もう会えないかと思ってたぜ」
「まあ、いろいろあってな。また騎士を目指すことにしたんだ」
三十三歳になったリーザスは、少しだけ痩せて、少しだけ目つきが良くなっていた。
「そうか! おれもまだ正騎士をめざしてるぜ。一緒に頑張ろう!」
俺は笑ってそう言った。
嬉しかった。本当に嬉しかった。
そして同時に――胃の底が、冷たくなった。
(また、始まるのか)
俺は一年間、剣を握っていなかった。
その一年で、俺は自分が「騎士になれない側の人間」だと、静かに理解しはじめていた。
だがこいつが帰ってきた。
こいつが帰ってきたら、俺はまた「まだ夢を追っている男」を、演じなければならない。
ジョンが、狂ったように尻尾を振ってリーザスに飛びついた。
「ジョン! 元気だったか!」
……一年間、飯をやったのは俺なんだけどな。
俺は、その光景を少しだけ離れた場所から見ていた。
―――
「今年から試験に『魔力耐性』が追加されたぞ」
夕食の席で、俺はそう告げた。
「魔力耐性……?」
「隣国のゾラが侵略を始めている。魔法を使う兵士や魔物を操って攻めてくるんだ」
リーザスの拳が握られる。
「だから魔力耐性が必要なんだな。魔法に操られたりしないように」
「そうなんだ。でも、魔力耐性の訓練なんて今までやったことがないから、正直不安だ」
俺は正直に言った。
「俺たちで一緒に鍛えよう。諦めなければ道は開けるはずだ」
リーザスがそう言って笑った時、俺は――胸が詰まった。
(お前が戻ってきてくれて、本当に良かったよ)
その言葉に、嘘はなかった。
―――
訓練は地獄だった。
黒い魔鉱石に手をかざし、噴き出す魔素の圧に耐える。
頭が割れる。吐き気がする。指先の感覚が消える。
「こんな事して、いまさら耐性なんか付くのかよ」
「わからん。だがこれしかない」
俺たちは汗を流しながら耐えた。
サーシャが水を持ってきて、「無理しすぎだよ!」と叱った。
そして三か月後――
俺の魔力耐性は、ほとんど上がっていなかった。
「体質だな」
指南役はそう言った。
「魔力耐性ってのは、鍛えて伸びる奴と、伸びない奴がいる。お前はどうも、伸びにくい体質らしい」
俺は「そうっすか」と笑った。
笑うしかなかった。
剣は五回に一回。
魔力耐性は体質。
俺の中にあった最後の言い訳――「努力が足りないだけだ」という言い訳が、その日、静かに死んだ。
―――
試験の日。
俺は斬岩剣に成功した。
人生で二度目、試験本番で成功した。岩は真っ二つに割れた。
リーザスも成功していた。あいつは初めて、試験で斬岩剣を決めたんだ。
俺は嬉しかった。心の底から嬉しかった。
そして――魔力耐性の試験で、俺は落ちた。
―――
「……先に開けるぞ」
通知を破く。
「……不合格だった。魔力耐性が付かなかったみたいだ」
「まじかよ。俺は……」
リーザスも封を切る。
俺はその横顔を見ながら、考えていた。
(今年、俺たちは斬岩剣ができたんだ)
(例年通りの試験なら、俺たちは受かっていたんだ)
それは慰めだ。
だが、慰めでも言わなきゃ、明日が来ない夜がある。
―――
残念会の酒場で、モブどもが囃し立てた。
「おい、リーザス、来年は何歳だっけ?」
「賭けが続いてるぞ! こいつらが何歳まで試験に落ち続けるか!」
「俺は三十五まで続くに一銀貨だな!」
どっと笑いが起きる。
俺はジョッキを掴んで、立ち上がった。
「リーザス、あと一年頑張ろうや」
「!?」
「今年、俺たちは斬岩剣は出来たんだ。つまり例年だったら受かっていたはずだろ?」
「なるほど……」
「なら問題は魔力耐性だけで、今から一年じっくり取り組めば、俺たちは間違いなく正騎士になれる!」
「確かに!」
リーザスの目に光が戻る。
俺は店じゅうに向かって叫んだ。
「じゃあ、もうしんき臭い顔はやめて、来年の合格を記念して飲もうぜ!」
「おおおおおおお!」
肩を組んで飲んだ。
リーザスは笑っていた。
――俺は、あの時。
自分の魔力耐性が「体質で伸びない」と言われたことを、
あいつに、一言も言わなかった。
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第四話 俺は、あいつが空けた席に座った
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男が夢を諦める瞬間ってのは、たぶん劇的じゃない。
剣が折れるわけでも、涙が出るわけでもない。
ある朝、目が覚めて、樽を担いで、帳簿をつけて、常連に酒を注いで、
気づいたら夜になっていて――
「ああ、今日も剣を振らなかったな」
と思う。それだけだ。
それを三百六十五回繰り返すと、人は夢を諦めている。
―――
サーシャは、いい女だった。
よく笑って、よく怒って、酔っ払いの相手が上手くて、誰よりも先に他人の顔色に気づく。
俺は仕入れを手伝った。
実家の蔵から、この店じゃ出せないような酒を回してやった。
サーシャは目を輝かせて、「うちの店、格上がっちゃうね」と笑った。
オーナーも喜んだ。
娘と俺が並んでカウンターに立つのを、目を細めて見ていた。
俺は、居心地が良かった。
剣を振らなくても、誰にも笑われない場所。
斬岩剣ができなくても、価値がある場所。
三十四年生きてきて、俺が初めて見つけた場所だった。
―――
サーシャは、よくリーザスの話をした。
「おじさん、また試験落ちたんだって? もう、なんであの人って本番弱いんだろ」
「でもさ、瓶を素手で斬るのはやめてほしいよね」
「……ねえマルコ。おじさん、大丈夫かな」
その「大丈夫かな」の声色を、俺は聞かなかったふりをした。
サーシャがリーザスをどう思っているのか。
オーナーが娘の相手に誰を想定していたのか。
俺は薄々、気づいていた。
気づいた上で、俺は手を伸ばした。
―――
「マルコ、調子はどうだ」
訓練場で声をかけられた時、俺は逃げたかった。
「よ、よう、リーザス」
「最近、訓練場で見かけないが、秘密の特訓でもしてるのか?」
「いや……」
言え。
言うんだ、マルコ。
「……俺、今年は試験を受けないことにしたんだ」
「は? 何言ってるんだよ!? なんでだ?」
リーザスの目が、まっすぐ俺を見ていた。
――やめてくれ。
――そんな目で見るな。
「……好きな子ができたんだよ。その子と結婚することになった」
「結婚? 誰だよ?」
俺は、笑った。
自分でも驚くくらい、上手に笑えた。
「お前も知ってるさ。……サーシャだ」
―――
その日、俺は一つの罪を犯した。
俺は「魔力耐性が体質で伸びない」ことを言わなかった。
俺は「もう一年前から剣を握っていない」ことを言わなかった。
俺は「一年前、お前がいない間に、俺はとっくに諦めていた」ことを言わなかった。
俺はただ、「好きな子ができた」とだけ言った。
そのほうが、格好がついたからだ。
夢に敗れて逃げた男より、
恋に落ちて夢を捨てた男のほうが、まだマシな顔ができるからだ。
―――
そして――結婚の話が固まった夜、オーナーが酔って、俺の肩を叩いた。
「マルコ。お前が娘を貰ってくれてよかったよ」
「……ありがとうございます」
「実はな」
オーナーはグラスを傾けて、笑った。
「去年、リーザスに言ったんだ。騎士を諦めて、サーシャと結婚して、この店を継がないかって」
俺の手から、栓抜きが落ちた。
「あいつ、なんて言ったと思う? 『一年、猶予をくれ』だとよ。まだ試験を受けたいってな」
オーナーは肩をすくめた。
「……馬鹿な男だよなあ」
俺は、答えられなかった。
―――
その夜、俺は店の裏で吐いた。
(俺は、あいつが空けた席に座ったんだ)
サーシャも、店も、この居場所も。
全部、リーザスが「まだ夢を諦めてない」という理由で断った席だ。
あいつが夢を諦めなかったから、俺の人生が手に入った。
俺の幸せは、あいつの往生際の悪さの上に建っている。
(じゃあ俺は、なんだ)
星が滲んだ。
(俺は、あいつの――何なんだ)
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第五話 マスターと、門番
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「やあ、またきたのかお前ら」
「こんばんわ大将!」
カウンター越しに若い雑兵どもを迎える。
ガストン、ミルド、それにビアンカとかいう娘。
その後ろから、あの男が入ってくる。
「マルコ、ちょっとこっち」
「はーー……また、ツケで飲ませろってか?」
「すまん。あれなら週末店手伝うからさ」
三十五歳の雑兵。
試験に十七回落ちた男。
俺の親友は、後輩に酒を奢るために、俺にツケを頼みに来る。
俺は帳面にペンを走らせながら、いつも同じことを思う。
(もう、やめちまえよ)
言えないけどな。
―――
あいつは、あの年、腰をやった。
試験の三日前だ。
雨の夜に酔って転んで、ぎっくり腰。
……何をどう慰めればいいんだ、それは。
試験当日、あいつは痛む腰を抱えて会場に行き、岩を斬れずに落ちた。
その帰り道、王都には雷が鳴り、豪雨が降った。
俺は店のカウンターを拭きながら、扉が開くのを待っていた。
あいつは、来なかった。
―――
やがて戦争が始まった。
魔道王国ゾラ。砦がひとつ落ちた。
正騎士たちの多くが南部戦線に送られ、王都の守りは俺たちのような――いや、リーザスのような雑兵が担うことになった。
ある夜、俺はパンと酒を持って、城壁の見回りに行った。
「敵か!?」
黒い影に飛び上がったリーザスに、俺は笑った。
「俺だよ、俺」
あいつは胸を撫でおろして、それからバツが悪そうに笑った。
「……差し入れか」
「店の残りもんだけどな」
冷えた石の上に並んで座って、パンを齧った。
王都の夜は、戦争が始まったとは思えないほど静かだった。
「マルコ。俺は――」
「立派だよ、お前は」
俺は、あいつの言葉を遮った。
「俺がお前の立場だったら、たぶん怖くて逃げ出してる。剣持って、戦争の始まった城の壁の上に立つなんて、俺には無理だ」
「……買いかぶりだ。俺はビビってばっかりだよ」
「ビビっても立ってるんだろ」
俺はパンを飲み下して、言った。
「俺は、逃げたんだ」
リーザスが、こっちを見た。
「昇級試験だって、結局さ。俺は結婚に逃げたんだよ」
「マルコ」
「お前は騎士としての気高い精神を持ってる。俺には、それがなかった」
――嘘じゃない。
――だが、全部でもない。
本当は、あの時こう言いたかった。
(俺は今、幸せなんだ)
(店があって、女房がいて、腹の中に子供がいて、俺は幸せなんだ)
(だから頼むから、お前も幸せになってくれ)
(お前が不幸なままだと――俺の幸せが、卑怯なものみたいに見えるんだよ)
言えなかった。
あいつは黙って、遠くの城壁を見ていた。
―――
娘が生まれた。
小さくて、赤くて、猿みたいで、笑ってしまうほど可愛かった。
抱き上げた瞬間、俺はもう完全に理解した。
(ああ、俺の人生はここで決まったな)
騎士になって皆を守るなんて夢は叶わなかった。
だが、この子だけは俺が守る。この子を守れるのは、俺だけだ。
それは負け惜しみだ。
だが同時に、まぎれもない、俺の真実でもあった。
そして俺は――今日も、夢を諦めない男に、酒を注ぐ。
「大将、ツケ、いくらになってる?」
「聞くな。飲め」
「……悪いな」
「ああ」
俺は空になったジョッキに、また酒を満たした。
こいつが受かったら、この店に来なくなるんだろうな。
こいつが落ち続けたら、この店で朽ちていくんだろうな。
どっちも嫌だと思う俺は、たぶん、相当に卑怯な男だ。
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第六話 三十五歳の夜
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「それでは我らがリーザスの、正騎士昇格を祝って」
オーナーがジョッキを掲げる。
「かんぱーい!」
店が割れんばかりの歓声に包まれた。
――受かりやがった。
あの男が。
十八回落ちた男が。
三十五歳の雑兵が。
騎士団長に直訴して、竜騎士の奥義を見せつけて、鬼騎士に殴られて、それでも立ち上がって。
正騎士に、なりやがった。
―――
「リーザス」
俺は、後輩どもに囲まれているあいつに声をかけた。
「マルコ……」
「なんでも騎士団長に直訴して合格したんだって?」
「直訴なんてかっこいいもんじゃないよ。酷いもんなんだぜ? 俺は全課題クリアしたのに、おっさんだって理由で騎士団長達が俺をじゃんけんで押し付け合ってたんだぜ」
「じゃんけん!?」
「その上、鬼騎士が俺をぶん殴って殺そうとしてさ」
俺は笑った。腹の底から笑った。
こいつは、そういう男だ。
人生で一番かっこいい瞬間を、必ず一番かっこ悪く語る男だ。
―――
酒が回った頃、俺はぽつりと言った。
「でも、お前だって本当にすごいよ。結局、騎士に成れたんだから」
「!」
「それに比べて俺はしがない酒場の親父さ」
「バカ、お前はサーシャって嫁と可愛い娘がいるじゃないか」
「子供を産むと女は変わるよ。毎回、帰りが遅いだの浮気してるんじゃないかのヒステリーにうんざりさ。俺、遅くまで酒場で働いてクタクタなのにだぜ?」
「はは」
俺は、酔っていた。
だから言った。言ってしまった。
「でも、俺はこの先の人生が徐々に閉じていくのがわかる。だが……」
俺は、眩しいものを見るように、あいつを見た。
「お前の人生はこれからだ」
「マルコ……」
「同じ三十五なのにな。……お前が羨ましいぜ」
―――
リーザスは、何か言いかけて――黙った。
そして、泣いた。
「は? 何だよ突然!? 今泣く場面か!?」
「いや」
あいつは目頭を押さえて、無理やり笑った。
「お前に、認められたのが嬉しくてさ」
「は?」
――嘘だ。
俺は、はっきりそう思った。
こいつは今、嬉しくて泣いてるんじゃない。
こいつの目の奥にあるのは、喜びじゃなかった。
あれは、俺には見せない場所にある何かだ。
もっと重くて、もっと痛くて、俺には触らせてもらえない何かだ。
(お前、何を隠してる)
聞けなかった。
俺たちは十八年、隣で落ち続けた仲だ。
だが、隣にいたからこそ、踏み込めない場所がある。
あいつは、それをついに俺に話さなかった。
――俺も、あの夜のオーナーの言葉を、ついにあいつに話さなかった。
おあいこ、ってことにしといてやるよ。
―――
「胴上げだーー!」
誰かが叫んで、店じゅうがリーザスを担ぎ上げた。
三十五歳のおっさんが、宙を舞う。
情けない顔で、泣き笑いしながら、天井にぶつかりそうになりながら。
俺はその下で、手を叩いていた。
ちくしょう。
悔しいなんてもんじゃない。
俺はな、リーザス。
お前が落ちるたびに安心してたんだよ。
お前が受かったら、俺の言い訳が全部なくなるって、分かってたからだよ。
――でも。
お前が宙に舞ってるのを見て、俺は今、泣きそうなんだよ。
―――
出立の朝。
ジョンが、リーザスに向かって狂ったように吠えていた。
「ジョン。しばらく留守にするな。いつか迎えに来るから」
あいつは犬の頭を撫でて、それから俺を見た。
「マルコ、ジョンを頼む」
「ああ」
俺は、赤ん坊を抱えたまま頷いた。
サーシャが言った。
「体に気をつけて頑張ってね」
オーナーが言った。
「この街に来たら、必ずうちに立ち寄れ。ここはお前の第二の故郷だろ?」
「みんな、ありがとう。お幸せに」
あいつは手を振って、歩き出した。
振り返って、もう一度手を振って。
そして――前を向いた。
―――
その背中を見ながら、俺は思った。
三十五歳。
俺の人生は、たぶん、もう決まった。
この店で酒を注ぎ、娘を育て、女房に叱られ、常連の与太話を聞き、いつか死ぬ。
悪くない。
本当に、悪くない人生だ。
だが、俺は知っている。
同じ三十五歳で、人生を「もう一度始めた」男がいることを。
十八回落ちて、それでも十九回目を受けた男がいることを。
そいつは俺の親友で、俺がその席を奪った男で、
俺が心のどこかで「落ちてくれ」と祈った男だ。
―――
店に戻って、俺はカウンターの端の席を拭いた。
あいつがいつも座っていた、安い酒しか頼まない席だ。
俺は一番いい酒の栓を抜いて、その空席の前に、なみなみと注いだ。
「……よお、リーザス」
誰もいない席に、俺は語りかける。
「ツケ、まだ残ってるからな」
娘が奥で泣いている。サーシャの声がする。
ジョンが足元で丸くなって、扉のほうをじっと見ている。
俺は笑った。
「必ず、生きて払いに来い」
―――
いつか、娘が大きくなったら話してやろう。
父さんの親友はな、と。
三十五歳まで雑兵をやって、十八回試験に落ちて、ノミの心臓なんて笑われて、
それでも剣を捨てなかった、おっさんの騎士がいたんだって。
――俺の物語は、ここまでだ。
ここから先は、あいつの物語だ。
(『ノミの心臓のおっさん』マルコ外伝 完)




