三十五歳、動き出す人生
そして――。
あの長い昇級試験から一週間後。
酒場の奥で、マスターが両手を上げた。
「それでは我らがリーザスの、正騎士昇格を祝って――」
一同が声を揃える。
「かんぱーい!」
グラスが一斉にぶつかり合い、笑い声が弾けた。
泡立つビールの匂いと、焦がした肉の香り。
久々に味わう平和な喧騒だった。
後輩たちに囲まれて乾杯していると、店の奥から聞き覚えのある声がした。
「リーザス」
振り向くと、懐かしい顔が立っていた。
肩幅の広い男、気さくな笑み――
「マルコ……!」
二人は自然と笑い合った。
マルコは今もこの街の人気酒場のマスターだ。
俺たちは一角に移り、グラスを片手に向かい合った。
「なんでも、騎士団長に直訴して合格したんだって?」
「直訴なんて格好いいもんじゃないさ」
苦笑しながら、あの日の顛末を話す。
「酷いもんだぜ? 全課題クリアしたのに、“おっさん”って理由で、団長たちが俺をじゃんけんで押し付け合ってたんだ」
「はは、そりゃまた……」
「その上、鬼騎士が俺をぶん殴って殺そうとしてな」
「鬼騎士!?」
マルコの顔が固まる。
「まさか……あの八年前のハーフオーガのセルゲオか?」
「ああ。今は“鬼騎士”なんて呼ばれてる。まさに名前通りだった」
マルコは感心したように頷く。
「なるほどな……卒業生を呼んだって聞いたが、みんな偉くなったもんだ」
「ああ」
二人は一瞬だけ、静かにグラスを合わせた。
「でも、お前だって本当にすごいよ。結局、騎士になれたんだから」
「……」
その言葉が、不意に胸を突いた。
マルコは笑って肩をすくめる。
「それに比べて俺は、ただの酒場の親父さ」
「馬鹿言うな。お前にはサーシャって嫁と、可愛い娘がいるじゃないか」
「子どもを産むと女は変わるんだよ」
マルコはグラスを揺らし、苦笑する。
「毎晩のように“帰りが遅い”“浮気してる”だのってヒステリーさ。
俺は仕事でクタクタだってのに、まったくやってられん」
リーザスは笑いながらも、胸の奥が少し痛んだ。
◇
店内は賑やかだった。
グラスが鳴り、酔った声が飛び交う。
マルコはふとグラスの中を見つめながら言った。
「でもな……俺は、この先の人生が徐々に閉じていくのがわかる。
だが――お前の人生はこれからだ」
マルコの視線はどこか眩しそうだった。
「同じ三十五なのに、お前が羨ましいよ」
「マルコ……」
何かを返そうとして、言葉が詰まった。
“そんな愚痴が言えること自体が幸せなんだよ”
そう言いかけて、リーザスは口を閉じた。
(マルコから見れば、俺は夢を叶えた人間。
でも本当は、夢よりも欲しいものがある)
脳裏に浮かぶ声。
「リーザス……」
それは想像の中のビアンカだった。
胸がきゅっと痛み、視界が滲む。
リーザスは涙を堪えきれず、俯いた。
「……」
「おい、どうしたよ!? 今泣く場面か!?」
マルコが驚いて肩を揺さぶる。
「いや……」
無理に笑みを作る。
「お前に認められたのが、嬉しくてさ」
「は? なに言ってんだ」
周囲の仲間たちが笑いながら肩を叩いてくる。
だが、その笑い声の中で、リーザスは心の底で泣いていた。
(どんな羨望の声よりも、今はビアンカの声が聞きたかった)
グラスを傾ける。
酒の苦味が、涙の味に似ていた。
(だが……ビアンカはもういない。戦死したと――)
マルコが肩を組んできた。
「お前は本当にすごいよ。なぁ、俺も頑張るよ」
(マルコこそ、俺が欲しいものを全部持っている)
仲間たちが集まり、誰かが「胴上げだ!」と叫んだ。
歓声の中、リーザスは宙へと放り上げられる。
(ビアンカのことを話したら、彼女の死が“確定”してしまう気がした)
照明の光が滲む中、宙を舞いながら笑う。
それは泣き笑いだった。
(だから……まだ言わない)
リーザスは胸の奥に、彼女の名前をそっとしまった。
◇
それから一週間。
リーザスは街の人々に挨拶を済ませた。
新しい鎧を受け取り、剣を磨き、そして手紙を書いた。
故郷の家族へ、短く「元気でやっている」とだけ。
そして今――出立の日。
ワンワン、とジョンが吠えた。
尻尾を振りながら足元を回る。
「ジョン。しばらく留守にするけど、いつか迎えに来るからな」
犬の頭を撫でる。柔らかい毛の感触が、心に残った。
「マルコ、ジョンを頼む」
「ああ、任せとけ」
マルコの腕の中には、赤子がいた。
その背後にサーシャの姿が見える。
「体に気をつけて、頑張ってね」
サーシャが微笑む。
「この街に戻ったら、必ずうちに寄れよ。ここはお前の第二の故郷だろう」
マスターの声に、リーザスは深く頷いた。
「みんな……ありがとう。幸せにな」
手を振り、ゆっくりと歩き出す。
背後ではマルコたちが手を振り返していた。
街の門を抜けた時、リーザスは一度だけ振り返った。
遠くの人影が、春の陽の中でぼやけて見える。
彼は、前を向いた。
視線の先には、南部の空。
あの戦場の方角だ。
(もう、戻れないかもしれない)
南部戦線の死者数は増える一方。
自分も、ただその中の一人になるかもしれない。
それでも――。
(ビアンカ。俺は行く。
お前が残した“竜の心臓”と一緒に)
リーザスの胸元で、あの赤い石が静かに光った。
彼は笑った。
三十五歳にして、ようやく――
リーザス・モートンの人生は、動き始めたのだ。
ここまで第一章です。
初期構想では45歳まで落とし続けようと思ったんですが、受かってしまいました。
次号から新章、軍事大学校編スタートです。
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