三十五歳、竜爪剣
訓練場の砂が、冷たい風で舞い上がっていた。
陽は傾き、影が長く伸びる。
そこを歩くひとりの少女の姿があった――ビアンカだ。
「ビアンカ……!」
声をかけると、彼女が振り返る。
肩で息をして、唇をかすかに噛む。
その顔を見ただけで、胸が苦しくなった。
「リーザスさん……」
建物の陰に身を寄せて、二人は向き合った。
訓練場の喧騒はもう遠く、周りには誰もいない。
風の音と、自分たちの呼吸音だけが響いていた。
「まさか志願だなんて」
「つい、反射的に手を挙げちゃいました。ゾラのやつらと、一刻も早く戦いたくて……」
「…………」
言葉が見つからない。
彼女の瞳の奥には、燃えるような決意が宿っていた。
誰が何を言おうと、止められそうになかった。
「俺も志願すべきだった。……ごめん」
「なんで謝るんですか?」
ビアンカの声が冷たく響く。
「リーザスさんは、今年は絶対に受かりますよ。
でも私は斬岩剣もできないし」
「だから、それは俺が教えるから――」
「聞こえるんです!」
その一言に、俺は息を呑んだ。
彼女の目が、光の底に闇を宿していた。
「お姉ちゃん助けてって……弟や妹の声が聞こえるんです。
“痛いよ”“苦しいよ”って、母さんと父さんの声も!」
涙のかわりに、怒りが彼女の頬を走った。
拳を握りしめ、爪が血をにじませる。
「もし今年落ちたら、来年まで騎士にはなれない。
でも今、手を挙げれば確実に戦場に行ける」
「そしてゾラの奴らを、この手で……」
その手が震えていた。
俺は、その拳が痛々しくて、掴めなかった。
「私、今夜出立しなきゃならないんです。緊急らしくて」
「そんな! 見送る時間もないってことか?」
「はい。もう行かなきゃ」
風が吹いた。
彼女の髪が宙で舞い、金色に光る。
「リーザスさん、昨日のことは私の一生の思い出です。
あれがあったから、心残りなく行けます」
「何言ってるんだ!」
思わず叫んだ。
胸の奥が焼けるように熱くなる。
「そんな、死ににいくようなことを……!」
「もちろん、無駄死にはしません」
ビアンカは笑った。
その笑顔は、あの日の少女ではなく、戦場に立つ兵士のものだった。
「でも、私はあいつらを殺すためなら、自分の命は惜しくないんです」
「……」
「では、リーザスさん。お元気で」
そう言って、踵を返そうとした彼女の背に、思わず声が出た。
「ビアンカ!」
振り返る。驚いた顔。
「だったら、ほんの少しでいい。時間をくれ」
◇
訓練場に並ぶ岩塊。
夕陽の光がオレンジに染める中、俺は剣をビアンカに手渡した。
「斬岩剣は、自分の力でやるんじゃない。
剣に斬ってもらうつもりで斬るんだ」
「でも……」
「早く!」
言葉に押され、ビアンカは岩の前に立つ。
風が、彼女の頬の髪を揺らす。
剣を握るその手が、細く、震えていた。
「脱力しろ。そして無心で、斬るんだ!」
「……はいっ!」
ビアンカが大きく息を吸い込む。
世界が一瞬静まり返った。
そして――
**ザンッ。**
岩が、真っ二つに割れた。
光が、割れ目を走り抜けていく。
「リーザスさん……私、初めてできました!」
「ビアンカ!」
彼女の声に、胸がいっぱいになる。
その笑顔に、すべての緊張が溶けていくようだった。
「これがあれば大丈夫だ。もう、簡単には負けない!」
「リーザスさん……」
言葉が途切れる。
代わりに俺は、笑顔で言った。
「だから、絶対に――死なないでくれ」
「……はいっ!」
まっすぐな返事。
その声が胸の奥まで響いた。
◇
その夜、ビアンカを含む憲兵たちは、慌ただしく王都を発った。
馬蹄の音が夜の石畳を叩き、暗闇の中に消えていく。
見送ることもできなかった。
数日後。
酒場の灯りがぼんやりと揺れていた。
ジョッキを傾ける音だけが、静かな夜に響く。
「なんで、ビアンカは志願なんかしちまったんだ?」
ガストンがグラスを叩いた。
「ああ、雑兵で行ったって、ろくな装備も与えられねえし、いいことねえのにな」
ミルドが愚痴をこぼす。
俺は何も言わず、琥珀色の液体を見つめていた。
その表面に、彼女の笑顔が映った気がした。
「いや、後方支援が主な任務だって聞いた。
危険は少ないさ。帰ってきたら、試験なしで騎士に昇格できる。いい判断だ」
「え、そうなんですか?」
「マジかよ」
「上官が教えてくれた。今回は特例だ」
「だったら、俺も志願すりゃよかった!」
「俺もだ!」
「……まあ」
俺はグラスを掲げた。
乾いた笑いが、喉の奥でひびいた。
「俺たちは三か月後の試験で、ちゃんと騎士になればいい。それでいいんだ」
「リーザスさん、今年が受けられる最後の年なんですよね?」
「いや、戦争で年齢制限は撤廃されたらしい。……でもな」
笑って、言い切る。
「俺は今年、絶対に受かる。必ず、だ」
◇
朝。
白い靄が薄くかかる訓練場で、俺は剣を振っていた。
隣ではジョンが尻尾を振って、こちらを見ている。
ひと振り、ふた振り。
空気が裂ける音がする。
その刹那――
三本の光が、同時に走った。
「……今のは……」
息を呑む。
「竜爪剣……!」
一振りで複数の斬撃を放つ、最強の騎士だけが扱えるという究極奥義。
訓練でも、夢のまた夢。
それが、今、俺の手から生まれた。
剣が震える。
ジョンが嬉しそうに吠えた。
「……見ててくれ、ビアンカ」
俺は空を仰ぐ。
遠い雲の向こう、南の空のどこかに、彼女がいる。
「俺も、すぐ行く。君の元へ」
風が吹き抜け、砂が舞い上がった。
朝日が、剣の刃に反射して光った。
その光は、まるで竜の爪が空を裂いたように眩しかった。




