三十五歳、帰りたくないって言ったら…
ガチャ、と鍵が鳴り、俺とビアンカは小さな部屋に入った。
灯りに火をともすと、木の床と棚がやわらかく浮かぶ。
「へー、綺麗にしてるじゃないですか〜」
ビアンカが、きょろきょろと見回して言う。蜂蜜色の瞳が、棚の上の本や、干してあるマントを順に撫でる。
「ま、まあ。今、お茶入れるから。そこに座ってて」
俺は慌てて炊事場へ。魔法コンロの前で、発熱石を二つ、**カッ**と打ち合わせる。
(な、なんだ? なんで来た? “二人で話したい”って、え、どの方向の話だ?)
真っ赤になった石を、コンロの窪みに置く。**じゅ**と空気が熱を含み、やかんを載せるとすぐに蒸気が笑いだした。
「すぐ沸くからさ」
椅子には座らず、ビアンカは背中越しに話しかけてきた。
「私、実はずっとリーザスさんのこと、気になってて……一度、二人でゆっくり話したかったの」
「!」
(“気になる”? ちょっと待て、どういう“気になる”だ。あれか、おっさんがいつまでも騎士受けてるのキモい、とか――)
「ごめんなさいごめんなさいおっさんでごめんなさい」
心の中で土下座していたら、手が勝手に動いて、やかんの蒸気口の上へ――
**プシュー**。
「熱っ!」
反射でのけぞった背中が、後ろの何かにぶつかる――と思ったところで、柔らかい力が肩を受け止めた。
「だ、大丈夫?」
振り向けば、ビアンカが俺の背を押さえていた。顔が近い。柑橘の香りがふわり。
「ご、ごめん」
「リーザスさんの背中って、大きいんだね」
はにかむ笑顔。破壊力。
**ドキン**。心臓が、ひとつ派手に跳ねた。
◇
お茶を置く。湯気の向こう側で、言葉が空回りしそうになる。
「じゃ、じゃあ話を聞こうか」
(いかん。これはいかん。勘違いするな、おっさん。若くて可愛い子が“気になる”って、そういう意味じゃ――)
「リーザスさん」
まっすぐな目が、こちらを射抜く。
「**どうしたら私は騎士になれますか?**」
「…………」
予想外の直球に、言葉が空中で止まった。
ビアンカは、耳の先を少し赤くしながら笑う。
「最近、伸び悩んでて」
(だよね! 一瞬、告白とか期待しそうなシチュエーションだったけど、俺は一切期待してなかった。ノーダメージ。セーフ!)
「な、なんでそんなことを俺に聞くんだ。同じ雑兵だろ、俺」
「それに確か、ビアンカはまだ二年目じゃないか。これから――」
(てか。**十七回連続**で落ちてる俺に、そんなこと聞かないでくれ。こっちは伸び悩むどころか**縮み**始めてるんだぞ!!)
「だってリーザスさんって、**超一流**の剣の使い手じゃないですか」
「は?」
「わかるんです。剣の振り一つで。他の人と全然違います」
ビアンカは真顔で続けた。
「うちの指南役の人たちを見ても、リーザスさんより優れてる人、いませんよ。あの人たち、元・正騎士ですよね?」
「いやいやいや、そうじゃないんだって」
「知ってるだろ。俺、“ノミの心臓”って言われてて……練習でいくらうまくいっても、本番じゃ緊張して――」
(いやだ〜! こんなこと自分の口から言いたくない〜!)
変な間が落ちた。
二人で湯気を見つめる時間。茶葉がゆっくり沈む。
(……実は、こうやって後輩が頼ってくるの、初めてじゃない。男は何人かいた。練習中の俺の剣を見て、尊敬した、とか言って)
(でも“研究熱心な奴”は、たいていすぐ正騎士になって、いつの間にか連絡が途絶える。それが**常**だ)
「もちろん、俺でよければいくらでも相談に乗るよ。ただ、今の俺は、偉そうに指導できる立場じゃ――」
**すっ**。
ビアンカの手が、俺の手の甲に重なった。小さくて温かい。
「……なんで、そんなに自信ないんですか」
苦笑い。けれど目は真剣だ。
「もっと、リーザスさんは**偉そうに**してくださいよ」
「偉そうに、って」
「だって、**もったいない**。あんなに腕が立って、こんなに**カッコいい**のに」
「何言ってんだよ」
言った瞬間、自分の耳が熱くなるのがわかった。
「――じゃあ、私、帰りますね」
ビアンカが**タッ**と立ち上がる。
俺もあわてて戸口へ。
「夜、遅いよ。送ろうか?」
「大丈夫。私だって騎士の端くれです。その辺の男には負けません」
「……だよな」
(ああ、やっちまった。なんか**失望**させた気がする。もう嫌だあああ)
ドアの取っ手に手をかける。
――そのとき、背中に**抱きしめる**衝撃。
「え?」
腕が、俺の腹の前でぎゅっと結ばれた。
ビアンカの額が背に触れて、呼吸が服越しに伝わる。
「**帰りたくない**って言ったら、ダメですか?」
月明かりが床に四角い窓を落としている。
発熱石のぬくもりがまだ残っていて、部屋は静かに暖かい。
俺の心臓が、また**ドキン**と跳ねた。
(落ち着け、落ち着け俺。)
それでも――口の中の言葉は、うまく形になってくれなかった。
(ダメ、なわけ――)
言えないまま、夜が、少しだけ近づいた。
――――――
まだまだ頑張ります




