手繋ぎ
振袖のビデオは、何度か着物を着替えたことから完成までにひと月以上かかっている。ようやく涼しい風が吹き出して始めて、終わったのは七五三詣でが始まる頃だった。撮影の日には当然のように水島が付き添い、仕事なのかデイトなのかわからなくなっていた。
「長い間、本当にありがとうございました」
そう言って差し出されたモデル料は、決して薄っぺらなものではない。しかし糸香は、水島の手伝いをしただけだからと頑なに受け取ることを拒んだ。
「困らせる娘さんだ。会計処理に困るのだがねえ」
しばらく唸っていたが、名案を思いついたようにふっと顔を上げた。
「では、これは引っ込めるとして、だからといって無銭飲食はできないのでね、現物で支払うということにしましょう」
社長は、浜ちりめんのお召しを謝礼として受け取ってほしいと言った。もちろん糸香はそれも固辞したのだが、既に使用済みの中古で申し訳ないがと言われ、糸香は有難くいただくことになった。
「ところで、京極家はどこからこの土地にやってきたのでしょうね」
唐突に社長が切り出した。
「なんでも、遠い親戚は京都だそうです。祖父がそこを離れてこの土地に住みついたのだそうです。父は転勤族でしたが、祖父母のこともあって単身赴任でした。ようやく自宅通勤できるようになったので、定年まで移動がなければいいなと皆が願っています」
「京都のどこですか?」
なんだか社長はしつこく知ろうとする。
「丹後だそうです。みね……なんとか言っていましたが、はっきり覚えていません」
「峰山ですか、もしかして」
「そんな地名です」
そこまで聞いた社長の顔が明るくなった。そして、丹後と聞いて何を思い浮かべるかと水島に問うた。
「丹後でしょう? 丹後エクスプローラー……、ではないですよね。天橋立とか?」
とたんに雷が落ちた。太物屋でありながら天橋立とは情けない。丹後ちりめんだろうがと意外のご立腹だ。
「いいか、浜ちりめんは丹後から伝わったのじゃないか。それくらい覚えておけ。京極さんにはその縁があったのだ」
なるほど、そういう繋がりに結び付けたか。だったら、新潟でも同じじゃないか。新潟にも越後ちりめんがあるのだから。水島の胸にちょっとした不満が湧く。
「つかぬことを訊ねるけれど、家紋は?」
糸香が答えようとするのを押し止めた社長がメモを書き、テーブルに伏せた。
「四つ目だそうですが、それが?」
ニヤッと笑みをこぼした社長がメモを見せると、そこには四つ目と書かれている。
「水島、立ち入ったことを訊ねるが、京極さんのことをどう思っている?」
急に真面目くさって言った。できることなら結婚したいと答えると、糸香も深く肯いた。
「親は承知しているのか? 反対されたりしていないか?」
母親は、家同士の付き合いができるかと不安気だが反対ではなく、父親は大喜びだと答える。糸香は両親ともに承知していると答えた。
「そうか。障害は何もないのだな?」
二人の目をじっと見つめた末に、こう言った。
「この婚礼、私が仲を取り持つ。仲人をさせてくれないか」
まだそんな具体的なことまで考えたことがなかっただけに、水島も糸香も声を失ってしまった。
「よく聞け、水島」
そう前置きして語り出したのは、糸香の家系のことだった。
幕末、丹後峰山藩の領主だったのが京極高通。維新で大名の座を失いはしたが、子爵に叙せられた。家紋は四つ目だそうだ。察するところ糸香は大名の子孫であり、貴族の子孫なのだ。その先祖は、近江の一部を領していたこともある。つまり、丹後と長浜のちりめんはその頃から親戚なのだろう。水島は浜ちりめんの縁で丹後のお姫様を引き寄せたともいえる。
「二人を結びつけたのは、細い細い絹の糸かもしれないな」
感慨深げに言ったのだった。
「話はかわりますが、モデルを紹介してくれという件ですが、きちんと断っていただけたのでしょうね」
もう振り回されるのは勘弁してほしいので、そこだけは念押しをしておきたかった。すると社長は平然と、心配するな、二度とそういうことは言わないはずだと答えた。そんなに簡単に納得するだろうかと疑いの目を向けると、あのモデルは妊娠しているからと言って断ったのだそうだ。呆れた嘘をつくものだ。しかしこういうことを断るには一刀両断に限るそうで、結婚するつもりでいるなら、尚更、切り口の鋭い嘘をつくべきだと平然としている。二人は目を見合わせるしかなかった。
「ところで、二人は手を繋ぐくらいするだろうけど、どういう繋ぎ方をするのだ?」
こんどはニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべている。水島は、普通に繋ぐと答えた。
「普通というと、手の平を合わせて指を絡ませるやつだな。それはそれで良いだろうが、粋な繋ぎ方を教えてやろう」
そんなことは知らなくてもかまわないと水島は遠慮したのだが、まあ聞けとばかりに手で押し止め、社長は喉を潤した。
「芸者の手をとってスリスリするのをテレビなんかでやっているが、あれは下衆な成金の所業だ。粋な旦那衆はそんなことはしないものだ。じゃあ、どうするかというと」
和服は基本的に男女の違いはない。あるとすれば袂のつくりだと社長は言った。男物の袂は完全に袋状になっているのに対し、女物は後ろが切れている。粋な旦那衆はそこを上手に利用するのだそうだ。
「真冬の寒い夜、店を出る頃にはハラハラと雪が舞っている。せっかく気持ちよく酔っているのに、一発で醒めてしまう。そこでだ、お気に入りの芸者の袂で暖めてもらうのだ。後から挿し入れてな、二の腕の内側をピッタリ付ける。これがことのほか温い。誰かに見られても、ただ手を繋いでいるとしか見えん。仕上げに袂を上にかけておけば上出来だ。どうだ、ためになっただろう」
身体の外側にあたる面は、刺激には強いが鈍感だ。怪我にしても虫刺されにしても治りが遅いのは内側で、それだけ敏感ということだろう。そういえば熱の感じ方も内側のほうがより熱く感じるものだ。だとすると、二の腕の内側同士を密着させるのは良い知恵だ。だけど和服を着てこそ成り立つことであり、知識として覚えておくという程度のことだった。
やがて新しい年が明け、水島は糸香の部屋で初めて唇を重ねた。ついばむようなものだったが、歯がカチカチと触れたことを覚えている。そして風がぬるみ、山里に新芽が萌えだすのと時を同じくして、二人は身体を重ねたのだった。
目くるめく出来事に我を忘れた。けれど二人は、一線を越えたからといって会うたびにそんなことをしたわけではない。しかし回を重ねるにつれ、ぎこちなかった行為にゆとりがうまれ、新緑が芽吹くように悦びを感じるようになっている。
そして今年も梅雨がきた。今日は恒例の花火大会だ。今日こそ残業を勘弁してもらおうと、水島は前もって皆にお願いしまくった。その甲斐あって定時で退社することができ、こうして糸香の支度が整うのを待っている。
「水島さん、今年もありがとうございます、花菖蒲。これね、皆さんに好評なんですよ」
店内ではバーテンダーと客の関係が頑なに守られている。実は、花菖蒲を強請ったのはバーテンダーなのだ。なら、摘みにこないかと水島が勧めたのだが、彼は一線を越えようとはしない。
去年のあの日、糸香は預かっていたネクタイを渡すのをすっかり忘れていた。送ってもらったお礼にお茶でもと誘ったのだが、水島はそれを断った。事情はどうあれ、初対面の家を訪れる時刻ではない。いずれそういう機会を設けるようにすればいいだけのことだ。玄関先で辞した水島は、ポツンポツンと灯る街灯の中を歩き出したのだった。
水島が駅についた。と、自分を呼ぶ声がする。振り向くと息を切らせた糸香がいた。横に中年の男が立っている。それが父親だった。
水島はきちんと名乗り、遅くまで連れ回したことを詫びた。すると父親はウンウンと肯き、節度のある青年だと言った。真に受けるとしっぺ返しがあると警戒しつつ、肩の力が抜けるのを感じたものだ。老舗を自任する社長が礼儀作法を厳しく教えてくれたことが幸いしたようだ。
そのときでさえ、ネクタイのことは水島も糸香もすっかり忘れていた。
「水島さん、私にはどう考えてもわからない。ど田舎で初デイトするような野暮天が、どうやって一年で結納にこぎつけたか。いくら考えてもわからない。全く不思議です」
何度同じことを聞いただろう。なるほど二人は皆がでかける名所や観光地には近寄らなかった。それには理由があるのだが、いくら説明しても頭から否定されてしまう。
「よりにもよって無人駅で降りたのだって? もう少し先に観光名所があるのに? 草ボウボウの河原で休んで、畑仕事を手伝ったというのもね、セオリーから外れているじゃないですか。二人ともおかしい。どう考えてもおかしい」
水島だって、気を悪くされるかもしれないとハラハラしていたのだ。けれど、名所や観光地は必要以上に人の手が入っている。舗装された道路や広い駐車場。売店に食堂、ボートやロープウェイ。もうそれは遊園地と同じで人造物だと思ったからだ。人も自然の一部だから、人が住むのはかまわない。ただ、田や畑のような最低限の改造に止めるべきだと思った。無人駅の周辺は、人家も疎らなところが多い。そういう土地なら人の手が加えられるのも限定的だ。そんなな土地にこそ自然があると考えたのだ。
誰もいない駅に降り立った瞬間むせるような草いきれに包まれ、糸香が子供のような声を上げた。目についた小道を歩くだけで鳥のさえずりが聞こえてくる。川原には気のはやいトンボがスイースイーッと飛んでいた。畑で精出す老婆に話しかけると、人懐こく応じてくれる。手伝いをさせてもらい、採れたばかりの野菜を貰った。畑仕事の合間に頭を上げれば、風にたなびく稲田が見えた。ワッサワッサと葉を揺らす山肌が見えた。採りたての野菜を頬張る糸香の嬉しそうな顔。水島は、その駅で降りてよかったと胸を撫で下ろした。
「まあねえ、本人同士が納得しているのだからとやかく言いませんよ。けどね、半年もしたら妙に色っぽくなったのはどうしてです? そりゃあ年頃の娘ですからね、色気づくでしょうよ、放っておいても。だけどだ、桜の頃からこっち、急に艶っぽくなった。目元、目の潤み、口元。素人は見過ごすかもしれないが、この目は節穴じゃないからね」
答えられないことを彼は攻め立ててきた。水島が黙ってしまうと、まるで母親になる準備をしているように見えるとさえ言った。さすがにそれには反論した。すると、こんどは剥きになって言う。
「いい加減なことを言ってはいけないよ。いずれ母親にさせるのでしょう?」
「それは……、子供は欲しいです」
「その練習をしていると……」
「やめてください。セクハラですよ、今の発言」
「どうして。具体的なことは何も言っていないけど。練習がセクハラ? 兄さんだってそういう判決は下さないと思うがねえ」
またしても言い負かされた。口車にのってポロッと漏らして良いこともあれば、そうでないこともある。絶対的に不利な立場であることを考えれば、言わないでいることが得策だろう。
あれから一年、二人は互いをわかり合うことに努め、共に生きて行く道を選んだ。来月になったら彼女の家で納采をすることになっている。
その間、糸香も変わった。始めの頃は世間知らずな面があったのだが、最近ではちゃっかり値切り交渉をするだけの度胸を身につけている。もちろん変わらないこともある。善悪の境界にうるさいことだ。それは法律のことだけでなく、日常の出来事にまで及ぶ。そういう裏表のはっきりしたところを水島は眩しく思う。
そんなことを話していると、バーテンダーが水島にグラスを掲げてみせた。
「水島さんも変わりました。気付いていませんか?」
からかうつもりか、バーテンダーの頬が緩んでいる。
「タバコをセカセカ喫まなくなりました。銘柄も落ち着き、ゆっくり味わっている。それが大人の第一歩です。粋に目覚めたと言い替えても良いでしょう」
糸香は特にタバコを嫌ってはいない。彼女の父親がかなりの愛煙家なので、煙を厭なものとは思っていない。だったら遠慮なく喫めそうなものだ。ところが、話したいことやしたいことが多くて、ついタバコのことを忘れてしまう。それで量が減ったのだろう。
「お待たせ」
糸香がようやく登場した。色無地の着物姿だ。
「これはこれは。若妻になるのだから、そういう控え目な縞柄が似合うよ」
「叔父さん、これ、無地ですよ」
糸香が袖を目の前にかざすと、彼はおかしいなと呟いた。
「健一さんが開発した反物なの。宣伝のモデル代だといって貰ったの」
「モデル? ああ、去年の」
モデル料を受け取ろうとしない糸香に、なら、こっちを受け取ってほしいといってむりやり押し付けたものだ。
「その帯は?」
「フフーン。社長がね、ご祝儀だと言ってくださったの。お襦袢から草履まで。これ、奥様からのプレゼント」
くるりと背を向けると、巻き上げた髪が笄で留めてあった。
「さすがだねえ。よく引き立つ色合いだ。老舗だけあって目利きがすごい」
襟のところに小さく紋が入っている。四つ目だ。
「ちりめんだな、まさか化繊ということはないだろうな、老舗だからな。着物から帯まで全部絹か、豪勢だねえ」
「浜ちりめんです。これは試作で織ってもらった、正真正銘の手織りです。ほら、宣伝ビデオをお見せしたでしょう。あれです」
開発にかかわった者としての誇りがそう言わせた。
「あれなあ。いいお嬢様に映っていたなあ。お点前の場面なんか、きりっとして清々しいかったし、餌をやっている場面だったか、腰から尻の線が見事だったよ。後ろ姿も初々しかったなあ。これがあの時の着物、そうなのか」
生ぬるくなったコーラを飲みながら相槌をうっていた水島だが、今でも残念に思っていることがある。本当はポニーテールにしてもらいたかった。弓を引かせたいと夢想したように、美剣士姿を一度でいいから見たかった。
「高級品なんだろうな、太っ腹じゃないか。花火大会だろう? 周りは浴衣ばかりだろう。目立つよ、絶対に目立つ」
目を丸くして感心したバーテンダーだが、急に意地の悪い目つきになった。
「おかしなことをするんじゃないよ。誰でも誘惑に負けそうになることがあるもんだ。けど、洋服と違って乱れたら最後だ。素人では直せないからな」
「せっかくのご心配ですが、太物屋ですから。一応のことは仕込まれています」
このとき、水島は笑顔でいっぱいだった。ふだん弄ばれているだけに、勝ち誇ったような気持ちだった。
忘れないうちにと言って、糸香が封筒をよこした。
「観能会のチケット。父が取り寄せてくれたの」
「待ちなさい! お前はまだ嫁入り前なんだよ、官能だなんてことを口にするももんじゃない。ヒソヒソならまだしも、大きな声で。信用をなくすからやめなさい」
突然のことに水島も糸香も顔を見合わせてしまった。何か気に障ることでも言っただろうか。しかし思い当たる節はない。
「観能と言ったのがいけなかったですか? けど、チケットにもそう書いてあるのだし」
糸香は不満そうだ。
「若い男女のことだから、いろいろあるとは思うよ。だけど。なにもあからさまに官能ということはないだろう。そういう会だって? どこからそんなものを手に入れるのだ。あっ、まさか兄さん、証拠品を着服したのではないだろうな。それとも地下組織と癒着したとか」
どうにも言っていることの意味がわからない。糸香を窺うと、彼女も理解できないようだ。
「観能会がいけませんか、父のお薦めの演目なんだけど」
彼女は小さな頃から親に連れられて能や狂言に接している。なるほど年寄りじみた趣味かもしれないが、頭から否定されるものではないと思っている。
「お前、わかって言っているのか? 官能だぞ。濃厚なラブシーンばかりを集めたのだろう? それとも実演なのか? 破廉恥すぎる」
濃厚なラブシーン? しばらく考えていた糸香の顔が真っ赤になった。
「ちがう! 叔父さんの言っているのとは全然違う! ちゃんとした芸術なんだから」
これだけ言ってもわからないかと、バーテンダーはカウンターに紙を置いた。乱暴にペンを走らせると、これだろうと言って指で叩いた。そこには達筆な文字で官能の二文字が踊っている。
「父がそんなチケットを取り寄せるわけないじゃないの、ちゃんと見てよ」
封筒から取り出したチケットには観能会の三文字がでかでかと印刷されている。
「甘いなあ糸香は。裁判所の書記官が盗撮で逮捕されるご時勢だぞ。痴漢で逮捕された検事だっているじゃないか。どうして裁判官は清廉潔白だと言い切れる? ……能のチケットじゃないか」
表に印刷された図柄で一目瞭然だ。
「かんのうかい…… 糸香、能を観ることをかんのうと言うのか?」
彼は驚くほど豊富な知識をもっているが、どうやら世俗的な方向に偏っているようだ。ともあれ、この店の記念日には意外なことがおきる。そして水島は、頬をふくらませて抗議する糸香を宥めながら、駅に向かうのだった。
あの日、間を人がすり抜けられるくらい離れて歩いたこの道を、今日は手をつないでいる。着慣れぬ和服で覚束ない足取りもまた楽しいものだ。
「糸香さん、やってみようよ」
突然に足を止めた水島が糸香の耳元で囁いた。なんのことやら全くわからぬ糸香が怪訝な顔を向ける。
「ほら、いつか社長が言っていたアレだよ。着物を着るチャンスなんかないんだからさ」
そう言うと、ようやく糸香にも意味がわかったようだ。だけど誰かに見られると言うなり下を向いてしまった。
「見られたって、わかるもんか」
「ばか」
それを承諾と受け取った水島が、袂の後から腕を挿し入れた。すぐに軟らかい二の腕を伝って手の平を合わせる。糸香の腕はサラサラで、ひんやり感じる。
「しちゃった。僕も粋な旦那になれたかな」
水島が言うと、蚊の鳴くような声ばかと呟いた糸香が指を絡めた。
慌てなさんなと柳の枝が、ゆらりそろりと人招き。ひしと掴んだ小さな縁、ドンと咲かそう大空に。