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kaldia(7)

 ハーディンの森に向かって、ルコの大草原をひたすら歩く。まだ、地平線の先にすら、目的地は見えてこない。

 太陽が僕の背中から昇り、やがて僕を追い越していった。その間に、僕は何度か休憩して、干し肉を口にした。保存食をたんと持ってきたとはいえ、食料は大事にしないといけない。

 まだ先は長い。けど、気分は上々だった。

 誰にも咎められることなく、どこへだって行けると思うと、思わず駆け出してしまいそうになった。今ごろ僕のことを心配しているであろう母さんのことは、なるべく考えないようにした。

 辺りがオレンジ色に染まる頃、ようやく僕は今晩の寝床を探し始めた。結局、暗くなっても手ごろな場所が見つからず、僕はその辺に寝転がって、満天の星空を眺めながら眠った。この時期は野犬も少なく、寒さに凍えることもない、野宿をするにはもってこいの気候だ。

 翌朝、まだ暗いうちに目を覚ますと、僕はこみ上げてくる心細さをかみ殺して、再び歩き出した。

 ようやく日が昇り始める頃、どこか知らない部族の青年が、馬に乗って僕を追い越していった。出発してからほとんど人の姿を見ていない僕は、少し嬉しくなって、青年の後ろを小走りで追った。

 何をしているのだろう、と青年のことを見ていると、どうやら兎を狩っているらしい。青年は二兎の兎を狩ると、兎を担いだまま走って行ってしまった。

 結局、その日見た人影はその青年のものだけだった。ルコの大草原は広大だ。

 翌日になると、ようやくハーディンの森が見え始めた。

 ほんの小粒のような姿だったけど、僕は自分が歩いている方角が間違っていなかったことを知ってひどく安堵する。ハーディンの森の方角は知っていたし、太陽の位置と星の位置から方角を知る方法も、いつかベゼットじいちゃんに習って知っていたのだ。

 ようやく森が拳ほどの大きさに近づいてきた頃だった、後方から蹄の音が聞こえて振り返ると、そこにいたのは先日、兎を狩っていた青年だった。こちらに向かっているようなので、僕は少し緊張しながら、その場で青年がやって来るのを待った。


「やあ、どこに行くんだい?」


 軽薄そうな印象の、思ったよりも若そうな男だった。どこの部族の男か一見して分からないけど、こちらに敵意を持っているわけではないようだった。


「……ハーディンの森へ向かってます」

「ハーディン!」


 青年が大きな声を出す。僕には青年が大げさに驚いているように見えた。


「ごめんな、驚かせて。でも、あんまりビックリしたからさ」

「ハーディンの森に入ったら恐ろしいことが起きることは、僕も知ってます」

「いいや、君は知らないはずさ。俺が見たものまでは。見たところ、君はレイズの民だろう? オルマンスの地から歩いてハーディンの森まで行くなんて、ただ事じゃない。きっと何か訳があるんだろう。でも、ハーディンの森はダメだ。神聖な土地だからとか、長老が口うるさく言うような理由で忠告してる訳じゃないんだぜ」

「じゃあ、どうして……?」


 僕は生唾を飲み込んだ。


「ハーディンの森は異世界に通じるなんて話もあるようだが、俺に言わせると、一番恐ろしいのはそこに住む魔女だよ。お前だって噂くらいは聞いたことがあるだろう。俺は実際に見たことがある。人をたぶらかし、食い漁る、世にも恐ろしい魔女だ。悪いことは言わねえから、ここらで引き返した方がいいぜ。これ以上近づくのも恐ろしいから、俺はもう引き返すからな」


 それだけ言ってしまうと、青年は元来た方向へ戻っていった。

 一人残された僕は、それでも、ベゼットじいちゃんのために進まないわけにはいかなかった。膝はがくがくと震え始めていたけど。

 青年には言わなかったけど、マルトセルの日に、僕もハーディンの森で恐ろしい老婆の姿を見ていた。あれは目の錯覚だったと自分に言い聞かせてここまで来たけど、ひょっとしたらあれが、ハーディンの森の魔女だったのだろうか……。

 肩をぶるぶると震わせると、その場で立小便をしてから、僕はまた歩き出した。太陽が真上に昇る頃に、ハーディンの森の入り口にたどり着いた。

 マルトセルの時には、あまり意識して見ていなかったけど、木々が鬱蒼と茂り、見るからに不穏な気配の立ち込める森だった。

 僕は恐る恐る、少女のいた塔を探し、神話や刺青、そしてベゼットじいちゃんの記憶を取り戻すべく、森へと足を踏み入れた。

 ハーディンの森は、一歩踏み入れただけで、それまでと全く空気が違うのが分かった。空気が体に絡んでくるように重く、さらに昼間だというのに辺りは薄暗かった。

 マルトセルの時は、かなり森の深部に入ってから目隠しを外されたはずだ。この森をかなり分け入らなければ目的地に着かないだろうことを考えると、僕は絶望的な気分になった。心細さは極限に達し、僕は先ほどの青年を引き摺ってでも連れてくれば良かったと後悔し始めてさえいた。

 一歩、また一歩と、怯えながらも、落ち葉の絨毯の敷かれた森を慎重に歩く。マルトセルではないにせよ、念には念を入れて、声は出さないようにする。マルトセルのときにどんな場所を歩いたか、なるべく思い出そうと努力しながら歩を進める。


「(こっちのような気がするな)」


 ほとんど道なき道だったけど、曖昧な記憶と、自分の直感を頼りにして進んでいく。あの日はパニックに陥りながら森を走るうち、急に拓けた場所に出たと思ったら、そこから塔が見えていたはずだ。森が拓ける場所を探せば、もしかしたら……。

 森に入ってどれほど経過しただろうか。日も傾こうとしており、僕の焦りが募りだした頃、ふと、妙なことに気がついた。音が聞こえないのだ。

 さっきまで聞こえていたはずの、遠くで鳴く鳥のさえずりや、小動物の気配、木々の葉が風にこすれるような音が、一切聞こえなくなっていたのだ。

 不審に思い、僕が足を止めた、次の瞬間だった。


「――ここは魔女の森」


 どこかから声が聞こえ、心臓が破裂するほど驚き、僕は飛び上がった。周囲を伺うが、人の気配はない。声は僕の頭上から聞こえていた。


「この森を穢す愚者には死を与え、賢者には道を与えよう」


 女性の声――それは少女の声のようでも、しわがれた老婆の声のようでもあった。言葉の意味を理解するのに時間がかかった。そして死を与えるという不穏な響きに、膝が笑い、背筋が冷たくなった。やっぱり魔女は実在した。そして、僕はその恐ろしい魔女に見つかってしまったのだ!


「さて、貴様は愚者か、それとも賢者か?」


 森がざわめき、影が濃くなると同時に周囲が一段と暗くなった。さっきまで頭上にあった木々の枝葉がずいぶん高いところにあり、僕を閉じ込めているように感じられた。


「賢者……僕は賢者だ! だからお願い、殺さないで。僕はベゼット爺ちゃんを助けるため、塔に行きたいだけなんだ。だからお願い――」


 少し間が空いた。死刑宣告を待つような心持ちで、目に涙を浮かべたまま、僕は再び声が聞こえるのを待った。


「ではこのナゾ解いてみよ」

「え?」予想していなかった魔女の言葉に、一瞬、僕の気が抜ける。

「顔が白いのだーれ?」


 だけど、続いて聞こえてきた言葉の理解のできなさに、再び僕は恐怖に見舞われる。


「何だって? 顔が……白いの? それだけで、分かる訳ないよ」


 僕は悲鳴にも似た叫びを上げながら、森を掻き分けるように進んでいく。パニックを起こした僕の足は頻繁にもつれ、まだ歩けているのが不思議なくらいだった。

 ふと、気配がして、僕は足を止めて上空を見上げた。

 ――ぺちゃっ。


「……ひッ!」


 顔に何かが落下してきて、僕は慌てて手でそれを拭う。

 それは鳥のフンだった。手が真っ白に染まっている。


「きゃはははは、あなた、見事に、真っ白な顔になったわねぇ」


 まるで幼子のような笑い声に、ぞっとした。さらに魔女の声は続く。


「顔が赤くなるのだーれ?」


 魔女の声は、どこからか引き続き聞こえてきた。僕はさらに混乱する。


「こ、今度は何なのさ! 僕をここから出してよ!」


 あまりの恐怖に、僕の足取りは逆に慎重になっていた。周囲に目を向けるけど、新しい風景は見えてこず、魔女の声が聞こえてから、森の同じ場所を回っているような気さえした。

 焦りと恐怖心から、謎の答えを考えることも忘れ、周囲を警戒しながら歩いていると、不意に、頬に鋭い熱を感じた。


「痛ッ!」


 何かが頬に当たったように感じて、辺りの地面を確認すると、鋭くとがった枝が飛んできたようだった。再びてのひらで顔を拭うと、頬から真っ赤な血が垂れていた。


「今度は顔が真っ赤、真っ赤、きゃはははは」


 全身が粟立つのを感じた。このまま殺されるんじゃないか、そんな最悪な想像が脳裏をかすめていった。

 そんな、僕の想像に現実味を帯びさせる、魔女の声が、三度聞こえてくる。


「これから消えるだーれ?」


 頭が真っ白に染まった。考えるまでもなく、この謎と僕の状態はリンクしている。つまり、今度は僕がこれから消える?


「や、やめてくれ、僕をベゼットじいちゃんみたいに消すつもりか? ひょっとして、お前が塔にいた少女なのか?」


 僕は叫びながら、再び森の中を走り出すけど、返事はなかった。代わりに、こんな声が聞こえてくる。


「消えた後は、真っ暗闇」

「やめろ、やめろよ!」

「うふふ、これから消えるのだーれ?」


 僕はぎゅっと目を閉じた。がたがたと震えながら、引き伸ばされたような時間の中で、自分の存在が消えてしまうというのは、どういう気持ちなのだろうかと考えた。そこはきっと真っ暗で、上も下も右も左もなく、そんな寂しい場所で、誰も自分を思い出してくれず、誰からも名前を呼ばれないまま、漂い続けないといけないんだ。

 ごめんね、じいちゃん。僕が臆病で弱っちいせいで、じいちゃんをそこから連れ出してあげられなくて。でも、僕もすぐにそっちに行くから。

 僕は覚悟を決め、そのときを待った。


「faal(太陽)よ!」


 静寂を破る声が聞こえた。聞き覚えのある声の方へ顔を向けると、なぜか、森の中にナルミが立っていた。


「日の出のときは色が白く、やがて赤く染まり、消えてしまった後は真っ暗闇になる、ナゾの答えは太陽よ。さあ、魔女よ、隠れてないでその姿を現しなさい」


 周囲がさっと明るくなったような気がした。僕は何が起きているのか理解ができないまま、ただ呆然とすることしかできなかった。

 やがて、小さな舌打ちとともに、ハーディンの森に住む魔女が姿を現した。

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