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『単家の龍 ―徐庶元直伝―』  作者: 中島吾朗
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第七章 導かれし五つの星たち

星というものは、続けて流れてくるものらしい。


孔明が谷に来てからというもの、まるで呼び合うように、後の世に名を刻む若者たちが、次々とこの谷へ吸い寄せられてきた。——順に、語っていこう。


   *


とある日の夕暮れ。使いの帰り、徐庶は河原で、妙な男を見かけた。


石の上に胡座をかき、夕日に染まる川面を、じっと眺めている。竿もない。網もない。ただ、座って、見ている。


「……今日は、何か釣れましたかな」


からかい半分に声をかけると、男は振り向きもせず答えた。


「釣れたとも。——今日もこの辺り一帯、平穏無事。それが釣れた」


「ほほう」徐庶は面白くなって、隣の石に腰を下ろした。「そいつは大物だ。して、何を餌に」


「暇と、辛抱よ」男はにこりともしない。「……近頃、この上流の山裾に、黄巾崩れの野盗が巣くうておっての。里へ下りてこぬか、毎夕こうして眺めておる」


「眺めて、どうなさる。お一人では、何もできますまい」


「できぬな」男はあっさり認めた。認めてから、初めて徐庶の顔を見た。よく日に焼けた、目つきの落ち着いた男である。「だが元直どの——ああ、水鏡先生の塾の、朝の箒どのであろう。噂は聞いておる——できぬからと言うて、知らぬ存ぜぬを決め込んでよい理屈にはならん」


「……それは、まったく」


「見ておればな、分かることがある。奴らの数。炊煙の上がる刻限。物見の立つ岩。里に下りる時は、どの沢筋を使うか。——敵を知るは、兵法の初めの一歩。戦う日が来るなら、勝てる形で戦う。来ぬなら、それが一番よい。わしの釣りは、そういう釣りよ」


徐庶は、まじまじと男を見た。それから、正直に言った。


「……俺なら、殴り込んでますな。今夜あたり」


「だろうな」男は初めて、口の端で笑った。「お手前の噂は、そういう噂だ。……して、殴り込んで、勝てるか」


「勝てます」


「であろうな。して——明日は?」


徐庶は、詰まった。男は川面に目を戻した。


「頭目を叩けば、群れは散る。散った野盗は、三里先の里で、また群れる。お手前の拳は今夜の里を救うが、明日の里は救わん。……わしはな、元直どの。奴らが冬を越せずに山を下り、劉牧の帰農の触れに応じるまでの日数を、数えておるのだ。飢えて降りた賊は、田を与えれば百姓に戻る。一人も殴らず、一つの里も焼かせず、賊が消える——それが、わしの狙う上がりよ。気が長いがな」


夕日が、川に沈みかけていた。徐庶は、しばらく黙って、それから深々と頭を下げた。


「……参りました。俺の負けです。まだ名乗ってもいないのに」


「汝南の孟建、字は公威」男は腰を上げ、尻の埃を払った。「近々、水鏡先生の塾に厄介になる。……朝の掃除は、何刻からかな」


   *


その夜、徐庶は孟建に貰った川魚を提げて、塾への夜道を歩いていた。


——川辺に、火が見えた。


小さな焚き火を前に、男が一人、酒を呑んでいる。歳の頃は徐庶より幾つか上。身なりは着古しているが、着物の仕立てと、瓶子(へいし)を扱う手つきに、隠しようのない育ちが出ていた。男は火を見つめたまま、誰に言うでもなく、呟いた。


「——この世を肴(さかな)に呑むは、我が夢。然れど……今この世は、うまくない」


「……違いありませんな」


思わず、徐庶は応えていた。男が、ゆらりと顔を上げた。焚き火に照らされた目は、酔ってなお昏(くら)い。


「ほう。……おぬし、わしの戯言を、聞くと申すか」


「夜道の退屈しのぎには、上等の戯言かと」


「ぬかせ」男は嗤い、盃に注いだ酒を、一息に呑み干した。注いで、また呑む。肴は、ない。徐庶はしばし眺め、それから、提げていた川魚を火のそばに置いた。


「……空きっ腹の酒は、身を滅ぼしますぞ。よければ、肴に」


「む」男は魚を見た。よく肥えた、上等の川魚である。「……高かったのではないか、それは」


「貰い物です。それにね、御仁」徐庶は、火に枝を足しながら言った。「物はどれほど上等でも、食われねば腐る。腐れば土に帰るだけだ。……上等なまま地に帰るのと、誰かの腹で血肉になるのと——肴に生まれたからには、どちらが本望ですかね」


男の盃が、止まった。


火の爆ぜる音だけが、しばらく続いた。男は、魚を見て、徐庶を見て、それからもう一度、魚を見た。……酒肴の話をしているのではないと、気づかぬ男ではなかったのである。気づいて、気づかぬ振りを通せるほど、酔ってもいなかった。


「————よせ、よせ」


男は、降参のように片手を挙げた。


「わかった。わしが食う。……寄越せ」


「さようで」


徐庶は笑って、魚に串を打ち、火にかけた。脂の爆ぜる匂いが、夜の川辺に広がった。男は焼けた魚に齧りつき、齧りついたまま、上目に問うた。


「……名は」


「徐庶、字は元直。——天が我らに何を求めているのか、それを探しに、潁川から参りました」


「探しに、だと」男は魚を持ったまま、噴き出した。「あっはっは! 酔狂な奴め。天が人に求めるものなど、あるものか。天はな、若いの、何も求めておらん。求めておらんから、この世はこの様よ。……いや」


男は、笑いを収めた。収めて、盃の底の酒を、火に一滴、落とした。


「……否(いな)。酔狂は、われが一番か。うまくもない世を、肴にしたいなどと——まだ、思うておるのだからな」


「————」


「博陵の崔鈞。州平と呼ばれておる。……おい、元直とやら。その魚、もう半身あったろう。呑みながら聞け。うまくない世の話を、たっぷり聞かせてやる」


   *


それから、幾日かのちのことである。


その男は、塾の畑の切り株に座って、盛大に不貞腐れていた。


鍬は放り出され、畝は半分だけ耕され、当人は腕を組んで川を睨んでいる。新入りの塾生である。徐庶は苦笑して、放り出された鍬を拾い上げた。


「——どうなされた。畝が泣いてますぜ」


「つまらぬのだ」男は振り向きもしない。「学問をしに来て、なにゆえ我が魂を削って、田を耕さねばならん」


「そいつはうちの塾の流儀でね。飯は畑から出る、誰の顔色もついてない飯が——って、先生の受け売りだが」


「知っておるわ」男はようやく振り向いた。歳は徐庶より少し下か。目鼻立ちの実直そうな、しかし今は思い切り口を尖らせた顔である。「……何者だ、おぬし」


「徐庶。字は元直」


「おお」男の目が開いた。「噂の——朝の箒どのか。わしは向朗。字は巨達。宜城の生まれよ」


「地元のお人か。そいつは頼もしい」


「頼もしいものか」向朗は、また川へ顔を戻した。戻して、堰を切ったように言った。「元直どの。わしはな、田を耕すのが嫌なのではない。耕しても無駄なのが、嫌なのだ。うちは宜城で先祖代々、田を守ってきた家だ。わしは幼くして父母を亡くし、兄に育てられたが——兄の帳面を、毎年見てきた。いくら田畑を肥やそうと、いくら実ろうと、育った米麦は税でごっそり持っていかれる。劉牧の御代は他所よりましと言うがな、それでも、働けど働けど、楽にはならん。……先祖の土地を守り抜く前に、わしらの命運のほうが先に潰えるのではないかと、な」


徐庶は、黙って隣の切り株に腰を下ろした。潁川の、母の薄い粥を思い出していた。日に日に上がる納め物の話をした、あの囲炉裏の夜を。


「……分かりますよ。うちも、そうだった」


「であろう。……だがな、元直どの。わしは兄にこうも言われて育った。民が国に叛いて、栄えた国は無い、と。黄巾を見よ。あれで世は良うなったか。悪うなっただけだ。叛くは下策。されど、耐えるだけでは潰える。……ならばどうする、の先が、わしには分からん。分からんから、ここへ学びに来た。来てみれば、畑を耕せと言う。家でさんざん耕してきたのに、だ」


思わず、徐庶は噴き出した。向朗はむっとした顔をしたが、徐庶は笑いながら鍬を差し出した。


「……いや、失礼。巨達どの、あんたの言う通りだ。叛いても駄目、耐えても駄目。なら残る道は一つしかない。上が変わるしかない。民から税を搾る政から、民を肥やす政へ。……先生はそれを、民が民によって民を救う道、と言いなさる」


「聞いた。美しい理想だ。——だが元直どの」向朗は、鍬を受け取らず、まっすぐに徐庶を見た。「その理想を、まことに背負う主君なぞ、この世におるのか。わしはまだ、聞いたことがない。劉牧ですら、あの通りだ」


徐庶は、すぐには答えなかった。


答えの持ち合わせが、まだ無かったからである。あるのは、寺の夜明けに立てた誓いだけ——徐庶は鍬を、もう一度、今度は柄をこちらに向けて差し出した。


「……おらぬなら、探すまでです。俺は、そのためにここに居る。天下のどこかに必ず居るはずの、その誰かを探して——見つけたら、この身ごと差し出す。……巨達どの。探し物ってのはね、手を動かしてる奴の所にしか、転がり込んで来ないんだ。まずは、畝の続きからだ」


向朗は、差し出された鍬と、徐庶の顔を、交互に見た。見て、盛大に息を吐いて——立ち上がった。


「……口の減らぬ先輩だ」


「よく言われます」


その日から、畑の畝は二列ずつ延びるようになった。


——後年、この不貞腐れていた新入りは、蜀漢の太守として幾つもの郡を治め、田を守り、民を肥やす政を為すことになる。畑を耕すのが嫌だった男が、天下でいちばん畑を守る役人になったのだから、人というものは分からぬ。


いや——分かっていた男が、一人いたのかもしれぬがな。


   *


——さて、ここらで一度、北の空の話をしておこう。


徐庶が箒を握り、孔明が歌っていたその頃。二人の探し人は、天下のどこで何をしていたか、である。


男は、火の中にいた。


孔明が逃れてきたあの徐州の戦火——曹操が父の仇と称して攻め寄せ、城を屠り、民を殺めたあの戦である。徐州牧の陶謙が四方に救いを求めた時、名だたる群雄は誰も動かなかった。動けば曹操を敵に回す。算盤を弾けば、答えは「動かぬ」——ところが一人だけ、算盤の弾けぬ男がいた。平原からわずかの兵を率い、義弟二人を連れて、負け戦と知れた徐州へ駆けつけたのである。筵(むしろ)売りから身を起こした、劉備玄徳という男であった。


老いた陶謙は、この男に惚れ込んだ。惚れ込んで、あろうことか徐州をそっくり譲ると言い出した。劉備は断った。二度譲られ、二度断り、三度目に陶謙が死の床で懇願して、ようやく受けた——世に言う、三譲徐州である。欲で動く群雄どもの中で、州一つを三度断る男がいたと聞き、天下の民は耳を疑ったものよ。


されど、善き男の元には、厄介も転がり込む。曹操に敗れて流れてきた呂布——あの、天下無双の、義理も恩も知らずの男を、劉備は憐れんで城下に置いてやった。案の定である。劉備が袁術と戦っている隙に、呂布は留守の下邳を乗っ取った。帰る城を失った劉備は、怒りもせず、あべこべに呂布へ頭を下げて小沛の小城を借り受けた。義弟の張飛は歯噛みしたが、劉備は言ったそうな——城はまた建つ。民と兵を死なせては、それきりだ、と。


面白いのはその後よ。袁術が大軍で小沛を潰しに来た時、劉備を救ったのが、当の呂布であった。轅門に戟を立て、百五十歩の彼方から矢を放ち、見事その小枝を射抜いて——「天がこの和睦を望んでおる」と両軍を退かせたのである。城を奪った男が、命は救う。乱世というものは、まったく、筋書きの下手な芝居のようであった。


……徐庶よ、孔明よ。お前たちの探す男は、この頃、城を奪われ、小城を借り、それでも民を捨てずに歩いておった。持たぬ男よ。地も、城も、天下の名声も、まだ何一つ持たぬ。持っておったのは、義弟二人と、離れぬ民と——算盤より先に動く足、それだけよ。


されど、な。天が人に求めるものがあるとすれば、案外、それだけなのかもしれぬぞ。


   *


かくて、谷に若者が揃った。


潁川の徐庶と石韜。汝南の孟建。博陵の崔州平。宜城の向朗。——出は北から南までばらばら、家格は上から下までばらばら、性分に至っては、拳の男、堅実の男、算盤の男、酒の男、土の男と、見事なまでに揃わぬ五人であった。そこへ、背ばかり高い十四の小朋友が交じる。


揃わぬくせに、夜になると、なぜか一つ処に集まった。青菜の粥をすすり、焚き火を囲み、天下を論じては喧嘩をし、喧嘩をしては笑うた。……あの谷の夜空には、星がよう見えたものだ。


後の世、人はあの若者たちを「諸葛四友」と数えることになる。数え方は書物によってまちまちだがな——私に言わせれば、あれは四友でも六友でもない。


同じ夜空を見上げた、五つの星と、一つの月であった。

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