XIX. 【4-5】「丘の誓い」
数日後の夕暮れ。
指先で水面をなぞる。波紋が広がり、消える。その繰り返し。以前より術の精度は上がっている。けれど心は少しも落ち着かなかった。
不意に、家の前で足音が止まった。
顔を上げると、そこには長老ゼノスが立っていた。夕風に白髪を揺らしながら、静かな目でこちらを見ている。
何しに来たのかはわからない。追い払う気には、なれなかった。
「急ですまんな」
穏やかな声だった。背後では、父が静かに襖を開ける音が聞こえていた。
父はゼノスを中へと促し、それからこちらへ視線を向ける。
「フィオナ、入りなさい」
父の声に呼ばれ、立ち上がった。水盤の波紋はまだ揺れている。けれどそれを見ないまま、家の中へ入っていく。
居間には灯りが落とされていた。卓を囲むように、父と母、そしてゼノスが座っている。いつもならどこか温かかったはずの空間が、今日は妙に静かだった。
「座りなさい」
父に促され、空いた場所へ腰を下ろした。
風の音だけが微かに聞こえる。誰もすぐには口を開かない。
やがてゼノスが静かに茶器へ手を添え、穏やかな目を向けた。
「最近、よく書庫へ通っておるそうじゃな」
「……はい」
「外界の資料も随分読んでおる」
答えなかった。否定しても意味がない。
ゼノスはしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「お前はまだ、あの夜の中にいる」
肩が、わずかに強張る。
「苦しみから抜け出せず、立ち止まることもできず、ただ前へ進もうとしておる」
責める響きはない。けれどその落ち着いた声音が、逆に逃げ場をなくしていく。
「強くなりたいのであろう。真実を知りたいのであろう」
そこでゼノスの声から、それまでの穏やかさが消えた。
「だが、お前は憎しみに呑まれ始めておる」
喉の奥がひりついた。
言い返したかった。これは憎しみなんかじゃない、ただ二度と失いたくないだけだと。
けれど言葉にならない。自分でも気づいていたから。人間の資料を読むたび、頭の中で殺すことを考えてしまう。強くなればなるほど、優しかった頃の自分が遠ざかっていく。
それなのに止まれない。止まったら、また壊れそうで。
視線を落としたまま、小さく拳を握る。
「……じゃあ、どうすればいいの」
掠れた声だった。
「忘れろって言うの」
「違う」
ゼノスは即座に首を振った。
「忘れろとは言わん」
耳がぴくりと揺れる。
「失ったものを抱えて生きること自体は、悪ではない。だが今のお前は、その苦しみだけで世界を見ようとしておる」
ゼノスは俯くこちらを見つめ、静かに続けた。
「里の中だけでは、お前は止まれん」
その言葉が、重く落ちた。
「外を見よ。お前の知らぬ世界を知れ」
瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「……人間のいる世界を?」
ゼノスは頷いた。
「そうだ」
怖い。嫌いだ。今でも、人間という言葉を聞くだけで呼吸が浅くなる時がある。
けれど同時に、知りたいとも思ってしまう。なぜあの夜は起きたのか。本当に世界は、自分が見たものだけなのか。
「……リュミエール高等学院」
その名がゼノスの口から落ちた瞬間、視線が上がる。
「外界に存在する、多種族の学び舎じゃ。水記についても、お前がまだ知らぬ理論が多く残されておるはずじゃ」
指先が、小さく動く。知らない知識。未知の術。その響きは、今の自分には抗いがたかった。
「怖いか」
すぐには答えられなかった。やがて、小さく視線を伏せる。
「……怖い。でも」
そこで一度、言葉が止まる。恐怖を振り払うように、息を吸い込んだ。
「知りたい」
ゼノスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……多種族って、そこに、人間はいないの」
きっぱりと視線を上げる。
部屋の空気がほんのわずかに静まった。父は何も言わない。母も静かに目を伏せている。
その沈黙を挟んでから、ゼノスはゆっくり口を開いた。
「……いるとも」
耳がわずかに動く。
「外界は広い。人間の国もあれば、獣人種の領土もある。互いに距離を取りながら生きておる場所もあれば、争い続けている土地もある」
そこでゼノスは一度言葉を切った。
「ただし、全てを今ここで教えるつもりはない」
眉が寄る。
「どうして」
「知識には順序があるからじゃ。今のお前に半端な真実を渡せば、余計に視野を狭める」
部屋へ風が流れ込む。
「だからまず、自分の目で世界を見よ。その先で、お前自身が考えればよい」
部屋には静かな空気が残っていた。灯りの揺れる音と、障子を撫でる夜風だけが微かに響いている。
膝の上で拳を握ったまま、俯いていた。
里の外が怖い。人間も嫌いだ。許せる日なんて来る気がしない。
けれど、このまま閉じこもっていても、自分が変われないことも、もうどこかで気づいていた。
知りたい。強くなりたい。そして――止まりたくない。
膝の上の拳に、ぐっと力がこもる。
俯いていた顔をゆっくりと上げ、ゼノスの目を、真っ直ぐに見つめ返した。
しばらくの沈黙のあと、ゼノスはゆっくり目を閉じた。
「……よかろう。私が紹介状を書こう」
母が小さく息を呑む。父は何も言わない。ただその横顔には、覚悟を決めたような静けさがあった。
「学院長とは古い付き合いでな。昔、共に外界を歩いたことがある。お前を預けるなら、あやつしかおらん。無論、無理にとは言わん。決めるのは、お前自身じゃ」
すぐには答えられなかった。怖い。知らない場所。知らない世界。里の外。
それでも――。
自分の中で、何かが少しずつ動き始めているのを感じていた。
* * *
その夜、一人で丘へ向かった。
昼間のうちに摘んでおいた花束を、胸にそっと抱えている。
夜風が草を揺らしている。見慣れた道だった。何度も歩いた。何度も立ち止まった。それでも、いつも同じ場所へ辿り着く。
白い花が、ゆったりと揺れていた。
その前へしゃがみ込み、抱えていた花束をそっと置く。ここだけは、今でも時間が止まったままだ。
目を閉じれば思い出す。笑い声。ぬくもり。隣を歩く足音。風に揺れる銀色の髪。
全部、まだ消えていない。
夜空を見上げる。頬を撫でる風は、昔みたいに心地いいだけじゃなかった。痛みもある。苦しさも残ってる。それでも、この風だけは嫌いになれなかった。
しばらく黙ったまま、そこに座り込んでいた。やがて小さく息を吐いて、花へ視線を落とす。
「……行ってくる」
その声は風へ溶けるように、夜の中へ消えていった。




