表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/19

XIX. 【4-5】「丘の誓い」

 数日後の夕暮れ。

 指先で水面をなぞる。波紋が広がり、消える。その繰り返し。以前より術の精度は上がっている。けれど心は少しも落ち着かなかった。


 不意に、家の前で足音が止まった。

 顔を上げると、そこには長老ゼノスが立っていた。夕風に白髪を揺らしながら、静かな目でこちらを見ている。

 何しに来たのかはわからない。追い払う気には、なれなかった。


「急ですまんな」

 穏やかな声だった。背後では、父が静かに襖を開ける音が聞こえていた。

 父はゼノスを中へと促し、それからこちらへ視線を向ける。


「フィオナ、入りなさい」

 父の声に呼ばれ、立ち上がった。水盤の波紋はまだ揺れている。けれどそれを見ないまま、家の中へ入っていく。


 居間には灯りが落とされていた。卓を囲むように、父と母、そしてゼノスが座っている。いつもならどこか温かかったはずの空間が、今日は妙に静かだった。


「座りなさい」

 父に促され、空いた場所へ腰を下ろした。

 風の音だけが微かに聞こえる。誰もすぐには口を開かない。


 やがてゼノスが静かに茶器へ手を添え、穏やかな目を向けた。

「最近、よく書庫へ通っておるそうじゃな」


「……はい」


「外界の資料も随分読んでおる」


 答えなかった。否定しても意味がない。

 ゼノスはしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「お前はまだ、あの夜の中にいる」


 肩が、わずかに強張る。


「苦しみから抜け出せず、立ち止まることもできず、ただ前へ進もうとしておる」


 責める響きはない。けれどその落ち着いた声音が、逆に逃げ場をなくしていく。


「強くなりたいのであろう。真実を知りたいのであろう」


 そこでゼノスの声から、それまでの穏やかさが消えた。

「だが、お前は憎しみに呑まれ始めておる」


 喉の奥がひりついた。

 言い返したかった。これは憎しみなんかじゃない、ただ二度と失いたくないだけだと。

 けれど言葉にならない。自分でも気づいていたから。人間の資料を読むたび、頭の中で殺すことを考えてしまう。強くなればなるほど、優しかった頃の自分が遠ざかっていく。


 それなのに止まれない。止まったら、また壊れそうで。

 視線を落としたまま、小さく拳を握る。


「……じゃあ、どうすればいいの」

 掠れた声だった。

「忘れろって言うの」

「違う」

 ゼノスは即座に首を振った。

「忘れろとは言わん」

 耳がぴくりと揺れる。

「失ったものを抱えて生きること自体は、悪ではない。だが今のお前は、その苦しみだけで世界を見ようとしておる」


 ゼノスは俯くこちらを見つめ、静かに続けた。

「里の中だけでは、お前は止まれん」

 その言葉が、重く落ちた。


「外を見よ。お前の知らぬ世界を知れ」


 瞳が、ほんの少しだけ揺れる。


「……人間のいる世界を?」


 ゼノスは頷いた。

「そうだ」


 怖い。嫌いだ。今でも、人間という言葉を聞くだけで呼吸が浅くなる時がある。


 けれど同時に、知りたいとも思ってしまう。なぜあの夜は起きたのか。本当に世界は、自分が見たものだけなのか。


「……リュミエール高等学院」

 その名がゼノスの口から落ちた瞬間、視線が上がる。

「外界に存在する、多種族の学び舎じゃ。水記についても、お前がまだ知らぬ理論が多く残されておるはずじゃ」

 指先が、小さく動く。知らない知識。未知の術。その響きは、今の自分には抗いがたかった。


「怖いか」

 すぐには答えられなかった。やがて、小さく視線を伏せる。


「……怖い。でも」


 そこで一度、言葉が止まる。恐怖を振り払うように、息を吸い込んだ。


「知りたい」


 ゼノスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「……多種族って、そこに、人間はいないの」

 きっぱりと視線を上げる。

 部屋の空気がほんのわずかに静まった。父は何も言わない。母も静かに目を伏せている。


 その沈黙を挟んでから、ゼノスはゆっくり口を開いた。

「……いるとも」


 耳がわずかに動く。


「外界は広い。人間の国もあれば、獣人種の領土もある。互いに距離を取りながら生きておる場所もあれば、争い続けている土地もある」

 そこでゼノスは一度言葉を切った。


「ただし、全てを今ここで教えるつもりはない」


 眉が寄る。

「どうして」

「知識には順序があるからじゃ。今のお前に半端な真実を渡せば、余計に視野を狭める」

 部屋へ風が流れ込む。

「だからまず、自分の目で世界を見よ。その先で、お前自身が考えればよい」



 部屋には静かな空気が残っていた。灯りの揺れる音と、障子を撫でる夜風だけが微かに響いている。

 

 膝の上で拳を握ったまま、俯いていた。

 里の外が怖い。人間も嫌いだ。許せる日なんて来る気がしない。

 けれど、このまま閉じこもっていても、自分が変われないことも、もうどこかで気づいていた。


 知りたい。強くなりたい。そして――止まりたくない。

 膝の上の拳に、ぐっと力がこもる。

 俯いていた顔をゆっくりと上げ、ゼノスの目を、真っ直ぐに見つめ返した。


 しばらくの沈黙のあと、ゼノスはゆっくり目を閉じた。

「……よかろう。私が紹介状を書こう」

 母が小さく息を呑む。父は何も言わない。ただその横顔には、覚悟を決めたような静けさがあった。


「学院長とは古い付き合いでな。昔、共に外界を歩いたことがある。お前を預けるなら、あやつしかおらん。無論、無理にとは言わん。決めるのは、お前自身じゃ」


 すぐには答えられなかった。怖い。知らない場所。知らない世界。里の外。

 それでも――。

 自分の中で、何かが少しずつ動き始めているのを感じていた。


* * *


 その夜、一人で丘へ向かった。


 昼間のうちに摘んでおいた花束を、胸にそっと抱えている。

 夜風が草を揺らしている。見慣れた道だった。何度も歩いた。何度も立ち止まった。それでも、いつも同じ場所へ辿り着く。

 白い花が、ゆったりと揺れていた。

 その前へしゃがみ込み、抱えていた花束をそっと置く。ここだけは、今でも時間が止まったままだ。


 目を閉じれば思い出す。笑い声。ぬくもり。隣を歩く足音。風に揺れる銀色の髪。

 全部、まだ消えていない。

 夜空を見上げる。頬を撫でる風は、昔みたいに心地いいだけじゃなかった。痛みもある。苦しさも残ってる。それでも、この風だけは嫌いになれなかった。


 しばらく黙ったまま、そこに座り込んでいた。やがて小さく息を吐いて、花へ視線を落とす。


「……行ってくる」


 その声は風へ溶けるように、夜の中へ消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ