咲き誇る紅の思い、天才VS優等生⑥
「結局誰も報われなかった。私の選んだ選択は間違っていた」
紅は言った。掠れるような声で、顔を体育座りをしている膝の中に埋めながら。
声はこもっている。
まるで氷の壁一枚挟んで話しているようだ。
私には紅を氷の向こう側から連れ出すことはできない。私には紅を閉じ籠めている氷を溶かすことはできないし、氷を砕くこともできない。ただ氷に触れることしかできない。
私の手では何もできない。
どれだけ頭が良い私でも、どれだけ運動神経を鍛えたところで、紅を助け出すことはかなわない。
だから私には彼女を救い出すことはできない。
「バカ紅。今年の水泳大会には出てくれると思ったが、今年もやはり参加しなかったか」
その声を聞き、紅は驚いたように顔を上げて視線を向ける。
「どうしてあなたがここにいるのですか!?蒼先輩」
「当たり前だ。私はお前の恩師だぞ。恩師から会いに行くのは駄目か?」
蒼の視線は鋭く、紅へ突き刺さっていた。
かつて自分へ良くしてくれた先輩、そしてかけがえのない存在であった蒼先輩、そんな彼女から紅は遠ざかった。実質、逃げたのだ。
向き合うことが怖かったから、傷をつけるかもしれないことになってしまうから。
だから蒼から目を逸らした。現実から目を逸らした。
「バカ紅。勝負をしよう」
蒼は敵意をむき出しにし、紅へ静かで力強い声で言った。
その目には闘志がある。何年も前から燃え続けている蒼色の闘志が。
「決闘だ。私はお前に勝負を挑む」
「決闘……すまんがそれは受けられない。逃げた私に、その決闘を受けることはーー」
「ーーいいや、お前には受ける義務がある。」
その声は紅でも蒼でも、私でもない。
誰のでもないその声の正体を追うように、紅は周囲を見渡した。すると蒼の背後には何者かがいることが分かった。
「私は歌舞伎祭。これより行われる蒼青明と紅橙霞の決闘の審判を行う。さあ、決闘を始めようぜ」
彼女は腕を組み、自信満々の笑みでそう叫んだ。
妙に力強くカッコいいその声、男らしいたたずまいであるが、彼女は女性だ。いったいどこからそんなカッコいい声が出ているのだろうか、それは学校の七不思議のひとつにでも認定したいくらいだ。
歌舞伎祭の登場により、決闘は今一度行われようとしていた。
紅はそれを拒むが、歌舞伎は紅の拒否を拒否し、その拒否を紅は拒否する。それでも尚歌舞伎は拒否をし続け、それでも尚紅はそれを拒否する。
しばらくして紅は何も言わなくなり、静寂の後に紅は呟いた。
「ねえ文月……、私…………怖いよ……」
紅はさらに小さく丸まった。
「私は……どうすればいぃ……」
私に紅を救えるだろうか。
氷の壁は分厚く、触れた者すらも凍らせてしまうような絶対零度を纏っている。私なんかでは到底壊せないような、私なんかでは到底触れられないような……。
触れられない?私は恐れているのか。向き合うことが。
なんだ。私も怖いんじゃないか。向き合うことが。
向き合えないというのは、こんなにも複雑で苦しくて、悲しい気持ちなのだろうな。紅はずっとこんな気持ちを抱えていたのだろうか。こんな苦しい氷の中に、紅は一人で。
私は恐れている。紅と向き合うことが。
向き合って、ぶつかって、私はそれすらもできないのか。友達を救えないのかーーそんなの嫌だ。
私は、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、通称ナポレオン、そんな偉大な革命家兼皇帝兼軍人をも越える者になる。
ーー不可能、だと分かっていても、何もできないまま終わったとすれば、その人生に意味はあっただろうかーー意味などない。
私にとって、そんな人生に意味はないんだ。何もできないまま終わるのは嫌だ。これまで生かしてきた全てが無駄になるなんて、それでは自分が許せない。
友一人救えず、彼を越えることはできない。
私は越えるのだろう。彼をも。
向き合えなくて、いったい何が変えられるだろうか。だから私は向き合うのだ。彼女という存在を、かけがえのない友達を救うために。
それを望んでいなくても、私は紅の氷に触れるーー
「紅、」
「…………」
「私は紅が好きだよ」
「…………」
「向き合うことは確かに怖いさ。だから紅、私とともに行こう。怖くてもいい。人間は恐れる生き物だから。この手を掴んではくれないか」
私は紅へ向けて手を伸ばした。
ただの友達として、紅へこの手を伸ばした。
「文月……私はこんな奴だ。なのにどうして……」
「友達だから、かな」
「友達……そうか、そうだったな」
紅は顔を上げ、私を見た。
そして私の手にその手を重ね合わせた。
「ねえ文月。私は君を友達だと思っている。そして蒼は私の恩人だ。けど私は向き合うことが怖いんだ。だから私に勇気をください」
「ああ」
私は紅の手を握りしめた。
紅は立ち上がり、下にいる蒼を見た。一度足を下げた。それでも覚悟を決めたのか、紅は私の手を強く握りしめた。
「ありがとう。私には文月がいる。だから頑張れるよ」
紅は私の手を離し、飛び込み台の端まで足を運んだ。その先にあるのは深いプールだ。
「君に会えて良かった」
紅は倒れるように、飛び込み台から飛び降りた。数秒後、氷が砕けるような音とともに、水しぶきが周囲へと舞う。
私は飛び込み台の上からプールを見下ろす。そして言う。
「頑張れ。紅」
紅が飛び込んだことに、蒼と歌舞伎は驚いていた。
驚く二人の前に、紅は真っ直ぐと向かう。プールを歩き、プールサイドを歩き、そして蒼の前で止まる。
「蒼先輩」
「なんだ」
「逃げてしまってごめんなさい」
頭を下げた紅が頭を上げた瞬間、そのおでこ目掛けて蒼は指で弾く。
紅はすぐさまおでこを押さえた。
「本当はお前を殴ってやろうとでも思ったが、素直に謝ったからでこぴんで済ましてあげるよ」
「意地悪になりました。蒼先輩は」
「お前は少しだけ強くなったな。飛び込み台の上にいるあの少女のおかげか」
「はい。彼女は私の友達です」
紅は笑顔でそう言った。
「そうか。なら良かった」
蒼は急に準備運動を始め、終えると、紅へ言う。
「さあ、決闘を始めようか」
「望むところです」




