first
1
部活が終わって、汗でべたべたの体が気持ち悪くて一刻も早くシャワーを浴びたいと思いつつ、大友につき合って連れションしていた時のことだ。
夏休みもとっくに終わり、暦の上でも夏とは呼べない季節になったというのに、開け放たれた窓からはセミの鳴き声が聞こえた。夏を生き延びたとはいえ、その命は残り少ない。それでも、セミは自分の存在を世界に刻みつけるように、懸命に鳴いていた。そんなセンチメンタルな心情がセミにあるのか。そんなことはどうでもよくて、ただただ五月蠅かった。
打ちっぱなしのコンクリの壁は所々ひび割れていて、そのうちの一つを目で辿っていると、先にズボンのチャックをあげた大友が早くしろよと背中をこずいたので、思わず照準がそれて足にひっかかってしまった。
なにするんじゃと文句を言うと、大友はかかかと笑いながらトイレを出て行った。先に帰るなよと釘を刺しておいて、異常に長い水音に俺はいいかげん止まらんかなと、ちょっとうんざりしていた。ていうか、このまま止まらんのじゃねえかって不安になるほど、長かった。
三年に後片付けを押しつけられて、終わった頃には下校時間をとっくに過ぎていた。日もだいぶ傾いて、グランド隅のトイレは薄暗かった。大友がどうしても我慢できないと言うので仕方なく入ったが、古くて汚いこのトイレを利用する生徒はあまりいない。部活中に催した場合は限界まで我慢するか、いったん校舎まで戻るのが普通だ。立地の悪さもさることながら、お化けでも出そうな雰囲気だった。
お化けといえば、トイレの花子さんなんて怪談話があったなと、俺はふと思い出した。花子さんとはなにでなにをするのか、詳細はまるで覚えてないというか知らないけど、確か三番目のドアを五回ノックして花子さんと呼ぶとか、そんな話だった気がする。振り返ると、お約束通りドアは三つあった。ぞくっと、冷たいなにかが背中を走った。
いやいや、今時トイレの花子さんとかないやろと、一人突っ込む。俺はがっちりチャックを上げて、三つ並んだドアの一番奥の前に立った。それはなんの変哲もない、ただの汚いトイレだった。
こんこんと、軽くドアをノックしてみるが、返事はない。
もう一度、ノックする。
じっくりと耳を澄まして待ってみるが、やはり返事はない。
さらにもう一度、ノックする。
当然、返事はない。
「いや、そりゃそうだろ」
「なにが?」
「あひゃあ――――」
外から聞こえた大友の声に、俺はとんでもなく情けない悲鳴を上げた。
「どうかしたか?」
「ど、どうもしとらんわっ!」
心臓が、口から飛び出すかと思った。
「お前、いたのかよ?」
「いるに決まってんだろ。まだ終わんないの?」
「今終わった!」
「長過ぎだろ。病気なんじゃねえの」
「んなわけないだろ」
「早くしろよ。いいかげん、先に帰るぞ」
自分から誘っておきながらなんて言い草だ。ていうか、絶妙のタイミングで声を掛けやがって。めっちゃビビったわ。
八つ当たり気味にドアを蹴ったら、ガコンと、なにかスイッチでも入ったような音がした。
穴でも開いたのかと焦ったが壊れてはいないようで一安心するが、すぐにまた俺は不安に襲われる。
最初から臭い場所ではあったけど、そんな五感で感じとれるような不快感ではなかった。腹の底がむかむかして、急に寒くなった。息をするのが苦しくて、この場からさっさと立ち去ろうにも金縛りにあったように足は動かなかった。ゲシュタルト崩壊でも起こしたように、目の前の世界が曖昧になった。
どういうこっちゃこれはと、パニックになりかけた頭でただ一つわかっていたのは、すべての原因が目の前のドアにあるということだった。
ごくりと、生唾を飲み込む音が響く。
「ははっ――――」
思わず、笑ってしまった。いやもう、笑うしかない。高校生にもなって、学校の怪談なんかにビビっちゃってるんだから。足はまだ動かない。立っているのもやっとだ。これが花子さんの呪いなのだろうか。吐きそうなほどの緊張感。心臓は大きく脈打っている。体中の穴から汗が吹き出し、さっきあれだけ垂れ流した後なのに膀胱がギンギンと尿意を訴える。
「んなろっ!」
俺は両手でバシッと頬を叩いた。男子たるものお化けごときにビビっていられるかと、腰砕けになった下半身を必死で奮い立たせ、俺はドアをノックした。
これで、五回目。くるならこいや、花子さん。たとえ相手が小さな女の子であろうとも俺は容赦しねえからな。
震える心にはったりをかましまくって、蝶番が錆びて不吉に軋みをあげるドアを、俺はゆっくりと開けた。
2
朝からついていなかった。目覚ましが鳴っていることに気づかず寝坊してしまうし、おかげで寝癖を直していく暇もなかった。古文の授業では私の前の出席番号の子が休んでいたせいで当てられるし、答えは間違っていなかったのに意地の悪い教師は字が汚いとかねちねち文句を言う。ずっと手櫛で押さえているのに、相変わらず外側にはねた毛先は元に戻らない。早く帰ってシャワーを浴びたくて、ホームルームが終わってすぐに教室を出ていこうとしたら、里中さんに今日は委員会があると呼び止められた。
本日の議題は近々開催される文化祭についてだった。副委員長ではあるものの、里中さんのおまけでしかない私が意見を求められることはなく、自分から述べることもないので、会議が始まれば後は黙してじっと時計の針を見つめて、早く終われと切実に願うだけだった。
白熱した文化祭的論争は次回に持ち越しという益体ない結果に終わり、私は足早に会議室を後にした。昇降口までは里中さんと一緒だった。帰りにちょっと寄り道していかないかと誘われたけど、私はとにかく早く帰りたかったので用事があるからと適当に断った。里中さんは残念そうな顔を見せたが、とくに気にもしなかった。私がつれないのはいつものことだ。
それから、もうすぐ文化祭だとかクラス企画はどうするとか、里中さんは喋っていたけれど、私は相槌も打たずに無視した。
「あっ…………」
昇降口で下足に履き替えていると、ポケットに携帯電話がないことに気づいた。
「ケータイ忘れちゃった」
「えっ、ほんとに?」
「うん。今から取りに戻るわ」
「一緒に行くよ」
「いいよ。先に帰ってもらって」
「でも」
「大丈夫よ。それに結構遅くなっちゃったからね」
それでも里中さんは一緒に行くと言ったが、私はきっぱりと断った。
私と里中さんはそれほど親しいわけではないが、クラス委員の鏡である彼女はクラスで浮いた存在である私に色々と気を配ってくれた。だけど、その気遣いはいささかお節介過ぎる。私をクラス委員の相方に指名するとはいったいどういう意図があってか。
里中さんは目立つところはなにもないのだけど、とにかくいい人だった。彼女の善意には下心がまったく感じられず、困っている人がいたら見過ごすことができない人だった。別に私は困っているわけではないのだけど。
彼女のように、自ら苦労を抱え込んでしまうような人は、損をすることが多い。クラス委員をやっているのだって頼まれたら断れない彼女の性格を知って周りから押しつけられたようなものだし、加えて先日は文化祭実行委員にも推薦されて、私の世話なんてしている暇はないだろうに。
それでも彼女は嫌な顔一つせず、いつだって一生懸命だった。生まれついての性格なのだろうけど、真面目でお節介で苦労性。そんな風では早死にするんじゃないかと、それこそ余計なお世話だろうけど。それに、いい人の周りには自然と人が集まる。里中さんは誰からも好かれていた。輪の中心には彼女がいて、いつだって楽しそうだった。そんな彼女を苦手だと思う自分はきっと嫌なやつなのだと、そんな風に思ってしまうから、私は里中さんと一緒にいるのが嫌だった。
忘れ物はすぐに見つかった。私が座っていた机の上にぽつんと置いてあった。もしかしたら誰かに持っていかれてはしないかと心配していたけれど、学友たちは私が思っているほど意地の悪い人たちではないようだ。もっとも、忘れ物があってそれをそのまま放置しているというのも、ちょっと冷たいと思うけれど。
会議室には鍵がかかっていたので、私は職員室まで鍵を取りに行かなければならなかった。そして帰りにはまた鍵を返しに行かなければならず、何度も廊下を往復するはめになり、今日は極めついての厄日だと思った。だんだんと腹がたってきたのだけど、元はすべて自分のせいなのだから怒ったところでどこにもぶつけようがなかった。とにかく早く家に帰ろうと、そういえばもうシャワーを浴びたいなんてことは忘れてしまっていた。
会議室を出て階段を下りると、ちょうど踊り場の右が音楽室になっている。放課後でも音楽科の生徒が練習をしていたりするので、近くを通りかかれば教室から楽器の音色が漏れ聞こえてくるのだけど、今日は静かだった。練習が休みなのかもしれない。いつもならば足早に通り過ぎるところ、いつもとは違う静寂を保つ放課後の廊下で、私は足を止めた。
二つ並んだドアの片方には、第二音楽室とプレートがかかっている。ポケットに手を入れ、奥底に沈んでいる物を掬い上げる。むき出しのままのそれは無骨に見えて、冷たい鉄の感触が妙にリアルだった。私はそれを、ゆっくりと鍵穴に差し込んだ。
たぶん、これは気まぐれだ。この先にまたなにかアクシデントがあって足止めを食らうかもしれないし(たとえば職員室に鍵を返しに行ったら先生につかまって身に覚えのないことでお説教されるとか)、どうせなら自分から災いに飛び込んでやろうと、半ば自暴自棄に駆られた行動だった。
沈みかけた太陽がすべてをオレンジ色に染めゆくなか、我こそがこの部屋の主であると言わんばかりに、漆黒の鍵盤楽器は何人も近づけさせない荘厳さで空間を支配していた。それは神聖にして犯すべからずと、そんなことを思うのは私だけで、きっとただの勘違いなのだろうけど。ここにあるのは、調律もろくにされずこの二年間は誰にも触れられることもなかった、人の心を揺さぶるような名演をすることもなくただ鍵盤を叩かれて音を出し一時の楽しみを享受するためだけのどこの学校にでもある、大量生産されたアップライトピアノだ。
私は大きく深呼吸をして、硬直しきった体の隅々まで血液を循環させる。八十八ある鍵盤の一つにそっと触れると、ひんやりとした感触が指先から頭の先までかけていく。鳥肌が立ち、私は体を震わせる。目を閉じて、高鳴った心臓が落ち着くのを待つ。焦ることはない。ここには私とピアノしかないのだから。
目を開けると、白と黒の羅列に目が眩んだ。まだ、ダメなのかしら。そんな思いを打ち消すように、私は鍵盤を叩いた。
3
目が覚めたら、俺はグラウンドのど真ん中にぶっ倒れていた。前後の記憶が曖昧で、自分がなにをしてどうしてここにいるのかわからなかった。半ば無意識のまま体を起こしながら、ああそういや三年に後片付けを押しつけられてヘトヘトになってさっさと帰りたいのに心優しい俺は大友につき合って用を足していたらトイレの花子さんとか思い出してと、そこで氷水にダイブしたように鳥肌がたった。
冗談半分、最後はやけっぱちだったけど、確かにそこにはなにかがいた。なにかとはなにかわからないので、わからないものを説明できるわけもないが、確かにいた。うろ覚えの記憶の中で、そのことだけははっきりと脳に焼きついている。目を瞑れば再びそいつが現れて俺の精神を破壊しつくしてしまうのではという、鮮明過ぎる恐怖が今も体を支配していた。消し去りたくても消えてくれない。忘れたくても忘れられない。決定的で致命的な記憶だった。
しかし、さしあたってそのなにかについて考える必要はなさそうだった。たとえば、それがトイレの花子さんとか人外の存在だったとして、俺にどうしろっていうのだ。今日まで幽霊とか怪異とか妖怪とか超常現象とかそういった胡散臭い怪談街談奇々怪々のたぐいは信じてこなかったし興味がなかった。ていうか、正直な話、めっちゃ怖いので目を逸らしてきた。
そんなことはひとまず置いといて、今俺が考えなければならないことはこの後どうするか、ということだ。現状を把握して、結局なにが自分の身に起きたのかわからないということがわかっただけで、そんなことを再認識したところで意味などない。それでも、最初から一つだけ、確信していることがあった。
俺はトイレにいたはずが、気がつけばグラウンドにぶっ倒れていた。しかし、今俺が立っているグラウンドは俺の知っているグラウンドではない。目の前に見える校舎もいつのまにか真っ暗になっている空も星も月もないのになぜか明るいこの空間もすべてが俺の知らないものだった。
ここは俺の知っている世界ではない。
「ここは俺の知っている世界ではない」
グランドのど真ん中に突っ立って、俺はキメ顔で言ってみた。言ってみて、めちゃくちゃバカっぽく聞こえた。当たり前だ。なにを恥ずかしいことを言ってるんだ。まるでバカみたいだ。みたいというか、バカ丸出しだ。ていうか、キメ顔ってなんだ。
恥ずかしさに任せて自分に突っ込みを入れまくり、ようやく俺は落ち着きを取り戻す。ここが俺の知る世界ではないことは厳然たる事実として理解できていたが、それを言葉にしてしまうと滑稽なほど嘘くさかった。
ここがどこかはわからないが、少なくとも俺の知っている世界、俺がいていい世界ではない。俺は招かれざる客なのだ。世界がそう言っている。体でそれを感じることができる。俺を異物であると、俺がここにいることが不快だと、はっきりとした意思を持って世界が訴えていた。
「そんなこと言われても、ねえ」
真っ暗な、押しつぶされそうなほど重たい空を見上げて、俺はぼやく。まるっきりバカの恰好である。なにも俺だって好きでここにきたわけではないし、むしろ今すぐにでも帰りたい。
それじゃあ、どうやったら帰れるのだろうか。どうして俺はここにいるのかと考えて、すぐに花子さんに思い当った。というか、最初からそれしか原因は考えられなかった。だったらもう一度、あの汚いトイレで花子さんを呼び出したら帰れるのかもしれないが、そんなことは無理だった。
もう一度あれを呼び出すとか、できるわけない。こんな薄ら寒いお化けがでそうな世界で自分からお化けを呼び出すとか、俺が魔王を倒した伝説の勇者だとしても無理だ。こうしてなにごともないように己の身に起きた摩訶不思議な事態を語る俺だが、本当は怖くて怖くて怖くてたまらない。なにせ相手が教えてくれるのだから、自分の置かれている状況がわからず慌てふためくようなことはない。それでも、怖いことにはかわりなかった。
目の前の校舎を眺めてみると、その外観は俺の知っている校舎と何一つ違わない。まあ、窓ガラスが一個増えていたり、一階分増築されていたりしても、気づけるかどうか自信はないけど。いっそのこと、そうであったらよかった。なにからなにまで同じなのに、それは俺が知っている校舎とは全く違うのだ。高校に入学してから今日までほぼ毎日通い続けた、酸いも甘いも詰まった校舎と同じでありながら、違うのだ。
俺はこの世界では過去も未来もない、誰も知らない誰にも知られていない存在なのだ。怖いと、俺は強烈に思った。このままずっと一人でこの世界に存在し続けることがとてつもなく怖かった。誰かいないのか、と俺は叫びたかった。だけど、言葉にした途端その願いは薄い紙のようにずたずたに引き裂かれてしまいそうだった。
だから、俺は強く祈った。誰でもいい、誰でもいいから、誰かいてくれ。俺の祈りに応えるように耳に届いた音色は、天使が地上に舞い降りる際に伴う福音に聞こえた。
4
久しぶりに触れる鍵盤はとても重たかった。乗せた人差し指にぐっと力を込めて、一つ目の音を響かせる。静まり返った音楽室に少しかすんだドが響く。次は中指でレを叩く。薬指でミ。小指でファ、ソ、ラ、シ。そこまでだった。ドまで伸ばした小指は届かなかった。途中で腱がつりそうになって私は手を引っ込めた。久しぶりなのだから仕方がないと、自分に言い訳をする。そんなことをしても誤魔化せるはずもないのに。
私は泣きたくなるほど怒っていた。悔しかった。そのすべてをぶつけるように、鍵盤をたたいた。あんなに一生懸命頑張っていたのに、たった二年で私は以前の私ではなくなってしまった。私が十五年間すべてを捧げたピアノを、私はもう弾くことができなくなってしまった。悲しくて悲しくて悲しくて、たまらなかった。
思いつく限りに鍵盤を叩き続け、どれほど時間がたったのかわからないけれど、気がつけば窓の外は暗くなっていた。指先がしびれて、肘がつってしまい、とうとう私の腕は動かなくなった。
「ちくしょう」
こんな汚い言葉を言ってしまう自分が、大嫌いだ。
「くそったれ」
どうして私がこんな惨めな思いをしなければならないんだ。いったい私がなにをしたというんだ。どいつもこいつも私の邪魔ばかりする。私はただピアノを弾ければそれだけでよかったのに。
不満をぶちまけて、誰かのせいにしても、結局は全部言い訳だってことはわかっている。最後にピアノを拒絶したのは私自身だと、私自身が一番よく理解している。だけど、私は認めたくなかった。もう昔のようにピアノを弾くことができないなんて、そんなことは絶対に認めたくなかった。
泣くことができたら、どんなによかっただろう。一人で泣くなんて、そんなの嫌だ。寂しい。誰かそばにいてほしい。
頬を伝う一筋の涙に引っ張られ、堤防が決壊した。ただ誰かがそばにいてくれたら、私はそれだけでいい。だから、現れた彼を白馬に乗った王子様だと思ってしまったのは、私の高ぶった感情が見せた幻想だ。この時のことを、私は一生忘れない。忘れたくても、忘れられない。
5
目が合って、俺は泣いているのかと思った。次第に赤く染まっていく彼女の顔を見て、いや怒ってるんじゃねえかと思った。
「聞いていたの?」
ヒステリックに怒鳴られて、俺はとっさに首を横にふった。
「聞いていたのね?」
「まあその……」
睨まれて、俺は曖昧に頷いた。今にも彼女の怒りが爆発するんじゃないかと戦々恐々だった。
「めっちゃうまいんだな、ピアノ」
とっさに口にした言葉はその場しのぎではなく、正直な気持ちだった。
泣いているのか怒っているのかわからない彼女の瞳から一筋の涙がこぼれた。その涙を俺はただ見ているしかなかった。どうしていいのかわからず、涙をぬぐってあげることもできず、ただ、ああ俺はとんでもない失敗をしてしまったんだと、たいして後悔するわけでもなく思った。
屈辱に耐えるように彼女は唇をかみ、俺の横を通り過ぎた。
「どこ行くんだよ?」
とっさの問いかけに、彼女は答えなかった。
「ごめん」
そう言いながら、なにがごめんなのか俺はわからなかった。ただこの場を丸く収めようとして、心にもない謝罪をして、それでまた彼女を泣かせてしまった。
「ごめん」
二度目の謝罪は己の不誠実さに対してだ。だけど、それすら彼女の癇に障るだろう。謝るくらいなら、最初から謝るな。去っていく彼女を止めるすべはなかった。
今更ながら後悔の念にさいなまれる俺だったが、急に彼女は立ち止まるとくるりと方向転換した。表情から感情を読み取ることができず、俺はとっさに判断がつかなかった。しかしどちらにせよ、彼女が取った行動を予想することなどできるわけがなかった。俺の思考が再び動き出したのは、思いきり頬を引っぱたかれた後だった。
「な、なにを……」
やっとひねり出したのが、こんな間抜けな台詞だった。
呆然とする俺に氷のような一瞥を浴びせ、彼女は背中をむけた。
マジで意味がわからなかった。こっちは謝っただろうが。ていうか、俺がなにをしたんだ。勝手に怒って勝手に泣いて、それでなんで俺がビンタされなきゃならんのだ。意味わかんねえ。情緒不安定なメンヘラ女かよと、思い切り怒りをぶつけてやることができたらどんなによかったか。沸々と湧き上がってくる感情は怒りとは程遠いものだった。
「ちょっと待てよ」
廊下の端まで響く大声だったのに、無視された。なんて面倒くさい女だ。
「待ってって言ってんだろ」
肩を掴んで無理やりこっちをむかせると、彼女は力いっぱい俺を睨んだ。だけど、そんなの全然怖くない。彼女が怒っているのか泣いているのか、俺にはわからなかった。そりゃそうだろう。彼女自身が自分の感情を抑えきれず、図りかねていた。
「どこ行くんだよ?」
「帰るのよ」
「帰るって、どこに?」
「自分の家に決まってるでしょ」
「いや、だってお前……」
どうも話が噛みあわない。ひょっとして、彼女は気がついていないのではないか。
「一つ聞くけどさ」
俺の言葉なんかに聞く耳は持たないという彼女に、核心に触れる質問をぶつける。
「ここがどこだがわるの?」
言葉にするとあまりにもバカらし過ぎて、その時ばかりは彼女も抵抗することを忘れて俺を見返していた。
「ここから帰れるのか、お前は」
「なにを言ってるの?」
彼女はようやく異変に気づいた。俺の頭の調子を疑うように細めていた目が大きくなり、きょろきょろと辺りを見回した。
「どういうことよ」
そう言って、彼女は青ざめた顔を俺にむけた。
肩にあった手を払いのけると、ふらふらと窓に近づいていき、ごつんと額をぶつけた。そこから見える景色は普段となにも変わらない、こんなことにでもならない限り目をむけることもなかっただろう退屈な景色だ。
「ここはどこなのよ!」
彼女はただの迷子だった。知らない街で一人ぼっちになってしまい、不安に体を震わせる、無力でちっぽけな少女だった。
6
朝から嫌なことの連続で、これ以上悪いことは起こらないと思っていた。だからこの二年間触れることも近寄ることさえもしなかったピアノを弾こうだなんて思ったのだ。結果、私は惨めな敗北感に打ちひしがれることになり、おまけに弾いているところを見られてしまって、我を忘れて泣いているのやら怒っているのやら自分でも訳がわからなくなって、あげく音楽室を飛び出したらここがどこなのかわからなかった。
「いったいここはどこなのよ」
何度目になるかわからない私の問いに、彼は申し訳なさそうに頭を振った。
「俺も目が覚めたらいつのまにかここにいたんだ。なにがなんだかさっぱりわからん」
「なんでここにいるのよ?」
「いや、だからわかんないって――――」
「そうじゃないわよ」
彼は要領を得ない顔で私を見ていた。
「どうして、ここにきたのよ?」
「それはピアノの音が聞こえて」
彼はぼそぼそと言い訳するように答えた。
「誰かいるのかなって思って」
「盗み聞きなんて趣味が悪いわね」
「そういうわけじゃ――――」
「うるさい!」
それ以上、聞きたくなかった。
こんなのただの言いがかりで、八つ当たりで、彼が悪くないことなんてわかっている。だけど、やっぱり聞かれていたのだ。
あんな拙い、へたくそな、恨みのこもった、最悪なピアノを聞かれてしまった。あれは本当の私じゃない。だけど今の私には聞かれたくもないピアノしか弾くことができなかった。悲しくて、恥ずかしくて、本当にどうして私ばかりこんな目にあわなければならないのだろう。
「ちくしょう」
一度切れてしまった糸は元には戻らなかった。もう弱音なんてはかないと決めていたのに、私は廊下に座り込んで膝を抱えたまま立ち上がることができなかった。現実から切り離されて、時間が止まってしまったような世界で、本当に時間が止まってしまったようだった。
「とりあえずさ」
私が立ち上がると、彼は言った。
「じっとしててもしょうがないし、ほかに誰かいないかさがしにいこうぜ」
返事をしようとしたけれど、言葉が喉に引っかかって出てこなかった。私はうなずき、そのまま顔をふせた。恥ずかしくて、とてもじゃないが彼の顔なんて見られなかった。
7
学校には校舎が三つあり、昇降口のある一番デカい校舎が本校舎と呼ばれ、そこを中心に東側に位置するのが新校舎で主に職員室と一年から三年の教室が入っている。そして西側に位置するのが旧校舎――――通称部室棟。元々は美術室や家庭科室とか普段は使わない教室があったらしいのだが、校舎を増築する時に全部本校舎に移してしまったので、今では文化系の部室として使われるようになり、さっき言った通称で呼ばれるようになった。
建てられて十年も経たない新校舎に比べると、部室棟は老朽化が目立った。教室のドアを開けるたびに蝶番は軋み、二階のトイレのタイルは割れていた。誰もいないし、空気はひんやりとしているし、どうにも居心地がわるかった。
「なんか、お化けでも出そうだな」
すでにお化けじみた状況にありながらお化けを怖がるなど滑稽だった。
「雰囲気にのまれてるだけじゃないの。いつも使ってる人だっているんだし」
「そりゃそうだけどな」
陸上部である俺は文化系の部とは縁はないが、部室があるってことはそこを使う部員がいるわけだし、掃除とかもしてるだろうから、俺が今感じているまるでここは廃校舎みたいだなというのは単純に雰囲気にのまれているだけなのかもしれない。いやいや、べつに怖がっちゃいないよ。
「普段はめったに使わないからな」
「そうなの?」
「ああ。選択教科は美術だし。そっちはどうなの?」
「私は音楽選択だから」
「そっか」
ふと、思ったことがそのまま言葉になる。
「音楽選択だったのか」
「うん」
独り言のようなものだったが、返事があって俺は困った。
「どうかしたの?」
「いや…………」
てっきり、音楽科なのかと思った。だけど、たぶんそれを言ったらまた怒るだろうから、俺は言わなかった。出会って一時間にも満たないが、どうやら彼女にとって音楽はNGワードのようだと俺は察した。ただ嫌いとかいうわけでもなさそうで、なにか複雑に絡み合った因縁めいたものがあるのかもしれない。
俺は極力音楽という言葉には触れないようにして、そのうえで道中が気まずくならないように他愛ない会話を続けた。会話といってもほぼ一方的に俺が喋って、それに彼女が薄い反応を返すだけなのだが、それでも最初に比べたら彼女からだいぶ棘が抜けたような気がした。だからこれは俺の不注意というか、正直楽しかったのだ。肝試しみたいな雰囲気の中で、彼女と一緒に話をしていて、舞い上がっていた。だから、思わずぽろっと口が滑った。
「そういやさ、なんでうちの学校には音楽室が三つもあるんだろうな」
言ってしまって、しまったと思った。思っただけならまだしも、表情にも出てしまった。とっさに俺は身構えたが、予想していた烈火のごとく激しい罵詈雑言と眼光は飛んでこなかった。
「音楽科があるからでしょ」
さっきと変わらず、彼女は感情の起伏のない声で言った。それはなにも変わっていないようで、それでいてなにか隠しているような気がした。
彼女について俺が知っていること。それは、音楽について触れてほしくないということ。よく泣くということ。そして、強がりだということ。
これ以上この話を続けるべきではないと思ったが、逆にそうすることが彼女の自尊心を傷つけるのではとも思った。どっちにしろ、このまま話を終わらせてそこから続く沈黙には俺が耐えられそうにないので、きっと彼女も俺に警戒心を解いてくれたのだろうと都合よく解釈し、あわよくば彼女が抱えるトラウマについてもなにか聞くことができればと厚かましくも考えていた。
「まあそうなんだろうけどさ。それなら二つでよくねえか」
三つある音楽室のうち、部室棟にある第一音楽室は選択授業で使ったり吹奏楽部が活動拠点にしている。本校舎にある第三音楽室は主に音楽科の生徒が授業で使ったりコンクール前に練習したりする。そしてその隣に並んであるのが、第二音楽室だ。授業で使われることもなく、かといって部活や練習で使われることもない、常に鍵がかかっている開かずの音楽室だった。
「第二のほうを一般科のやつらに使わせればいいのにな」
音楽の授業のたびに新校舎と旧校舎を行ったり来たりするのは面倒だろう。これまで音楽室という場所に縁がなかったのでまるで気にしたことはなかったが、どう考えてもおかしい。
「そういうわけにもいかないのよ」
そう言って、彼女は意味ありげに微笑んだ。それはとても、不吉に見えた。
彼女はある卒業生の話をしてくれた。五年ほど前に校舎を建て替える際、とある著名な音楽家にして次年度に入学予定の生徒の父から多額の寄付金があったという。そしてその父は娘のために専用の音楽室を作ってくれと学校にお願いしたのだそうだ。もちろん言葉そのままに直接お願いしたわけではないだろうけど、結果として当初は本校舎に二つある音楽室をそれぞれ音楽科と一般科に振り分ける予定を旧校舎の音楽室をそのまま一般科用に使用することにして、第二音楽室なる空白の教室を無理やり作り出した。
「そうして格別の待遇で入学した娘は三年間まともに授業にでることもなく、自分専用の音楽室で好きにピアノを弾いて、卒業していった。それで今は使われなくなった音楽室が残ったってわけ」
「いや、それってめちゃくちゃ職権乱用じゃねえかよ」
「職権ではないけどね」
親切に突っ込みを入れてくれる彼女の声はとても冷たかった。
「だいたいさ、ろくに授業も受けないでよく卒業できたな」
「そこらへんは特例措置なんでしょうね。推薦で入学してるから結果さえ残せば文句は言われなかったんじゃないかしら」
事情ぐらいは俺にもわかる。大友なんかも陸上部に推薦で入ってきたのだが、赤点ばかりとっていてもどうにか進級できている。それにしてもまあ、ちょっと滅茶苦茶な話だった。
「ありえねえな」
「私立の学校だしね。融通は利くんじゃないの」
「融通ってレベルじゃないだろ」
「そうね。ありえないわよね」
そう言って、彼女は笑った。乾ききった笑い声は、いつまでも俺の耳に残った。
「しかまあ、その娘ってのもある意味すげえよな。親にそこまでされたら引くだろ、普通」
「普通じゃなかったんじゃないの。たぶん、その人はピアノさえ弾ければよかったのよ」
「そんなもんかね」
「そんなものよ。本物の芸術家は生まれた時から芸術家で、芸術家としての生き方しかできないのよ」
ずいぶんと含蓄のある言葉だった。語る彼女の表情はますます冷たく張りつめていた。
「たいしたもんだね。一度会ってみたかったな」
「会ったことはないだろうけど、見たことはあると思うわよ」
「えっ?」
「矢部綾子」
その名前を聞いても、すぐにはピンとこなかった。
「知らないかな。テレビとか新聞にも出てたんだけど」
そう言われて、ようやく俺は思い出した。
矢部綾子――三年ほど前に権威ある国際音楽コンクールで優勝を果たしたピアニスト。日本人初の快挙、その美しい容姿もあいまって一躍時の人となった。現在は海外を活動拠点にしているらしいが、近々凱旋公演のため帰国するとかでまた話題になっていた。
「あの人、うちの卒業生だったんだ」
「そうだよ。知らなかったの?」
「そういえば学校取材とか来てたな」
「当時は問題児で有名だったらしいけどね。まあ、学校としては卒業してしまえばそんなことは関係ないんでしょ。むしろわが校から世界に羽ばたくスターを送り出したって鼻高々なんじゃないかしら」
わざとそうしているのか、彼女の声はさっきよりもぐっと感情をおさえたものだった。そのせいで隠そうとしている苛立ちがより鮮明となって浮き上がった。
「さっきの話の続きだけど」
そう言って、彼女は話しを続ける。
「使われなくなった音楽室だけどね。本当は次に使う人が決まっていたのよ。矢部彩子には妹がいて、その妹が入学したら第二音楽室を受け継ぐはずだったの」
彼女は頼みもしないのにペラペラと話し続ける。
「だけどその妹は姉ほどに才能がなくて、高校に入る前にピアノをやめてしまったの。高校に入ってから彼女は一度もピアノに触れることはなく、学校としても対処に困りながらもどうにもできずにいて、結果第二音楽室は誰にも使われない開かずの教室になったというわけ」
語り終えた彼女はすっきりとした表情をしていた。だけどそれはすべてを吐き出して楽になったという満足感ではなく、すべてをあきらめてしまった悲壮感に見えた。
「どうしてそんなことを知っているかって?」
彼女は微笑んだ。口元にうかぶ笑みはとてつもなく酷薄だった。
「私がその妹だからよ」
8
彼はとても驚いていた。というより、理解できないでいた。そりゃそうだろう。ついさっき会ったばかりの人間からいきなり身の上話を聞かされたって、なんて言ったらいいのかわからない。今の状況を考えれば、私のしていることは本当にただ無駄なことでしかない。
これは言い訳なのだ。泣いたりわめいたり怒ったりしたのはちょっと感傷的になっていただけで、私は彼に自分が情緒不安定なヒステリー女だと思われたくなかった。
「矢部桃子」
「えっ?」
「自己紹介がまだだったわよね」
「あ、ああ」
彼は相変わらず困惑した表情で、私の名前がちゃんと聞こえてるのか疑問だった。
「さ、お話はこれぐらいにして先に進みましょう」
話すだけ話しておいて、私は一方的に会話を終わらせた。
誰かいるなんて甘い希望はとうに捨て去ったけど、私たちは各教室を見て回った。時間の感覚はなく、そもそもそんな概念がこの世界に存在するのかもわからなかったけど、外はまるで今にも雨が降りそうな陰鬱な雰囲気だった。長く続く廊下を歩いていると、リノリウムに靴がこすれる音だけが響いた。
さっきまで、あれほど饒舌に喋り倒していたのに、彼はすっかり口を閉ざしてしまった。うすうす感づいていたのだけど、一見頼もしくて怖いもの知らずのようにみえて、彼はびびっていた。この期に及んでお化けの心配をしたり、教室のドアを開けるたびに生唾を飲み込んだり、私の身の上話に何と答えていいか悩み、たぶん根っからの怖がりなんだろう。
まったくと、私は心の中でため息をついた。一瞬でも、彼に期待してしまった自分がばからしく思えた。彼はただ女の子の前でいい恰好しようとして強がってるだけで、その実怖くて足は震えてるチキン野郎だ。
そう思って、私はまたため息をついた。それでも、彼が私を助けてくれた。一人でいることに耐えられない私の前に、彼は現れた。ただそばにいてくれるだけで、十分だった。
べらべらと彼が喋っていたのだって私を気遣ってのことだ。しかも私が音楽について触れられてほしくないと気づいている。いつだって、彼は私のことを一番に考えてくれていた。彼はとても、優しい人だ。
「あのさ」
文芸部室の探索を終えたところで、久しぶりに彼は口を開いた。
「本当にもうピアノ、やめちまったのか?」
彼はビビりで怖がりだけど、誠実だった。どうして私が泣いていたのか、彼は知りたがっていた。それを知ってどうすることができるわけもないのに、どうにかしたいと思っていた。その厚かましいお節介は鬱陶しくて、とても嬉しかった。
私は彼に感謝しているのだ。だから自分の過去を話した。すべてを語るつもりはない。ただ私が泣いていた理由をそれとなく察してほしかった。それで満足してほしかった。
同時に、私の心の内を知ろうとする彼に、私は自分から内面をさらけ出すことでこれ以上は不可侵だと警告していた。それがわかっていながら、彼は構わず私の心に侵入してきた。
「めちゃくちゃ上手かったじゃん」
「あなたにピアノの上手い下手がわかるのかしら」
嫌になるくらい、冷たくて嫌味な言い方だった。
彼はむうっと口ごもり、ちょっと悲しそうな顔をした。
私の心はチクチクと痛み、目をそらした。
「ピアノなんて鍵盤を叩けば誰にだって音はだせるのよ」
「そんなことないよ」
「楽譜通りに弾くことなんて誰にだってできるのよ」
こんなことを言うつもりはなかった。適当に受け流して、話を終わらせればよかった。そうするつもりだった。それなのに、私の口からは次から次へと不平不満が出てきた。私の心の中にある、汚い言葉があふれてくる。絶対に、彼には言いたくないと思っているのに、止めることができなかった。
「私だってね、自分が上手いって自覚くらいある。才能だってあると思うわよ」
自惚れじゃない。私には才能があったし、努力もした。それは結果として実を結んでいた。
「だけどね、私よりも才能があって、ピアノが上手い人なんて、いくらでもいるのよ」
「だからってやめることはないだろ」
「どうしてよ?」
「そのぐらいのことで――――」
「そのぐらいなんて言わないで」
思わず、大声で叫んでしまう。
「あなたになにがわかるの?」
私は、ずっとピアノだけを弾いていられればそれでよかった。高名なピアニストになりたいわけでも、大観衆の前で演奏したいとも思わなかった。ただピアノが弾ければそれでよかったのだ。それが私の夢だった。だけどそんな夢は無価値だって、あきらめろって言われた私の気持ちが彼にわかるわけがない。どんなに願ってもかなえられない私の夢をすぐそばでいとも簡単にかなえてしまって、しかもそれがその人にとっては歯牙にもかけることではない、その時の私の気持ちが彼なんかにわかってたまるか。
「ごめん」
彼はとても悲しそうな顔をしていた。泣いているのかと思った。だけど、違った。泣いていたのは私のほうだった。
「いやだ…………」
私は背をむけて、ごしごしと目をこする。ぬぐってもぬぐっても、涙は止まらなかった。
「あなたのせいだからね」
「ごめん」
「なんで謝るのよ」
「俺のせいだって」
「そんなわけないでしょ」
こんなの全部八つ当たりだ。彼はたまたま私のそばにいただけで、なにも悪くない。いや、悪くないわけはない。私を泣かせてしまうほど、彼はお節介だった。
「ごめん」
彼はまた謝った。
「なにも言わないで」
泣くものかと我慢していたけど、涙を見せてしまった以上もう我慢する必要もなくなった。そして、泣いてしまえば意外にもすっきりした。
「ごめんなさい」
ひとしきり泣いて、私は謝った。
きっと目も鼻も真っ赤で、酷い顔をしているのだろう。
「もう大丈夫だから」
私が泣いている間、彼はなにも言わなかった。樹木のようにそこに立ち、私を見つめていた。彼がなにを思っているのかと、私は想像した。きっと痛い子だと思われているのだろう。それはとても嫌だったけど、本当に私はただの痛い子でしかなかった。そして、本当に身勝手な想像だけど、彼ならそんな私でも受け止めてくれるのではと思った。
背中に感じる視線に耐えながら、教室のドアに手をかけた。長かった学校探検も、ここで最後だ。
「矢部」
彼に名前を呼ばれて、全身がぞわっと泡立った。こんな状況じゃなかったら、私は彼にすべてを告白することができたかもしれない。
「お前は嫌がるかもしれないけど」
さっきあれほど泣いたというのに、また涙がこみ上げてきた。今すぐにも振り返って、彼の胸に飛び込み、わんわん泣きたかった。
だけど、無理だった。これ以上私のなかに踏み込まれると、私が私でなくなってしまいそうだった。あまりにも展開が速すぎるのだ。
彼がなにか言いかけたのと、私が最後のドアを開けたのは同時だった。この時、彼の言葉を最後まで聞かなかったことを私は後悔している。もしも聞いていれば、未来は変わったかもしれない。
9
トイレの花子さんってのは学校の怪談としては定番だけど、実際花子さんがおわすとか曰くがあるトイレがある学校なんてのは、少ないのではないかと思う。どんな学校にもあるであろう七不思議に必ずといって含まれるのが、動く石膏像だ。夜中に目が光るとか朝くると位置が動いているとか、まあそんな感じの怪談話。
石膏像ってのはどうにも不気味で俺はあまり好きではなかった。そもそも石膏像が好きなやつなんているのかとも思うけど、美術の授業でデッサンをした時、円にした机の中心に座すアグリッパは眉間にしわを寄せなにやら苦々しい表情を浮かべていた。その石のごとく冷たい瞳にとらわれれば命を取られそうな気がして、俺はろくに対象を観察することをせずデッサンを描き上げ、後で典型的なへたくそな例としてクラスメイトの前で己の拙作をさらされるという憂き目にあった。おかげでますます石膏像が苦手になった(特にアグリッパなんかは大嫌いだ)。
美術部の連中なんかは一日何時間も石膏像と向き合い修練を積むらしいが、とてもじゃないが気が知れなかった。俺なら絶対途中で怖くて逃げだす自信があるね。
もう俺が怖がりだってことを隠すつもりはない。ああそうさ、俺は幽霊とか怪談話がめちゃくちゃ苦手で嫌いで怖い。矢部がいる手前強がっているが、本当は泣き叫びたいほど怖い。足は震えているし、今脅かされたりしたら間違いなくちびる。こんなことなら途中でトイレに行っとけばよかったと思うが、花子さんの件があるので一人でトイレに行くのは怖い。まさか矢部に連れションを頼むわけにもいかないし、こんなことら大友のやつを引っ張ってでも連れてきたらよかった。精神も膀胱も限界ギリギリだった。
三階の端から一つ一つ教室を見て回り、俺たちはついに最後の教室にたどり着いた。そこはなんの因果か、美術室だった。俺はなにか起こりそうな気がしてならなかったのだけど、矢部はどこかけやっぱちの様子でためらいなくドアを開けた。
次の瞬間、俺の胸に渦巻いていた様々にして複雑な思いは一切が霧散した。ドアを開けた先にアグリッパがいて、運が悪いことに俺は彼と目が合ってしまった。
命とられると、瞬間的に俺は顔をふせた。
「きゃっ――」
矢部の叫び声がして、俺はふせた顔をすぐに起こす。そしてまったく矢部と同じように、それ以上に驚き恐れおののいて叫び声も上げられなかった。
大地を踏みしめ己が肉体を支える足を持たない胸像のアグリッパが宙に浮き、相変わらず小難しそうな顔をしてこちらを見つめていた。
なにがおきても不思議ではないと覚悟していたが、それでもこのあまりにオカルト過ぎる展開には頭がついていかなかった。
呆然と立ち尽くす俺にむかって、アグリッパは表情を変えることなく突っ込んできた。
それはほとんど無意識の行動だった。とっさに矢部の肩を掴み、そのまま押し倒すようにして前に倒れた。
「きゃっ――」
また矢部が叫び声をあげたが、ぎりぎりのところでアグリッパは俺たちの上をすり抜けていった。初撃を回避することができて、少しだけ安心する。俺の本能的な危機回避能力はまだまだ健在らしい。どうにか古代ローマの英雄を出しぬけるのではないかと絶脳的な状況に光明を見出した。とはいえ、絶望的であることには変わりない。
この時、俺は後ろによけるべきだった。前によけたことで必然的に退路は断たれ、美術室に追い込められた形となった。
這うようにして逃れたが、ここで休んでいるわけにはいかない。追撃に備えるべく立ち上がり、へたり込む矢部に手を貸した。
「な、なんなのよ」
情けない声を漏らしながら、矢部は俺の手を掴んだ。立ち上がろうとするが、かくんと膝から崩れ落ちその場にへたり込んでしまう。
「えっ……」
矢部は呆然とした表情をしていた。どうやら腰が抜けてしまったらしい。
「大丈夫か?」
「ははっ……」
声をかけると、矢部は引きつった笑い声をあげた。
「なんなのよ、これは」
笑おうとしているのだけど、うまく表情がつくれずに口元がひきつっていびつな笑みを浮かべていた。彼女は恐れていた。それまでは別の事ばかりに気がむいていたようだが、ようやく己が置かれている状況を理解し、現実を目のあたりにして絶望していた。
まったく、今更かよ。こっちはさんざんてんぱって怖いのを我慢して強がっていたというのに、この女は今の今まで怖いとすら思っていなかった。世界から見捨てられることよりも、彼女には恐れていることがあるのだ。
うつむいたまま小刻みに肩を揺らし、矢部は時折嗚咽のような声を漏らした。よく泣く女だなと思った。腕をきつく掴まれて、そこから伝わる微かな痛みが俺の心を掻き立てた。
彼女を守りたいと、俺は強烈に思った。強がりでもかっこつけでもなく、本気で彼女を守ろうと誓った。
美術室には俺たちを取り囲むように石膏像が立ち並んでいた。そして、唯一の退路であるドアに立ちふさがるのは、オクタヴィアヌスの懐刀にしてアントニウスとクレオパトラの悲願をアクティウムにおいて打ち破った名将――アグリッパ。
「上等だぜ」
異常なほど感情が高ぶっていた。
どうしてこんな世界に迷い込んだのかと思っていたが、もしかしたら、俺は望んでいたのかもしれない。こんな絶望的な世界で、たった一人の女の子を守るため、戦う。そんなヒーローみたいになれる世界を。
10
彼の背中はとても大きかった。
「立てるか?」
そう言って、彼は横目で私を見た。私はなんとか立ち上がろうとするが、どうしても足に力が入らない。
「あ、あれ? ちょっと待って」
あきらめず何度も手をついて立とうとするが、まるで私の足は私のものではなくなってしまったようだ。
悔しくてたまらなかった。彼の足手まといになることが心の底から嫌だった。このままでは、また泣いてしまいそうだった。それだけは絶対にダメだと、私は唇をかむ。その時、彼が私の腕を掴んだ。掴んだかと思うと、そのまま乱暴に私を引っ張り上げた。
これ以上ないほど不可解な場面に出くわしていながら、それを上回るほどの驚きだった。驚きのあまり涙も引っ込んでしまった。いったいなにがおこったのか。
私は彼にお姫様抱っこされていた。
「じっとしてろよ」
下からのぞき見る彼の顔は、とても凛々しく、さっきまでのびびりな面影など微塵も感じられなかった。それは、覚悟を決めた男の顔だった。
いったいなにをするつもりなのか。彼の胸に頭を預ける私は、異常なほど早い鼓動をすぐ近くで聞いた。
「しっかり捕まってろよ」
眼前の石膏像を睨みつけると、彼は力強く私を抱きしめた。
一拍の間をおいて、彼は一気に踏み込んだ。石膏像は重力から解放された喜びをかみしめるように優雅に宙を旋回し、彼を迎え撃つ。両者が激突する瞬間、私は思わず叫び声をあげた。怖さのあまり彼の胸に顔を押しつけ、目を伏せた。
一巻の終わりだと覚悟したが、私は生きていた。ぶつかる直前に彼は滑り込み、石膏像の下を潜り抜けたのだ。なんて、無茶なことをするのか。万が一タイミングが遅かったら、私たちは死んでいたかもしれない。
「よっしゃぁ――!」
雄たけびをあげ、彼はすぐさま立ち上がり、走り出した。
その表情は策が上手く行ったことを喜ぶというより、上手くいったこと自体に驚いていた。まあ、叫んだりしてごまかしているけど、心臓がバクバクしているので彼の心のうちなど私にはお見通しなのだけど。あれだけかっこつけた顔をしてなにを考えていたのかと思ったら、逃げることだなんて。
「どうかしたか?」
「なんでもないわ」
顔をそむけると、必然的に私は顔を彼の胸に押しつけるような恰好になった。
彼がどこを目指しているのか。そもそも私たちに逃げ場などあるのか。不安しか浮かんでこない状況で、彼はただひたすらに廊下を走った。追いかけてくる石膏像との距離は徐々に縮まっていく。
「ねえ、下してよ」
「ダメだ」
「もう一人で立てるよ」
「ダメだ」
「なんでよ、大丈夫って言ってるでしょ」
「根拠がねえ。もしも立てなかったらどうするんだよ」
彼は前をむいたまま、冷静に言った。
大丈夫だというが、もしも大丈夫じゃなかったら。私を下すためには一度立ち止まらなければならず、それだけでも致命的なタイムロスになるだろう。その上、私の足がまだ動かなかったら。その時は、確実に追いつかれる。
「だいたいな、お前の足で俺についてこれんのか?」
そう言って、彼は一瞬だけ私に目をやり、すぐまた前をむいた。
彼の言うとおりだった。私は彼ほど早くは走れない。たとえ立つことができたとしても、すぐに追いつかれてしまうのが関の山だろう。だけど、彼は違った。私を抱えながらにもかかわらず、ここまで逃げ延びている。私がいなかったら、もっと速く走れるはずなのだ。私がいなければ、悠に追ってから逃げおおせているはずなのだ。ここでもまた、私は彼の負担になっていた。
「だったら……」
私はみじめでたまらなかった。これだけ醜態をさらして、なお彼は私を見捨てないでいてくれるのに、その優しさに耐えられなかった。
「私をここにおいていけばいいじゃない」
そんなことを言ってしまう自分が、ほんとに嫌だった。
彼はなにも言わず、まっすぐに前だけを見ていた。石膏像との距離はさらに縮まり、このままでは共倒れだった。
「ねえ、もう十分だから」
私は懇願するように言った。
「このままじゃあなたまで捕まっちゃうよ。わたしのことはいいから、あなただけでも――」
あなたは精一杯やった。私を助けたいって気持ちは痛いほど伝わった。だからもういいんだよ。私は掴んでいた腕をはなした。そして最後に、たった一言だけ、ずっと伝えなければならないと思っていた言葉を口にしようとした。
「だぁーーーー!」
彼は突然、大声で叫び、私が言いかけた言葉はきれいにかき消された。
「ふざけんなっ!」
そう言って、彼は私の体を無理やり抱きしめた。もうそれはお姫様抱っこなどではなく、私は肩越しに担ぎ上げられていた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
「うるせえっての。しばらく黙ってろ」
迫力に押されて、私は口を噤む。
「このままじゃ捕まるだと。上等だ、陸上部の足なめんなよ」
彼は怒っていた。だけどその怒りは私に向けられたものではなく、この切迫した状況に向けられたものでもなかった。いったい彼はなにに怒っているのか。私には彼の言っていることがまるで意味不明だった。
「俺の百メートルのタイムを知ってるか?」
「えっ?」
「十一秒一〇だ、バカ野郎」
そう言い切った瞬間、彼のスピードが飛躍的に上がった。石膏像をぐんぐん引き離し、このまま逃げ切れるのではと期待させるほどの加速度だった。
逃げ場なんてどこにもない。彼の体力だって無限じゃない、いつかは絶対に追いつかれる。ネガティブな思考が次から次へと浮かんでくるが、一切無視した。私は、私の全てを、彼に預けようと思った。
「ありがとう」
その言葉が聞こえたのかはわからない。彼は走ることに夢中でなんの反応も示さなかった。ただ、私が振り落とされないようにきつく抱き着くと、限界まで上がったはずの彼のスピードが、さらにほんの少しだけ早くなったような気がした




