second
11
矢部の言っていることは半分も聞こえていなかった。彼女はこの状況に絶望して、あきらめていた。このままでは二人とも捕まってしまうからと、自分が犠牲になると言ったのだ。俺は死んでも矢部を守りきる、この世界から救い出してみせると誓ったというのに、彼女はまるで俺を信用していなかった。
ふざけんなよ。見捨てることができるんならとっくに見捨ててる。女の子相手に悪いけど、重くないとは言えない体を抱えて、必死こいて走ってるのはなんでだと思ってる。ただただお前を助けたいだけなんだぞって、言ってやりたかった。
俺は怒っていたし、怒ってもいいのだろう。それでも、彼女の顔を見たらなにも言えなくなってしまう。いやだいやだと言いながら、その表情は見捨てられることを恐れていた。まったくよ、女ってのはずるいぜ。腕をはなそうとした矢部を抱え直し、肩に担いだ。もう格好なんて気にしていられない。
限界なんてとっくに超えちゃったと思っていたけど、不思議なことに俺が速く走りたいと思えば思うだけ速度は上がった。そういえば、もうずいぶんと長い距離を走っているのに全然息も上がっていない。今なら自己ベストどころかワールドレコードだって出せそうなほど、俺は早く走ることができた。まるで、風になったようだ。
俺にすべてを任せることにしたのかそれともあきらめたのか、矢部は抵抗しなくなった。彼女が俺を信用しているかどうかはこの際どうでもいい。いや、どうでもよくはない。なにがなんでもここを逃げおおせて、彼女を守って、俺のことを認めさせてやる。決意を新たにして、俺はさらに速度を上げた。その時、俺は風になった。
石膏像との距離はぐんぐん離れて、いつのまにか姿は見えなくなった。それでも油断することなく俺は走り続け、そして異変に気づく。今、俺は廊下を走っている。廊下ってのは必ず袋小路になっていて、どこかで行き止まりになるはずだ。だけどいくら走っても終わりは見えてこなかった。ならば階段をつかって下の階におりようと考えたが、その階段にもいくら走ってもたどり着かない。まるで同じ場所を延々走っているような気がした。
「ねえ、これって」
黙っていた矢部が不安そうに口を開いた。
「ああ、どうやらそのようだな」
まったく具体性のない会話だったが、俺たちにはわかっていた。
石膏像はたんなる布石にすぎなかったのだ。
とうとう世界そのものが俺たちを逃すまいと、隠し持っていた牙をあらわにした。いくら走ったところで逃げ切れない。俺たちは最初からやつらの腹の中にいた。逃げることに意味はなかった。そのことを教えるかのように、体が急激に重くなった。
俺が風になったのは一瞬のことだった。顎が上がって、呼吸が苦しくなった。肩にかかる矢部の重みに押しつぶされそうだった。
それでも、俺は走り続けた。走ることをやめたら、それですべてが終わってしまう。俺は残っている力のすべてを振り絞り、走った。何度となく足がもつれて、俺はついに膝をついた。どうにか矢部だけは怪我をさせないように気を配るだけで精一杯だった。
立ち止まってしまうと、もう二度と立ち上がれなかった。体が石になったように重かった。
「大丈夫?」
心配する矢部に返事をすることもできなかった。
いつまでもこうしているわけにはいかない、早くしないとまた追いつかれる。わかっているのに体が動かなかった。いつも部活の練習後にやるクールダウンを思い出し、空気を大きく吸い込み体中に酸素をいきわたらせる。焦ってはいけない。焦ってはいけないが、時間はなかった。廊下には俺の荒い息遣いだけが響いた。
長い時間をかけて、俺はようやく喋ることができるまでに回復した。これ以上心配をかけまいと、俺は息を整えて立ち上がろうとしたが、膝をたてた瞬間立ちくらみがした。
「無理しないで」
倒れそうになる俺を、矢部は抱きかかえた。
「すまん。でも、大丈夫だから」
そう言って、俺はもう一度立ち上がろうとするが、矢部がそれを許さなかった。
体ごと俺に抱きついて、俺が立ち上がることを阻止した。矢部の力は弱弱しかったが、それを振り払う力も俺には残っていなかった。情けなくてたまらなかった。守ってやる、助けてやると、かっこつけて大見栄切っておきながら、なんだこの有様は。
「ごめん」
弱音なんて吐くつもりはなかった。
矢部は首をふって、俺を抱きしめた。ああちくしょう。こんなにもみじめで悔しくて、女一人助けられないというのに、彼女に抱きしめられて俺は幸せだった。
引き離した石膏像の姿が徐々に近づく。背後からもどこから湧いて出たのか石膏像の姿があった。前門にはアグリッパとブルータス。後門にはガッタメラータ。古の英傑たちに取り囲まれて、俺たちはついに追い込まれた。
俺の腕を掴む矢部の力が一段と強くなった。そして、俺は現実に引き戻された。一瞬、俺は助かることをあきらめていた。俺は精一杯やった。彼女もそれを認めてくれた。もう思い残すことはないと、勝手に終わった気になっていた。
おいおい、違うだろうが。俺はなんのために頑張った。こんなところで終わるくらいなら最初からあきらめていたほうがまだ潔かった。みっともなくあがいて結局ダメでしたなんて、かっこ悪すぎるだろうが。
「俺は――」
もう絞り滓も残っていないはずなのに、力がどこからともなく湧いてきた。
矢部を引き離し、俺は立ち上がった。それだけで体中が悲鳴を上げるほど痛かった。だがまだ終わりじゃねえ。アグリッパを睨みつけ、俺は構えた。格闘技の心得なんてなけど、今俺に残されている武器は己の拳と決して折れない覚悟だった。
彼女を守ってみせる、そう思うだけで力が無限に湧いてきた。抵抗をやめる時は、俺が死ぬ時だ。奇跡は最後まであきらめなかったやつだけが起こすことができるというが、俺は途中であきらめかけていた。それでも、奇跡ってやつは俺を見捨てはしなかった。
12
暗く心を侵食されそうな闇の中で、突如として光が現れた。洞窟で松明をともしたように浮かび上がった光は一気に拡散し、私の視界は奪われた。
次に目を開けた時、私の前には天使がいた。いや、この時点で私は彼が天使だと認識していたわけではない。長い髪を後ろで一本に縛り、薄いからし色の着物をだらしなく着こなし、腰には刀を携えていた。その姿はまるで辻斬りかなにかのようで、とても天使には見えなかった。
「しばらく大人しくしてろ」
なにをしたのかはわからない。だけど、天使が廊下に手をつくと、彼の言葉通りに石膏像の動きがぴたりと止まった。
「かっこいいねえ、少年」
そう言って、天使はにやりと笑った。その顔が、私にはとても不吉なものに見えた。
彼は険しい表情のまま、天使を睨みつけていた。この男がはたして敵か味方か、見極めようとしていた。
「ふん」
天使は肩を竦めると、後ろでうずくまっている私を見た。
「なるほどね」
一人で納得すると、懐に手を突っ込み、一本の鍵を取り出した。それから、適当なドアにそれを差し込んだ。かちりと、鍵の開く音が聞こえた。その間、彼は厳しい表情で、天使の挙動を監視していた。
がらりと、天使は乱暴に扉を開けた。扉の向こう側は教室のはずが、真っ暗だった。一寸先も見えない、濃厚で密度の高い闇だった。突然のことで、私も彼もなんの反応も返せなかった。そんな私たちを見て、天使は満足げに笑った。
「さて、ここを通ればお前たちは助かる」
助かるという言葉に、私の心は乱された。いきなり現れたこの男の言葉など信じるに足る要素は全くなかったが、はっきりと助かると言った。それはあまりにも甘美な誘惑だった。
「本当に助かるの?」
思わず、訊いてしまった。
「ああ。俺はウソをつかない」
天使は力強くうなずいた。
よかった、助かる方法があるのだと、ようやく見えた希望の光に手を伸ばしかけて、すぐに私は再び絶望に叩き落された。
「しかし、この扉を通ることができるのは一人だけだ」
天使の言葉はあまりにも確信に満ちていた。
「…………それってどういうこと?」
「助かるのは一人だけということだ」
「ウソでしょ?」
「ウソじゃない」
天使は躊躇いなく言った。
「どちらが助かるのか、それはお前たちで決めろ。言っとくけど、悩んでる時間はないぞ」
動きが止まった石膏像がカタカタと震えだし、徐々に自由を取り戻し始めていた。
どちらかしか助かることができない。そんなことがあっていいのだろうか。私たちはなにもわからずこの世界に迷い込み、わけもわからないままさまよい続けた。そしてようやく助かる術が見つかったというのに、どちらかを犠牲にしなければ助からない。それは、あまりに理不尽だ。
「決まったか?」
天使は私の気持ちを少しも酌量するそぶりを見せなかった。務めて冷静に、まるでお役所の手続きを済ませるように。この男に感情はあるのだろうか。
「どうして一人だけなの?」
「どうしても、だからだ」
「二人じゃだめなの?」
「ダメだ」
天使はどこまでも薄情だった。
「ここのままだと二人とも死ぬことになるぞ」
「それは困るな」
どこか楽観した様子で、彼は言った。
「ああ。そうなると俺としても困る」
そう言って、天使は笑った。
「助かるのは一人だけなんだよな」
「ああ」
「一人は絶対に助かるんだな」
「ああ」
「誓って?」
「誓って」
「わかった」
彼がなにをするつもりなのか、すぐにわかった。
「やめてよ」
彼が伸ばした手を振り払うが、かまわず腕を掴まれた。
「それでいいんだな?」
「ああ」
天使の問いかけに、彼は笑って、答えた。
「なに笑ってるのよ」
扉へと引きずられながら、私は力ない抵抗を続けた。
「わかってるの? 私が助かるってことは…………あなたは助からないのよ」
「わかってるさ」
「だったらどうしてよ?」
「もう決めたんだ」
「勝手に決めないでよ。私は、私だけが助かるなんて、そんなのは嫌よ」
「俺はそれでもかまわない」
「私は嫌よ」
私だって、あなたに助かってもらいたい。だけどそれはあまりに遅すぎた。自分が助かるとわかって、彼に助かってもらいたいと言う私は卑怯者だ。
「最初から決めてたんだよ」
そう言って、私の肩をそっと押した。
「お前だけは絶対に助けるってな」
そのまま、私は扉の奥に広がる光の渦へ飲み込まれていった。
意識が途切れる瞬間、現実へと回帰する私を、満足げに見送る彼の姿が見えた。その姿にむかって、私はもう届くはずのない声で言った。
「こんなことをされても、私はちっとも嬉しくないんだからね」
13
矢部の姿が見えなくなると、闇は消え去った。なにごともなかったように、最初からそうであったのかのように、見慣れた教室の風景だった。
「これで助かったのか」
「大丈夫だ。間違いなくあの女はあっちに帰ったよ」
「ほんとかよ?」
「ウソじゃねえよ。何遍も言わすな」
怒られても、こいつの言葉を信用する義理など俺には欠片もない。そもそも恰好が怪しい。まるで漫画に出てくるサムライみたいだ。
「あんた、いったいなにものだ?」
「なんだと思う?」
「サムライだったり?」
「昔はそう呼ばれていたこともあったな」
冗談半分で聞いたのに、澄ました顔で思わせぶりなことを言われた。
「今は違うの?」
「そうだな」
返事をしながら、男は表情を険しくした。いつのまにか石膏像が復活していたのだ。
「おいおい、情けねえ。ビビんな」
「ビビってないよ」
とっさについた強がりは、むなしく無視された。
男は刀を構え、不敵に笑った。
瞬きをするくらいの、一瞬の出来事だった。気がつけば、アグリッパとブルータスの石膏像が砕け散り、背後から襲いかかったガッタメラータには刀が突き刺さっていた。
「さて、これで邪魔者は片付いた」
男が錆を払うように刀をふると、胸像は砕け散った。瞬時に三体の敵を葬り去った剣技はまさに神業――――サムライだった。
「やっぱサムライだろ、あんた」
俺の問いに、男は肩を竦めるだけでなにも答えなかった。
「まあ、積もる話もあるだろうが、ひとまずやるべきことをはたそう」
そう言って、男は俺に刀の切っ先を向けた。
「ひとまず、お前には死んでもらう」
「はっ?」
突然なにを言い出すのかと思った。
「…………いや、でもまあ、そうなのか」
死ぬということを、俺はあっさりと受け入れた。助からないということはそういうことなのだと、どこかでわかっていた。
「えらいな。普通は泣いたりわめいたりするもんだけどな」
「男の子だからな」
「上等」
そう言って、男はなんのためらいもなく俺の心臓に刀を突き立てた。一瞬の衝撃はあったが、痛みはなかった。
「お前は…………悪魔かよ」
「違う。その対極にある存在だ」
男はえげつないほど酷薄な笑みを浮かべた。
「意味わかんねえよ」
くそっ、いったいなにがおもしろいんだ。怒りで頭に血が上りそうだったが、もう俺の体には脳みそにまで回す血液が残っていなかった。
「怖いか?」
薄れていく意識の中で、天使が問うた。
「後悔しているか?」
「そうだな」
怖い。後悔もしている。だけど、満足だ。思い残すことはなにもない。いや、一個だけやり残したことがあったな。
「どうした?」
「なんでもねえよ」
喋ることも億劫だった。もういくばくも残されていないだろうが、俺は自分から深い闇の中へと意識を沈めた。
最後の最後で俺が思っていたことは、そういえば自己紹介をしていなかったなということだった。彼女に俺の名前を伝えることができなくて、それだけが心残りだった。
14
目が覚めると、白い天井が広がっていた。ここはどこだろう。ゆっくりと体を起こす。左右を見回すと、そこには見慣れた家具が並んでいた。私は、私の部屋にいた。
「戻ってこれたんだ」
安堵のため息をもらし、意識が途絶えた瞬間のことを思い出す。そうだ、彼はどうなったのだ。わけもわからず、私はベッドから跳ね起きて狭い部屋を右往左往した。いいえ、わからないことはない。なにもかも、わかっている。ただ、信じたくなかっただけ。
こんな結末、私は望んでいなかった。私は彼に助かってほしかった。それなのに、助かったのは私だけだった。勝手に助けて、満足そうな顔をしやがって。あなたはなにもわかっちゃいない。私はまた一人ぼっちになってしまった。
「ねえ、私はどうすればいいの?」
あなたがいなくなった世界で、私はどうやって生きていけばいいの。私はベッドの上に座り込み、膝を抱えて泣き続けた。
それから、どれくらいの間泣いていたのかわからない。携帯のアラームが鳴り、ああもう朝なんだと気がついた。私は心と体がバラバラのまま、制服に着替えて学校に行く。電車に乗っている間、駅から学校へ歩いている間、周りの音は一切聞こえなかった。ただ、私の心は絶望の淵に沈み、体だけが動いていた。
日付が変わったことを除けば、世界はなにも変わっていない。授業は相変わらずつまらないし、休み時間はがやがやと騒ぎ立てるクラスメイト達から外れて一人本を読んだ。もっとも、ただ字面を眺めるだけで、内容は何一つ覚えてはいない。いつもと同じ行動をとることで、いつもと同じであることを再認識した。ひょっとしたら、すべて夢だったのではないか。白昼夢というやつだったのかもしれない。などど、それはあまりにも身勝手な願望だ。
そんなわけあるか。あれは確かに起こったことなのだ。私がどんなに都合よく改変しようとしても、決して変えようのない出来事なのだ。
放課後を迎え、担任が今週中に文化祭でやるクラスの出し物を決めるから考えておいてくれと言って、ホームルームは終わった。私はいつものようにすぐに帰ろうとしたが、里中さんに呼び止められた。昇降口まで一緒に行こうと誘われ、断る理由もないので私はうなずいた。
「文化祭なんだけどさ、矢部さんはなにかやりたいこととかある?」
実行委員長を務める彼女は参考にしたいと言って、つまらない質問をした。
「べつに。できれば簡単なのがいいわね」
「みんなそう言うんだよね」
困ったなと、彼女はため息をついた。
「里中さんがやりたいことをやったらいいんじゃない。あなたが提案したら、誰も反対なんてしないわよ」
「そうかなあ」
「うん。だって里中さん、人気者だから」
そんなつもりはないのだけど、私の言葉はとても皮肉っぽく聞こえた。
「そんなことないよ」
里中さんは恥ずかしがりながら謙遜するが、満更でもなさそうだった。
彼女と話している間、私はずっと考えていた。彼があの後どうなったのか。どうすれば消息を知ることができるのか。探そうにも、私は彼のクラスも住所も電話番号も知らない。私が一方的に自己紹介をしただけで、あの場では名前すら聞けなかった。私には彼の行方を確かめるすべがない。
「ねえ、里中さん」
声をかけると、里中さんはちょこんと首を傾げた。動作の一つ一つがいちいち可愛らしくて、とても私にはまねできそうにない。とても人懐っこそうに笑う、こんな女の子とつき合える男の子はさぞ幸せ者だろう。
「岡村くんのことなんだけど」
私が彼について知っていること。陸上部に所属しているということ。お化けが苦手で怖がり、それでいてかっこつけだということ。名前は岡村謙信。そして、里中真紀穂の恋人だということ。
「んっ?」
彼女は首を傾けたまま、私を見返した。
「前に言ってたよね、つき合ってる人がいるって」
彼女の表情が困惑していくのがわかった。私は嫌な予感がした。
「なんの話?」
大して親しくもない私に幸せそうに恋人についてべらべら語っていた彼女が、その存在を否定した。
「誰かと勘違いしてるんじゃないの?」
そう言って、彼女は笑った。
いつもと変わらない、彼女の澄んだ心根が現れた笑顔。だけどその時は、私には彼女が悪魔に見えた。それから、彼女は気まずくならないように気を使ってか、すぐに別の話を始めた。今度こそ、私の耳にはなにも聞こえていなかった。思考すらも止まっていた。彼女の言葉は決定的だった。
現実は私の想像を遥かに超えて、残酷だ。岡村謙信は死んだのではない。岡村謙信という人間はこの世から消えてしまったのだ。死んだのではない。消えてしまったのだ。
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はたして、人が死んだらどうなるのか。両親は二人そろって首から十字架をぶら下げているが、だからといって俺がとびきり信心深いわけではない。困った時に神様にお願いしたりはするけれど、全知全能なる存在など信じているわけではない。同じように死後の世界なんてものも信じてなくて、天国なんてもんもあるわけないって思っていた。
気がつけば俺はどこか知らない場所にいて、そこにはバカでかい門があった。ここが天国だなんて、思いやしなかった。まあ、俺は死んでしまったはずなのだから、少なくとも現世ってことはないだろ。じゃあどこだって話だが、さっぱりわからない。
それにしても、ずいぶんと殺風景な場所である。見たところ俺の体に変化らしい変化はなく、刺されたはずの胸には傷一つ残ってはいない。ひょっとして、あれは夢だったんじゃないか。俺は死んでなんていなくて、今もまだ夢のなかなんじゃないか。だったら早く起きねえと、学校に遅刻してしまう。なんて、都合のいいことを考えながら、俺はふらふらと門にむかって歩いていた。
「よう。遅かったな」
後ろからの声に振り返ると、そこには着物姿の男がいた。俺の姿を認めると、男は手を上げた。
「無事に死ねたみたいだな」
「死んじまって、無事ってのも変な話だけどな」
ていうか、俺はやっぱり死んだのか。
「調子はどうだい?」
「まあ、上々かな」
「そいつはよかったな」
「ああ、おかげさまで」
「それじゃあ、さっさと行くか」
「えっ?」
俺は思わず聞き返した。
「行くって、いったいどこに?」
「決まってんだろ」
男は門とは反対側を指さした。そこにあるのは密度の濃い暗闇だけで、そこからすぱっと空間を切断したようだった。その黒い壁を、俺は見たことがあった。
「どういうことだよ?」
戸惑う俺に、男は面倒臭そうに肩を竦めた。
「なんだ、お前はこのまま死んじまってもいいのか?」
「なに言ってんだ、俺はもう死んでんだろうが」
言って、ものすごく後悔した。自分の言葉で自分の死を認めるのは、ナイフで肌を刺すように痛かった。
「だからといってあっさりあきらめて、あっちに行くこともないだろ」
そう言って、親指で後ろの門を差す。その先は細い道が果てもなく続いていた。あまりの長さにそれだけで嫌気がさした。
「お前がよしとするのならば、それはしかたがないけどな」
天使は組んでいた腕をほどき、顎にもっていった。
「これじゃあ死んでも死にきれないんじゃねえか」
目を据えて、問われた。俺の心は大きく揺れ動く。
「俺としても、あまり納得できる結末ではない」
お前には全く関係のない話だけどなと、天使は言った。
「俺は――――」
乾ききった喉が張りつき、上手く言葉が出なかった。わずかに残った唾を飲み込み、唇をなめる。天使は急かすこともなく、待っていた。落ち着き払った様子は、俺がなんと答えるかわかっているようだった。大きく息を吸い、ようやく俺は返事をする。
「俺は生き返ることができるのか?」
「さあね」
やっとの思いで口にした問いを、天使は簡単に受け流した。
「人の生き死にを決めるのは神の領分だ。俺にわかるはずもなかろう。まあ、お前次第なんじゃねえの」
「どういうことだ?」
「生き返りたかったら、命がけで祈れってことだ」
冗談なのかと思ったが、天使はマジメな顔をしていた。
生き返られるかもしれないと思い、心臓は大きく高鳴った。しかしそれは捨てた命が再び拾われたことへの喜びではなく、自分が生き返られるかもしれないと知っても俺の心にはそれほど響かなかった。というか、急転直下なこの展開にも俺はちっとも動揺していなかった。俺は死んでしまったことを冷静に受け止めていた。不思議なほど、諦観した心だった。それはたぶん、死んだからなのかもしれない。
「あまり嬉しそうじゃないな」
「いや、そんなことはないぞ」
「まあ、あれだけかっこつけて別れた後に生き返ったら、そりゃ気まずいわな」
痛いところをつかれた。俺が一瞬の動揺したのは、むしろ生き返ってしまった時のことを想像したからだ。自分の命と外聞を天秤にかけるなどバカらしいことかもしれないが、俺は外聞をとって死んだのだ。それを後から生き返ったりしたら、かっこが悪すぎる。
「ま、お前が生きたいかどうかはおいといてさ。お前に生きていてほしいと望んでいるやつはいるだろ」
その時、俺は矢部のことを思い出した。俺が命を懸けて守った女の子。彼女は今どうしているだろうか。無事に元の世界に戻れただろうか。以前と変わらない生活を取り戻しているだろうか。また、一人で泣いているのだろうか。
「どうする?」
天使は言う。
「このまま死ぬか、それとも生きるか。お前が決めろ」
「俺は…………」
彼女を守れたら、それでよかった。だから、俺は命をかけて彼女を守った。だけど、重大なことを忘れていた。死んでしまったら、もう彼女を守れない。
「俺は生きたい」
「わかってるって、そんなこと」
葛藤の末に導き出した決断を、天使は軽くあしらった。
「最初から素直にそう言えばいいんだ。死にたい人間なんているわけねえんだから」
天使は皮肉たっぷりに笑った。まったく、むかつくことこの上ない。
「それで、まず俺はなにをすればいい?」
「ま、詳しい話はおいおいな」
そう言って、天使は門に背をむけた。
「とりあえず、行こうか。ここは生きたやつがいる場所ではない」
いやいや、俺ってもう死んでるんだけど。そう思ったが、突っ込んだりはしなかった。
死んでもまた生き返ろうとしているのだ。俺が自分の死を認めていないのならば、それは死んだことにはならないのではないか。負けを認めなければ負けではないとか、屁理屈だけど。
「なんつうか、まるで幽霊みたいだな」
独り言をつぶやいて、思わず笑いがこみ上げる。あれだけ恐れていたのに、自分自身がお化けになってしまうとはね。
天使は俺がついてくるのも確認せずに、一人先を行った。その先にはなにもなくどこでもなく、ここが世界の果てだと思った。飛び込んだらどん詰まりで、元の場所に戻るだけ。天使の姿はもう見えない。こんなところに一人ぼっちで取り残されてはたまらない。
俺は恐る恐る闇へと足を踏み入れる。ぬるま湯につかったように、じんわりとした生温かさだった。全身が泡立ち、片足を突っ込んだまま固まってしまう。なにをビビっている。俺は死んでいるのだ。恐れることはなにもないだろ。俺は目を瞑り、一気に駆け出した。
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いつどこで里中さんと別れたのか、覚えていない。どうやって家までたどり着いたのかさえ、思い出せない。なにも考えることができなくて、部屋に天使がいたことにも驚かなかった。
「どうした、まるでこの世の終わりみたいな顔をしてるじゃねえか」
がたがたと、体が震えた。私は鞄をほうりなげ、悠然とベッドに座っている天使に駆け寄り、そのまま押し倒した。
「彼は?」
「おいおい、激しいな」
「いいから答えて」
私の剣幕に押されて、天使は肩を竦めた。
「死んだよ」
わかりきった事実を、天使は告げた。私はよろよろと後ずさり、壁に背をぶつけてそのまま座りこんだ。
「ウソでしょ」
「本当だ」
「どうして」
「お前が生きることを望んだからだ」
天使の言葉は、鋭いナイフのように私の心臓を抉る。
「私はこんな結末を望んでなかった」
「そんなのは知らん。ただあの時お前は俺の問いになにも答えなかった。沈黙もまた答えというわけだ」
「私は生きたかったわけじゃない」
「でも死にたかったわけでもなかろう」
「私一人、生き残ってもしょうがないじゃない」
「後からきれいごとを並べ立てるのは卑怯だろ。虫唾が走るぜ」
天使は心の底から私をさげすんでいた。その冷淡な視線に、私は恐怖する。同時に怒りも覚える。だけどなによりも、自分の愚かさに愕然とした。
「まあ、そこまで悲嘆することもなかろうよ。どっちにしたって人は死ぬ」
慰めにもならない言葉だった。人は死ぬ。だからなんなのだ。そりゃあいつかは死ぬのかもしれない。百年後には間違いなく彼も私も死んでいる。だからといって、彼が死んでしまったことが正当化されるはずもない。少なくとも、今ここで、彼が死ぬことはなかったはずだ。
「彼はきっと…………生きたかったはずよ」
「当たり前だ。死にたい人間なんざいねえよ。だけど、死ぬんだよ。人は死ぬために生きているようなものだ。そしてあいつは人として最も尊い死に方をした」
「だから受け入れろというの?」
「いや。ただお前がそうやってあいつがとった最後の行動を否定し続けることは、あいつの存在そのものを否定するようなものじゃないのか」
「そんなこと…………」
否定するけど、力がなかった。
「私は彼が死ぬことなんて、望んではいなかった」
「だが事実として、あいつは死んだ」
天使の言葉に、私は胸を詰まらせる。
「お前を助けるために死んだんだ」
天使はどこまでも冷淡だった。私が、彼を死なせてしまった。私が、彼を殺したのだ。
「苦しめよ。誰かの命を犠牲にしてまで生き残ったんだ。自責の念にさいなまれて、その咎を一生背負って生きていくのが当然だ」
うずくまる私を、天使は冷たく見下ろしていた。
「間違っても自分が死ねばよかったとか、あいつを助けるために自分の命をささげるとか、バカなことは言うなよ」
私がそう喚きたてるのを見通したように、天使は釘を刺した。やけを起こしそうな私を諭すように、落ち着いた声だった。しかし、それは私の思い違いだ。
「お前なんぞの命に、そんな価値があるものか」
そこには侮蔑も厳しさもましてや優しさなんてものはなく、ただ氷のような冷たさしかなかった。
どれだけ言い訳を並び立て、自分に都合のいいような解釈を捻り出したところで、私が生きているという事実にかわりない。そして、彼が死んでしまったという事実にかわりはない。
今更になって私は彼に生きていてほしかったと願っている。すべては私のわがままだというのに、私のわがままに巻き込まれて彼は死んだというのに、生き返ってほしいと願う。本当にどこまで自己中な女なのだろうか。
「どうすればよかったのよ」
誰か教えてほしい。私はどうすればよかったのか。これからどうすればいいのか。
「未来ってのは一つじゃない。そこに至る可能性はお前の目の前にそれこそ無数にあるんだろうよ。だけどそこに至ってしまえば、それはもう普遍不動の一点となり、お前が今いるここでしかありえない。正解なんてあってないようなものでいくら考えたってわかるわけがないだろ。それこそ、知っているのは神ぐらいなんじゃねえのか」
天使の言うことは正しい。淡々と事実のみを語り、それはまるで機械のようで、心を持ち合わせていないかと思うほど無感情だった。
「大本を正せば、あの時、俺はお前たちを二人とも助けなければならなかった。しかし俺にはどちらか片方しか助けることができなかった。結果的にお前が助かったが、それを後悔する気持ちはわからんでもない」
「違うわ」
私は後悔しているわけじゃない。死ぬか生きるか。そんなことすら私は選べなかった。自分で選ぶことから逃げ、すべてを彼に背負わせて、死なせてしまった。そんな自分に、絶望していた。
「皆まで言わずともわかってるよ、そんなこと。ただ、選択肢が限られていたのも事実だろう」
あの時、私たちはどちらかが生き延びてどちらかが死ぬという究極的な選択しかできなかった。もちろん、自分たちの力で二人とも助かる方法を探すこともできただろう。しかし、提示された選択肢にその道はなかった。
「状況が違えばそれも神のお導きで致し方ないともいえるが、ここでお前らを見捨てるのはあまりに慈悲がなかろうと、俺は思う」
これまで慈悲のかけらも見せなかったくせにと、私は思った。
「だからチャンスをやるよ」
「助けてくれるの?」
なにが救済なのかもわからずに、私は訊いた。
「助けねえよ、俺は」
天使は冷たく言い放った。
「祈れ。お前が本気であいつを助けたいと思うなら本気で祈れ。祈って祈って祈りまくってお前の祈りで世界を救うくらいのつもりで祈りまくれ。そうすれば、もしかすると神に届くかもしれない」
「絶対ではないの?」
「お前次第だ」
まるで新手の詐欺か新興宗教の勧誘みたいな口説き文句だった。
「ずいぶんと無責任なのね、神様って」
「最初からお前らの命に責任なんざ持っちゃいないだろうさ」
「それもそうかもね」
「それにな。見返りを求める祈りなんて本物じゃねえだろ」
祈るという行為は未来に対してするものだ。まだ訪れていない明日に対して、こうなればいいと祈るのだ。彼を助けられるかは私次第。未来は私の手の中にある。その時、私は私がすべきことがわかった気がした。
「簡単なことじゃないぜ。覚悟はできてんだろうな」
「もちろんよ」
「だったら、約束しろ」
そう言って、天使は手を出した。
「あいつを助けることで、その結末がどうなろうとも決して後悔しないと。約束できるなら、この手を掴め」
私は迷わずその手を掴んだ。
「ちょっとは悩めよ」
「その必要はないわ」
「どうして?」
そんなこと、答えるまでもない。なにがお気に召したのか、天使はにやりと口元を釣り上げた。
「聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「あなたいったい何者なの?」
「なんだと思う?」
そう言って、挑発するような視線をくれた。
「そうね」
私は腕を組み、ちょっと考えた。
「悪魔」
「残念。外れだ」
底意地悪く、天使は笑った。
「俺は天使だ」
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おおざっぱに説明すると、この世界は三つに分けられる。あの世とこの世と幽世。
あの世とこの世はわかるとして、幽世ってのがどういうものなのか、俺にはわからなかった。その幽世という場所に俺たちは迷い込んでしまったのだと、男は言った。同じ世界ではあるんだけど、あの世とこの世は明確に区分されていて、幽世はその二つを隔てる線のようなものらしい。
男の説明はえらく回りくどくて理解しがたく、それでもなんとなくで解釈した限りを整理すると、あの世に行くにはいくつかの条件が必要で、その条件を満たさない場合は幽世に迷い込んでしまうと、そんな感じだった。
「いや、べつに俺はあの世にいこうなんてしてないぞ」
「うん。まあ本人は予期していなくとも、不用意な行動でドアを開けてしまうことはあるからな」
心当たりといえばないことはない。しかし俺にそんなつもりはまったくなかったし、そもそもトイレの花子さんが死を招くほどの強力な霊だとはとても思えない。数ある花子さんを取り扱ったアニメや漫画でもその姿はおかっぱでちょっと根暗そうな苛められっ子って感じに描かれている。恐れるに足る存在だとはにわかに信じがたい。だいたい、あそこに花子さんが本当にいたのかどうかさえわからないのだ。だけどまあ、不用意な行動ではあったよな。
「自業自得ってことか」
「責任がないとは言わんが、今回は運が悪かったよ、お前は」
意外なことに、男は庇ってくれた。
「さわらぬ神に祟りなしって言うがな。なにもしなければ害がないのかといえば、そうでもない。あの世とこの世ってのは同じようで同じではないのだけど、根源的なところでは同じ世界だ。この世の常識、あの世の非常識ってことはあるが、人が人として存在しえる。だが、幽世は違う。あそこは人が存在してはいけない場所だ」
そのことは目覚めた時からわかっていた。右も左もわからない状況で、体で感じることができた。あの世界は生きている者を憎んでいる。
「幽世に秩序も規律もない。ただそこにあるのは増悪だ。生への妬み、嫉み、憎しみ、それだけしかない。やつらはいつだってお前らを自分たちの世界に引きずり込もうと狙っている。引きずり込んで、憎しみで食い殺して、自分たちの一部にしようとしている」
「それじゃあなんだ、俺は運悪くそいつらに目をつけられたばっかしにこんなことになっちまったわけか?」
「責任はあると、言っただろ」
「なんだよそれ」
「怒るなよ」
憤る俺に、男は冷たく言い放った。
「確かにお前は運が悪かった。落とし穴に落ちたようなもんだとあきらめるしかない。だけどそれでもあきらめられないと思うのなら、すべてはお前が選んだ結果だということを忘れるな。お前はそこに落とし穴があるとわかっていて、自らそこに飛び込んだんだ。今ここでキレるのは筋違いだぜ」
「わかってるよ」
俺が死んだのは、間違いなく俺がそれを選択したからだ。だからといって、それを運が悪かったと簡単に片づけられるのは腹が立つ。
「なんなんださっきから。偉そうにべらべらと」
「そう言われてもな。俺はなにも知らないお前にお前が必要とするであろう情報をわかりやすく優しく噛み砕いて教えてやってるんだ。教える側と教わる側とどちらの立場が上かくらいわかるだろ」
淡々と述べる男の態度は不遜そのものだった。ていうか、お前の説明のどこがわかりやすいんだよ。
「だったらさっさと生き返る術を教えろよ」
「もちろんだ」
感情のままに言葉をぶつける俺と違って、男は落ち着き払っていた。ていうか、こいつは俺の感情を逆なでしてその反応をただ楽しんでるだけなのではないだろうか。
「それじゃあ、本題に入るとするか」
男はふっと、口元に怜悧な笑みを浮かべる。ドSというか、めちゃくちゃ性格が悪そうな顔だった。
「幽世に人が迷い込むってのはわりとよくあることでな。そんな間抜けな野郎を元の世界に送り届けてやるのが俺の仕事ってわけだ」
「ちょっと待てよ。だったらどうして助けなかったんだ」
「いや、助けただろ」
「んっ?」
「んんっ?」
一瞬の間があった。
「いやいや、俺は死んじまっただろうが」
「だから生き返れるかもって」
「そうじゃなくて」
俺と男の間には決定的なズレがあった。
「人助けがお前の仕事なんだろ」
「まあ、そうだな」
「だったらなんで助けなかった?」
「だから助けたじゃねえかよ」
「俺は助けてもらえなかった」
ほとんど叫び声に近かった。会話は途切れ、男が無感情な瞳を俺にむけていた。
助けられなかったことに、俺は怒っていた。死んでしまったことに、憤っていた。そんな自分が、信じられなかった。後悔してもいい。怒ってもいい。だけど、助からなかったことを誰かのせいにして、誰かを責めてしまった。そのことを深く恥じた。
「どうして、一人しか助けられなかったんだよ」
「それは俺にどちらか一人しか助けることしかできなかったからだ」
「なんでだよ」
どうして、お前は俺にどちらを選んでも後悔しかしないような選択を迫ったんだ。
「お前、天使なんだろ」
「確かに俺は天使だ。だが、もとはただの人間だ」
天使を名乗りながら、天使は絶望しかもたらさない。
「お前は勘違いしている。俺は天使だが、それは便宜上呼び名があったほうがいいだろうってだけで、仕事の役職みたいなもんだ。俺は天使なんかじゃなく、お前と同じ人間で全知全能な力などない。成仏できずに、さまよい続ける存在だ」
俺は一気に全身の力が抜け落ちた。目の前にいる男の存在があやふやとなり、自分自身までが消えてしまいそうだった。
ここまできて、お前も俺と同じ人間だ、だから助けられなかったというのは、あまりにも理不尽だ。最初からすべてまやかしだったのか。だったら、絶望的な状況に突如現れ俺たちに見せてくれたあの光はなんだったのか。お前は間違いなく矢部を助けてくれたのではないのか。
「あの時、俺はどちらか一人か助けることはできなかった。そして一人は助けた」
男が語るのは真実だけだ。こいつはウソもついていない。裏切ってもいない。そう思うのは、俺が勝手にこいつを全知全能なる神かなにかと勘違いして、祈りすがりついたからだ。
そもそも、気づくべきだった。天使とは神の使いだ。神ならば助けを求める人間をすべて助けるはずだ。どちらかに死を迫るような、そんな残酷な選択を迫るはずがない。
「そんなに絶望することもなかろうよ」
「いや、ちょっと立ち直れそうにないわ」
怒りも絶望も通り越し、俺の心は空っぽになっていた。
「あのな、お前がいくらそうであろうと信じるのは勝手だが、神は決して答えてはくれないぜ」
絶望の淵にいる俺をさらに突き落とすように、男は言った。マジでどこまでも悪魔的に性格の悪いやつだと思った。
「人を助けるのは人の領分だ」
俺の腕を掴むと、男は無理やり引っ張り上げた。
「お前は死んだ。それはお前のせいであり、お前を助けられなかった俺のせいでもある」
相変わらず冷たく感情のない声だった。自分のせいだと認めながら、まるで悪びれてない。
「今度はちゃんと助けてやるよ」
「ほんとかよ?」
俺は力なく返事をした。
どうせまた俺はウソをつかないとか聞き飽きた答えが返ってくんだろうなと期待もせずに待っていたが、しばらくしても男はなにも言わなかった。
「すまん」
憮然としたまま、男は謝った。
「助けるのは助けるが、おそらくお前が期待しているのとはちょっと違う」
「どういうことだ?」
「さっきも言ったが、所詮は俺も人だ。死者をよみがえらせる力なんてもんはない。人の生き死にを扱えるのはそれこそ神の領分だろう」
俺は黙って、男の言葉を聞いた。
「生き返ることができるかどうか、俺にはわからん。ただ可能性はある。そしてその可能性はお前次第で限りなく現実に近づく。俺にできることなどなにもない」
「だったらお前はなにを助けるというんだ?」
「俺はお前が助かろうとするのを助けてやるよ」
意味がわからなかった。わざわざ言い直してまで責任を回避するようなことを言って、もはや詐欺師のようだった。
しかしまあ、これがこいつなりの筋の通し方なのだろう。誠実ではないし、とことん冷淡だが、ウソはつかない。
「ウソじゃねえだろうな?」
男は笑った。
「ああ。ウソは嘘をつかない」
18
帰宅部の私はホームルームが終わると、一直線に昇降口を目指す。とくに予定があるわけでもないけれど、私にはおしゃべりをする友達も寄り道をする友達もいない。いるとすれば、時たま思い出したように開かれる委員会の存在を教えてくれる里中さんくらいだ。なので、彼女が引き止めない限り、私は誰よりも早く学校を後にする。
なにを急いでいるかと聞かれても、べつに急いでいるわけではないので答えようがないのだけれど、たぶん無意識のうちに、私は一秒でも早く学校を離れたいと思っているのだろう。
すべての授業が終わり、解放感にあふれた学校の雰囲気というのが私は好きではない。というか、放課後に限らず、私は学校そのものが好きではない。集団の中で集団として行動できない私にとって、学校はとても居心地の悪い場所だった。それにこの学校には姉がいたのだ。私の入学と入れ替わるように卒業してしまったけど、ふとした場面で私はその面影を見る。とくに最近になってテレビとかで騒がれ始めてからは、聞きたくもないのに聞こえてくるクラスメイトの会話にも姉の名前が出てくる。まるで針のむしろだ。ほんと、息が詰まる。
そんな私が、なぜ休みであるはずの日曜に学校にいるのか。しかもこんな夜中に、誰もいないグラウンドの片隅で、ゴム手袋とマスクを装備して両手にはデッキブラシとバケツを持って立っているのか。これじゃただの不審者だ。まったく、なんでこんなことになったのか。不満を口にしても意味はないし、私に不満を言う資格などないのだけど、それでも思わずにはいられなかった。
徳を積むことだと、天使は言った。祈ることはもちろんのこと、それに加えて行動で私の祈りが本物であるかを示すのだという。そうすれば、ひょっとすると神様の心を動かせるかもしれない。善行にはそれなりの見返りもあり、これは契約みたいなものらしい。見返りを求める祈りは本物ではないとか言いながら矛盾してると思ったが、そもそも私は一度天使に助けられているので、文句を言える立場にもない。
徳を積むということが、具体的にはどういうことなの私にはわからなかった。いったいどれだけの徳をつめば彼が生き返るのかもわからない。なんだか、本当にあこぎな商売に引っかかってしまったような気分だ。それでも、ただ漠然と祈れというよりかはなんとなくでもイメージがつきやすいし、契約であるのであれば私がしっかりと条件を満たせば相手もそれを反故することはない。なにせ、天使はウソをつかないらしいから。
私は徳を積むべく、日々を品行方正に慎ましく過ごそうと心がけながら(品行方正に慎ましくというのがどのようなものかもわからないが)、とりあえず俺の仕事を手伝えとの天使の言葉に従った。あれでも一応天使らしいので、彼の仕事を手伝うことが善き行いであろうことは疑わなかった。
待ち合わせの時間を過ぎても天使は現れず、どこからともなく姿を見せた時にはすでに日付がかわっていた。文句の一つでも言ってやろうかと思ったけど、二人がなにか面を食らったような顔をしているので、そっちが気になってしまった。
「どうかしたの?」
「いや」
そう言って、岡村君は渋い顔をして私をじろじろ見ていた。
「ていうか、遅かったじゃない」
遅刻したことを非難するが、天使はなぜか笑った。
「ちょっとは悪いとか思わないの?」
「ああ、悪い」
謝りながら、やはり天使は笑っていた。
「しかしなんなんだ、その恰好は」
「あなたが言ったんでしょ」
「俺が?」
まるで記憶にないって顔をしたので、私はほとほとあきれ果てた。
「トイレ掃除するんでしょ?」
昨日のこと、お風呂に入ってそろそろ寝ようかなとしていたら、なんの前兆もなく振り返れば天使が部屋にいて、驚いている暇もなく、グラウンドにあるトイレを掃除しろと一方的に要件を告げた。いったいどういうことか問い詰めようとしたが、天使は現れた時と同じようにいつのまにか消えていた。神出鬼没な天使にはなれたけど、相変わらず伝えられる話の内容は不可解だった。トイレ掃除なんて、天使の仕事とどう関係しているのかまるでわらない。
「あー、そういやそんなこと言ったんだっけな」
「思い出した?」
「おう。ばっちり思いだしたぜ」
大げさに頷きながら、天使はまた笑った。
「なに笑ってるのよ」
「いや。そんなトイレ掃除するとか、なんで俺がそんなことお前に頼まなきゃならんのだ」
「でも、そう言ったわよね?」
「言ったけどよ。そんなの冗談に決まってるだろ」
目の前でケタケタと笑っているのが天使だと私は絶対に信じない。ましてや悪魔でもない。ただの底意地の悪いガキだ。
「ウソつかないんじゃなかったの?」
「ウソはつかないぜ。でも冗談は言う」
そう言って、嫌見たらしく唇の端を持ち上げた。
本気でぶん殴ってやろうかと思ったけど、そんなことをして徳が消えてしまったらそれこそ身もふたもないので、私はぐっと堪えた。
「まったく、なんなのよ」
私はやり場のない怒りにまかせて叫んだ。
「まあまあ。落ち着けよ」
岡村くんがなんとか落ち着かせようとなだめるが、私の怒りは収まらなかった。
トイレ掃除改め、天使の手伝いとはトイレにある三つの個室の一番奥に札を貼ることだった。なんでもここが一度幽世とつながってしまったため、その調整が必要だという。天使に渡されたお札はご利益があるのかないのかよくわからない、どこにでもありそうななんの変哲もないざら紙だったけど、私は言われるがままお札を貼った。
「それならそうとちゃんと言いなさいよ」
「確かにな」
「なにが冗談よ。絶対私が勘違いするってわかっててやってるでしょ」
「だろうな」
「バカにしてるわ」
「うん」
「ていうか、ほんとに私がバカみたいじゃない」
「そうだな」
「なによ、岡村くんまで私のことをバカにするの!」
「してねえよ」
思わず八つ当たりしてしまい、私はまたやってしまったと我に返った。
「ごめんなさい」
「そんな顔すんなよ」
岡村くんは困った顔をした。
「幽霊なんぞに気をつかうなよ」
そう言って、岡村くんは笑った。まるで生きているのではと錯覚してしまうほど、彼の笑顔は鮮やかで、私はその温かみをしっかりと感じることができた。
それなのに、彼は死んでいるのだ。私は彼に触れることはできない。彼は私に触れることはできない。私だけじゃなく、この世のすべてに干渉することができない。彼はもうこの世の住人ではないのだ。それどころか、存在そのものを抹消されている。
「ごめん」
「だから謝んなっての」
「うん。ごめん」
謝ったところで意味はない。だいたい実が伴わない言葉だけの謝罪など、最も私が嫌うものだ。それをただひたすらに繰り返す自分があまりにも愚かで救いようもなくみじめで、私の心は張り裂けそうだった。憤ったところでどうしようもない。だけど感情は溢れ出すばかりでとめようもなく、私はしらないうちに拳を握りしめていた。
「やめとけよ」
叩き付けようとした拳をとめようと、岡村くんは手を伸ばす。その手が、私をすり抜けた。
「ははっ」
気まずそうに笑うのが、あまりにも悲しかった。
「まああれだな、とりあえず暴力はよくない。せっかくお札を貼って沈めたのに、殴ったりしたらまた起きちまうぜ」
「うん。そうだね」
ここでいつまでも落ち込んでいたら彼の気遣いを無駄にするので、私も務めて明るく返事をした。お札を貼り終えたドアを二人で眺め、ふと私は思った。
「ここってなにか曰くとかあるのかな」
「うん?」
「べつにお化けが出るとか噂があるわけじゃないでしょ」
そもそも私は天使に聞くまでこんなところにトイレがあることを知らなかった。
「どうして幽世なんかとつながっちゃったのかな」
疑問を口にすると、岡村くんはなぜか難しい顔をした。
「どうかした?」
「…………うん、あれじゃないかな。トイレってのは霊が集まりやすいんじゃないかな。風水的にも水回りは大事だろ。それにここはいらないものが集まる場所だしな」
「ふーん」
「いやいやいや、まあとにかくこれで万事オッケーだな」
そう言って、岡村くんは笑った。なにか誤魔化しているようで、わざとらしかった。
「岡村くんはさ、ここから幽世に落ちたんだよね」
「あ、ああ。そうだけど」
「ここでなにしてたの?」
「なにって、トイレですることは一つだろ」
私がむける疑いの眼差しに、岡村くんは明らかに動揺していた。
「それだけ?」
「そ、それだけだよ。ほら、もう戻るぞ」
岡村くんの後ろ姿を見ながら、私は絶対になにか隠していると確信した。そして、その秘密は天使によってすぐに白日の下にさらされることになる。それを知った私はああまったく、やっぱり彼はヘタレだなとしみじみと思った。トイレの花子さんで幽世に迷い込むとか、ほんとに勘弁してほしいわ。
19
幽霊になったというものの、俺自身に目立った変化はない。物に触れることができなかったり、矢部以外の人間には見えなかったり、多少の不便はあるが、その分便利だなと思う側面もあったりする。たとえば壁をすり抜けることができたり(さすがに女子更衣室を覗き見るなんてベタなことはやらなかった)、食わなくても腹が減らなかったり。ただ一つ困ったことといえば、暇だってこと。
とくにやることもなく一日の大半をぼおっと過ごし、しかも幽霊には睡眠など必要なく(それでも俺は眠るようにはしている)、そうなると一日の境目というのが曖昧になってくる。死んでも死にきれないから幽霊になるわけで、しかし人の記憶はいつか色褪せ忘れてしまうもの。そして幽霊というのは孤独であり、彼らに与えられた時間は永久だ。終わりの見えない長いマラソンコースを給水も休憩もなくただひとり走り続けるようなものである。そのうちなにも感じなくなり、どうして自分が走っているのかもわからなくなる。死んでも果たしたい何かがあったはずなのに、それすらもわからなくなってしまう。最後にはただ己が存在を保つだけに走る。走ることをやめたら、その時は二度目の死をむかえることになる。
幽霊になったお前が一番気をつけなければならないことは自我を保つことだと、天使は言った。すぐに俺は理解できなかったが、今はわかる。日が昇り、日が沈み、また昇って、まるで同じ場所をぐるぐると延々回り続けているような気持になって、ふと気がつくとあれからどれだけ時間がたったのかわからなくなる。連綿と続いている時間の流れにただ身を任していると、だんだんと自分の存在すら曖昧になりはじめ、俺が誰でここがどこでどうしてここにいるのか、そんな忘れるはずもないことを忘れてしまいそうになる。俺が今も俺として存在することができているのは、すべて矢部のおかげだった。
放課後になると、矢部は屋上まで俺に会いにきてくれた。そこで俺は今日が何日であるか、俺が幽霊になってから何日目かを確認し、それから軽く世間話をした。内容なんてあってないような会話だけど、今の俺にとっては矢部との会話が唯一の楽しみだった。
「それで天使のやつはなにか言ってたの?」
「いや、しばらくはのんびりしてろって」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょうに」
「まあねえ」
「なんか他人ごとね」
適当に相槌したのがわかったのか、矢部は表情を険しくした。
しかし実際のところ、俺にできることはなにもないのだ。死んだ俺がいくら祈り善行を積んでもそれはあまり意味のないものらしく、俺の代わりに矢部が祈り日々を品行方正に生き天使の手足となってこき使われている。いくらそれがルールだとか彼女もそれを了承済みだとか言われても、なんだか自分で作った借金を肩代わりさせているようでいい気はしない。それでも、結局死んだ人間にできることなんてなにもないわけで、私にまかせといてとか言われたら、もう全部丸投げして俺はどっしり構えていようと思った。
「でもさ、実際よくわからないよな」
ぷかぷかと胡坐をかいて宙に浮かんでいた俺はごろりと体を倒す。重力に縛られない身の上というのはなかなか快適だが、それでも最初は苦労した。宇宙飛行士ってのはこういう感覚なのかなと思ったけど、それが今ではNASAのクルーよりも船外活動を上手くできる自信がある。
「わからないってなにが?」
「徳って言ってもさ、それがどんなものなのかわからんじゃん」
「そうね。実際はただ天使に言われた通りに動くしかないわけだし」
「そこなんだよね」
俺はくるりと一回転して、矢部の隣に降り立った。
「正直、お前はあいつのことどう思う?」
「まあ、天使には見えないわよね」
「冗談で聞いてるんじゃねえよ」
俺がぐっと顔を近づけると、矢部は少し頬を赤くした。
「確かにあいつの言うことはそれっぽく聞こえるよ。でもさ、それは俺らがあまりにもなにも知らなすぎるからだろ。あいつの言っていることが本当かどうかなんて、そこに根拠はなにもないだろ」
そもそも、生き返ることができる保証はないのだ。あいつは生き返ることができるかもしれないというだけで、ただ可能性を示したに過ぎない。
「もう一週間だぜ」
時間が経過するにしたがい、俺の中にある生きたいという気持ちが薄くなっていく。そのことに気づいて、俺はちょっと焦った。
「俺は本当に生き返れるのかなあ」
「生き返られるわよ」
そう言って、矢部は俺を睨む。実体のないはずの体が、矢部の怒りでピリピリと焼けるようにしびれた。
「どうしてそんなこというのよ。あなたは生き返りたくないの?」
「そんなわけないだろ」
答えて、俺は自分がウソつきだと思った。俺は今の今までなにを考えていた。生きることをあきらめかけていただろ。
俺を睨みつけていた矢部はいつの間にか顔を伏せ、肩を震わせていた。
ああ、またやっちまった。ほんとに、すぐ泣く女だなあ。
「ごめん」
そう言って、俺は彼女の肩に触れようとしたが、むなしくすり抜けた。
生き返らなくてもいいやなどと、どうして俺は思ってしまったのだろう。泣いてる彼女に手を差し伸べることもできないなんて、いいわけないだろうが。
それからしばらく、俺と矢部はなにも喋ることなく、ただ二人沈んでゆく太陽を眺めていた。矢部がなにを思っていたのかは知らないけど、俺はただひたすらに猛省していた。
「ごめんなさい」
まず最初に、矢部は謝った。だけどその後でしっかりと、俺のことも悪いと言った。
「ああ。悪かったよ」
俺が謝ると、本当に悪いと思ってるのかしらと少し不服そうな顔をしながら、それ以上はなにも言わなかった。
外見からだけで想像すると、矢部は物静かで声を荒げることなんてないお嬢様だった。超がつくほどの美人でどこか孤高な雰囲気があって、教室なんかではいつも一人で本でも読んでいるだろうなと、俺は勝手に想像した。初めて会った時、誰もいない音楽室でピアノを弾く彼女の姿はあまりにもはまりすぎていて、俺は思わず息を呑んだ。
「確かにね、あの男は信用ならないわよ」
そう言って、矢部は苦い表情をした。
「見た目は胡散臭いし、言うことは曖昧だし、結局は自分たちで勝手に助かれみたいなこと言っといて自分の仕事を手伝わせたり。正直騙されてんじゃないかって思うわよ」
なにもそこまで言わんでもと思うほど、しばらく矢部の天使に対する口撃は続いた。
本当の矢部はとても気性が激しく、融通が利かず、ストイックな女の子だった。あと、泣き虫。
「つっても、今の俺たちにはあいつの言うことを信じるしかないんだけどな」
これ以上はさすがに天使が気の毒だったので、適当なところで口をはさんだ。
「あなたが先に言い出したんでしょ」
「まあそりゃそうなんだけど。もう暗くなってきたしそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」
そう言うと、矢部は不服そうな顔をしながらもうなずいた。
「だからね。私が言いたいことは、わからないことをあれこれ考えるより、できることをしたほうがいいでしょってこと」
階段を下りながら、矢部はまだ話し続けた。
「できることって天使を信じることか?」
「いいえ」
首を横に振ると、矢部は足を止めた。
「あなたが生き返ることを信じること」
彼女の瞳には迷いも疑いもない。天使も神も関係ない。俺が生き返ることは彼女にとって絶対なのだ。それが彼女の行動原理といってもいい。あまりにも単純で、盲目過ぎる。少しだけ、重たかった。
「お前ってさ、見た目と違ってめちゃ男前なやつだな」
「それって褒めてるの?」
「もちろん」
怪訝な顔をする矢部に、俺は頷き返した。
もう下校時間を過ぎているというのに、グランドでは部活の後片付けをする運動部の姿があった。そいつらをなんとなしに眺めていると、不思議な気持ちになった。つい一週間前までは、俺もあそこにいたのだ。毎日学校にきて、部活をして、くたくたになって家に帰る。そんな平凡で退屈な毎日が、まるでもう何百年も前の事のように感じられた。
「それじゃあ、また明日ね」
矢部の声で、俺は自分がいつのまにか校門まで歩いていたことに気づいた。
「どうかしたの?」
「いや」
首を傾げる矢部に、俺はまたウソをついた。
「本当は家まで送ってあげたいけど」
「大丈夫よ」
「そうか」
たとえ大丈夫じゃなかろうと、俺はここまでだ。
校門から先に俺はでることができない。地縛霊である俺は学校の敷地からはでることができない。
「以外に不便なもんだよな、幽霊ってのも。一刻も早く生き返らないと」
冗談を言うと、矢部はむっとした。
「見てなさい、私が絶対にあなたを生き返らせて見せるから」
びしっと指を突き立てて、矢部は宣言した。唐突過ぎて、俺はとっさに言葉を返すことができなかった。沈黙する俺を見て、恥ずかしくなったのか矢部は顔を赤くして背をむけた。
「と、とにかく、私は絶対あきらめないから」
そう言って、矢部は走り去った。小さくなっていく背中を見送りながら、俺は改めて彼女の男らしさに胸を熱くするのだった。




