第7話 裏ステータス【時間逆行】
朝食の後、リリアはアレクシスに誘われて公爵邸の庭園へと出た。
杖をつくアレクシスの腕に寄り添いながら、石畳の小径をゆっくりと歩く。今日の彼はとても体調が良さそうだった。聖女の祝福の後には必ず反動が来ると聞いていたのに、それが全く見られない。曲がりがちだった背筋が今日はすっと伸び、目には鮮やかな光が宿っていた。
(こうしてアレク様と並んで歩けるなんて、嬉しいわ)
昨日より少しだけ暖かい気がする。冬の庭にも、朝の光は柔らかかった。
「せっかくだから、氷晶庭園に行ってみないか?」
アレクシスが穏やかな声でそう言った。
氷晶庭園――公爵領が産地とする魔力結晶をふんだんに使った温室のことだ。魔力結晶で覆われたガラス張りの室内には、雪でも凍らない温水泉があり、夜になると青白く輝くという。その美しさはリリアの故郷の伯爵家にまで伝わっていた。
「はい、ぜひ! 一度見てみたいと思っていたんです」
執事長から、氷晶庭園には公爵と庭師以外は立ち入れないと聞いていた。いつか訪れてみたいと思いながらも遠慮していた場所だっただけに、誘ってもらえた嬉しさが胸に広がる。
アレクシスはわずかに眉を上げた。
「まだ入ったことがなかったのか? きみなら、いつでも入ってもらって構わないのに。スペアキーも後で届けさせよう」
「まあ……! ありがとうございます」
その好意が、じんわりと心に沁みた。
温室に足を踏み入れると、清らかな緑の香りが鼻腔を満たした。天井の中央からは氷の結晶に似た宝石が吊り下げられ、壁面のガラスに埋め込まれた透明な魔力結晶を通して、太陽の光が柔らかく差し込んでいる。その光の中で、アレクシスの薄氷色の瞳が透き通った色彩を湛えていた。
「暖炉もないのに、室内がこんなに暖かいのですね」
リリアが感嘆しながら言うと、アレクシスは目を細めた。
「魔力結晶が外の冷気を遮断しているからな」
四季折々の珍しい花々が丁寧に手入れされ、噴水が水面を静かに叩いている。その音を聞きながら、ふたりはゆっくりと温室の中を歩いた。
(なんて穏やかな時間なの……こんな日がずっと続けばいいのに)
そう思った瞬間、アレクシスが足元でよろめいた。
「危ない!」
リリアは反射的に、その胸元に両手を添えた。
(アレク様を……!)
――その瞬間だった。
体の内側から何かが溢れ出て、掌から流れ出ていくような不思議な感覚があった。直後、ふわりと足元がぐらつくような疲労を覚える。
(えっ……またこの感覚……?)
「……アレク様、大丈夫ですか?」
「ああ。すまない、少し眩暈がしただけだ」
アレクシスはそう言ったが、どこか戸惑ったように自分の手を見つめていた。
「あちらのベンチで少し休みましょう」
ふたりは温室の中央にあるベンチに腰を下ろした。噴水の音が耳に心地よく響く。リリアが目を閉じてその音に安らいでいると、アレクシスが口を開いた。
「少し歩くだけでも息が切れる。膝が痛む……年を取るのは嫌なものだな」
自嘲めいた笑みが、その唇に浮かんだ。リリアの胸が、きつく締めつけられる。
(アレク様はまだ二十八歳なのに……)
本来ならそんなことを感じる年齢ではないはずだ。けれど《老化症》が、彼からすべてを奪っていった。
「《老化症》は進行していく。きっと来年には……」
彼が呑み込んだ言葉の先は、風に溶けて消えた。
あと半年も経てば、寝たきりになる。その残酷な現実が、静かにふたりの間に横たわっていた。
アレクシスはきつく目を閉じて、何かを考えこんでいるようだった。リリアはその手に、そっと自分の手を重ねた。骨ばった老人の手だったが、確かな温かみが掌から伝わってくる。
「私にはアレク様をお助けすることはできませんが……ずっとそばにおりますから」
微笑みながらそう言うと、アレクシスは目を見開き、それから柔らかく笑った。
「そばにいてもらえるだけで幸せだよ」
「アレク様……」
どうしようもない切なさが、胸の奥に満ちてくる。
「……せっかくきみのような素敵な女性に出会えたのに、こんな老いぼれではな」
ぽつりと漏れた言葉には、かすかな悔しさが滲んでいた。
しばらく沈黙が続いた後、アレクシスが静かに口を開いた。
「実は……私は【真理看破】というスキルを持っている。触れた対象の『偽り・契約・呪い』などを視認できる能力だ」
(【真理看破】……王家の稀少血統スキルだわ)
リリアも話に聞いたことはあるが、目にしたことはない。王家の中でも、ごく一部の者にしか与えられない貴重なスキルだ。つまりアレクシスに触れれば――正確には触れられれば――嘘は通用しないということになる。
「聞いたことがあります。素晴らしい能力ですね」
「いや、厄介な能力だと常々思っているくらいだ。相手の秘密まで見えてしまうから、知りたくもない真実を知ってしまうこともある」
「そうなのですね……」
スキルを持たないリリアからすればとても羨ましいが、持ち主の苦悩もあるのだろう。これまでのアレクシスの歩みを想像して、リリアはそっと目を伏せた。
「……きみに触れた時、いつも不思議な違和感があってな。私の能力できみのスキルを確認しても良いか?」
「もちろんです」
驚きのあまり声が上ずってしまう。
(調べていただいても、どうせ何も出ないはずだけれど……)
「少し怖いかもしれないが、耐えてくれ」
怖い? アレクシスを怖いなど思うはずが――そう思うより先に、アレクシスの手がそっとリリアの手に重なった。
ぶわりと全身に鳥肌が走った。
何か人間を超えた巨大な存在に、間近でじっと見つめられているような感覚に陥る。その圧倒的な威圧感に、喉からひゅっと息が漏れた。
アレクシスは神妙な面持ちで何かを丹念に調べるように目を細めていたが、やがてゆっくりと手を離した。
体の強張りが、ほどけていく。思っていたよりずっと緊張していたらしい。
「ど……どうでしたか?」
「……やはりか」
アレクシスが静かに呟いた。
「どういうことですか?」
「リリア、きみはスキルがないと言われたんだよな?」
「え……? ええ。そうですが……」
幼少期に神殿で、そう告げられたのだ。
しかしアレクシスは首を縦に振る。
「確かにきみにスキルはない………ように見える。だが……奥のほうに、何かが見える」
「それは一体……」
リリアは困惑した。
(まさか私に隠しスキルがある? 【真理看破】というアレク様のスキルだからこそ、分かるのかしら)
「高位神官ができる鑑定はスキルのみだ。だが、きみのそれはスキルというより"状態"に近いのだろう。非常に強い能力が宿っているが、まるで意図的に隠されているかのように……深いところにある。害があるものではないようだが」
(私のスキルは、ないわけじゃなかった……?)
いや、アレクシスは"状態"と言ったから、正確にはスキルではないのかもしれないが……。
現実感が湧いてこない。リリアは呆然としたまま尋ねた。
「では……私の本当の能力とは?」
アレクシスは重々しく口を開いた。
「私の目には、こう見える。裏ステータス――【時間逆行】と」
リリアは固まった。
(【時間逆行】……それはつまり……)
「そんなことが、あり得るのでしょうか……? 時を操る能力など、聞いたこともありません」
「だが、事実だ。きみがそれを使えるかはわからないが、確かにきみの中にある」
リリアは息を飲んだ。
(もしかして……無意識のうちに、使っていたの?)
昨日もあの感覚があった。アレクシスに触れた瞬間に何かが流れていった、あの不思議な感覚が。
アレクシスの顔をじっと見つめる。聖女の祝福を受けた翌日とは思えないほど疲労が見られない。むしろ今朝は調子が良さそうだった。もしも、それがリリアの【時間逆行】によるものだとしたら――。
(この方の病を、治したい)
リリアは強くそう思った。能力を使うとだるさが出ることは分かっている。でも、そのくらい大したことではない。この人を救えるなら。
これまで能力が発現しなかったのは、誰かのために強く願う気持ちが足りなかったからかもしれない。それだけ、自分のことで精一杯だったのだ。
(でも、今は違う)
「アレクシス様、恐れ入りますが手をお貸しいただけますか」
「……構わないが」
戸惑いながらも差し出された手を、リリアはそっと両手で包んだ。目を閉じて、静かに意識を集中させる。
(彼の病を治したい。時間を、戻して)
「リリア、無理はするな」
「いいえ」
リリアは首を振った。
「私に時間を遡る力があれば、アレクシス様のお力になれます。だから」
「……そんなことが本当にできるのか?」
「分かりません。でも、試してみたいのです」
「……分かった。きみの意志を尊重しよう」
リリアは頷き、目を閉じた。
彼の手の温かさを感じながら、ただひたすらに願う。
(どうか……時を戻して!)
次の瞬間、掌から暖かな光が放たれていくような感覚があった。
視界の奥に、巨大な白い文字盤が浮かび上がる。その長針と短針が、ものすごい速さで逆回転していく。
――強い風が吹いた。
目の前の景色が揺らぎ、空気が一瞬鋭く張り詰めたかと思うと、すべてが静止した。
「これは……」
アレクシスの声が、遠くから届くように聞こえた。
ゆっくりと視界が戻り、リリアはベンチにしっかりと座ったままの自分を感じた。時間が止まり、また動き始めたような、不思議な感覚。
そしてアレクシスを見て、リリアは息を呑んだ。
「アレク様……! お顔が……」
目の前にいる人物は、見覚えのあるアレクシスとは明らかに違っていた。長い銀髪は白みを帯びているものの、背筋がすっと伸び、頬には血色が戻り、刻まれていた皺が見違えるほど薄くなっている。六十代ほどに見えるが、皮膚の張りや目の輝きは別人のようだった。
「そのようだ」
アレクシスも自分の変化に戸惑いながら、どこか呆然とした声で言った。
「体が……軽い。まるで若返ったようだ」
その瞳に、希望の光が宿っていた。
「時間が逆行したのか……きみの能力で?」
「おそらく……」
まだ混乱しながらも、リリアは頷いた。
「あの瞬間、時計の針が逆に動く感覚がはっきりとありました」
アレクシスは一瞬黙り込んだ後、ゆっくりと立ち上がり、自分の体を確かめるように腕を伸ばした。その動作に、以前とは違う軽やかさがある。
「膝の痛みがほとんどない。もう杖も要らなそうだ」
そして、リリアの両手をそっと握りしめ、深々と頭を下げた。
「本当にありがとう、リリア」
(良かった……私の力が、アレクシス様のお役に立てた)
感謝の言葉に、涙が込み上げてくる。役立たずと言われ続けてきた自分が、この人を救えたことが、誇らしくてたまらなかった。
「もう一度……もっと若返らせてあげたい」
そう思い、再び力を集めようとした瞬間、強い眩暈がリリアを襲った。
「うっ……」
「リリア!!」
倒れかけた体を、アレクシスが素早く片腕で支えた。
「大丈夫か? 無理はするな。能力の反動かもしれない」
リリアは首を振った。
「でも……早く治してあげたくて」
「そんなことより、きみの体の方が大事だ」
アレクシスは揺るがない声でそう言った。
「リリア、きみは私に希望をくれた。能力に目覚めたばかりなのだから、焦らなくていい。まずきみの体に異変がないかを確かめながら……もし大丈夫だと分かった時に、ゆっくりと時間をかけて治療を続けてくれればいい。それで充分だ」
慈しむような眼差しが、リリアをまっすぐに見つめていた。
(アレク様……)
この人を救いたい、と改めてリリアは心の底から思った。




