第6話 公爵夫人という居場所
公爵邸の朝は、以前よりずいぶん穏やかになった。
天候のせいでも、季節が移ろったせいでもない。空気そのものが、静かに変わったのだ。人々の息遣いや日々の動きが、まるで誰かの手で丁寧に整えられたかのような――そんな不思議な印象があった。
リリアが居間に足を踏み入れると、廊下に控えていた使用人たちがさりげなく道を空けた。ごく自然な所作で、恭しく頭を下げる。
「おはようございます、奥様」
「おはよう。今日も冷えるわね」
短く交わされる言葉が、静かな朝の空気に溶けていく。それだけで場がほのかに和らいだ。
いつの間にか、そんな光景が日常になっていた。
かつてのリリアは、この屋敷において「厄介払いで嫁がされた令嬢」に過ぎなかった。《老化症》に侵された公爵の、名目だけの妻。婚姻の体をなしてはいても、その実態は名ばかりのものだと誰もが薄々知っていた。彼女がここへ来たのは愛のためではなく、家の都合のためだと。
けれど今は違う。
使用人たちがそれを言葉にするわけではない。「奥様を信頼しております」などと、改まって口にする者はいない。ただ――態度が、変わった。
報告は以前より丁寧になり、ごまかしや隠し事が減り、リリアに判断を仰ぐ声が増えた。些細なことでも「奥様はどうお考えになりますか」と問いかけてくる者が現れた。
その変化は「信頼」という言葉よりも、ずっと雄弁だった。
「奥様、こちらをどうなさいますか?」
料理長が差し出したのは、食材の仕入れ表だった。以前ならこうした判断は執事が代わりに下すか、公爵の名を形だけ借りて処理されていた。リリアの意向が問われることなどなかった。
リリアは表に目を通し、少し考える。
「こちらは量を減らしても良さそうね。その分、滋養のあるものを公爵様用に回して」
「承知しました」
リリアの判断が常に公爵の体調を第一に置いたものであることを、もう料理長は知っていた。だから異論を唱えない。
そのやり取りを、ミレイユは少し離れた場所から眺めていた。
(……自然になったわ)
以前は、リリアの言葉ひとつひとつに周囲がわずかに身構えていた。権威を振りかざされたらどうしようと、どこかで測るような間があった。すぐに出て行くかもしれない方に任せるわけにはいかないと思った者もいたかもしれない。何より執事長は最初から、このような令嬢に帳簿のことなど分かるはずもないと、どこかで舐めてかかっていた。
だが今は違う。これほど見事に屋敷の仕事をまわせるとは、執事長も想像していなかっただろう。
(リリア様は――公爵夫人にふさわしい方だわ)
ミレイユ自身もいつの間にか、リリアの指示を仰ぐことを前提に動くようになっていた。
「ミレイユ、午後の予定だけど……」
「はい、奥様。お部屋の準備をしておきますね」
呼びかけに応えながら、リリアはそっと微笑む。その微笑みで、ミレイユの胸の奥がじわりと温かくなった。
◆
今朝、食堂を訪れると、アレクシスはすでに席についていた。
《老化症》によって白くなった髪は変わらない。深く刻まれた皺もそのままだ。それでも――。
「おはようございます。今日は少し、お顔の色が良いですね」
リリアがそう言うと、アレクシスはゆっくりと顔を上げた。
「ああ……不思議なものだ。今朝、目が覚めた時、指がほんの少しだけ……動かしやすかった」
ほんのわずかな変化だった。劇的な回復などではない。それでも昨日までとは確かに何かが違っていた。
リリアは胸の奥で、静かに息を詰めた。
(……聖女様の治療の後なのに)
神殿から派遣された聖女は確かに治療を行った。しかしその後のアレクシスの回復は、いつもの治癒の後とは説明がつかないほど違っていた。まるで――時間そのものが、そっと少しだけ巻き戻されたかのように。
「ご無理はなさらないでください」
そう言いながら、リリアはそっと彼の手に触れた。アレクシスはじっとリリアを見つめていた。
「……君がいると、不思議と呼吸が楽だ」
感謝とも、依存ともつかない言葉だった。リリアは少しだけ困ったように笑う。
「それなら良かったです」
それ以上は、言わなかった。ふたりの間に、穏やかな沈黙が降りた。
朝の光が窓から差し込んで、白い髪の上に静かに積もっていく。リリアはその光景を、何か大切なものを見るようにそっと目に焼きつけた。
「……屋敷での仕事も、リリアがうまくこなしてくれていると執事長から聞いている。私が行き届かないところまで引き受けてくれて、本当に感謝する」
思いがけない言葉に、リリアの頬がじわりと赤くなった。
「……必死にやってきただけです。まだ失敗も多くて、執事長の手を借りてばかりで」
「謙虚だな。……きみは」
アレクシスは微笑み、リリアの頭をそっと撫でた。
(――嬉しい)
この屋敷で、ようやく役に立てていると思えた。その実感が、今のリリアには何よりも大切だった。
◆
朝食が終わると使用人たちは厨房の片隅に集まり、今日の作業について話し合っていた。
「公爵様、今日は朝食を完食されましたね!」
「本当に驚いたわ。あんなに召し上がれるなんて……」
「奥様のおかげよ。本当にありがたいこと」
誰も大きな声では言わない。それでも厨房の空気は温かく、リリアへの信頼がそこに確かにあった。言葉にはされなくても、公爵夫人を中心に、屋敷の皆がひとつにまとまっている。
ミレイユはふと、神殿から来た聖女の姿を思い出した。
完璧な微笑み。形式通りの祈りの言葉。そして――なぜか感じる、奇妙な空虚さ。
(……同じ身分の高い方でも、奥様とはまったく違うわ)
なぜそう感じたのか、上手く言葉にはできなかった。ただ胸の奥に何かが引っかかる。それでも、ひとつだけ確信していることがあった。
(もし奥様がいなくなったら……この屋敷は、もう元には戻れない)
それほどまでに、リリア・エルフェンハイン・ローデンヴァルトはこの場所の中心になりつつあった。
穏やかな、しかしどこか嵐の前夜を思わせるような、不思議な静けさがあった。




