第9話 おめかし
外出の支度のために部屋へ戻り、ミレイユの手を借りて身支度を整えることにした。
公爵邸にやってきてからまだわずかな日数しか経っていないのに、リリアはすでにずっとここで暮らしてきたかのように馴染み始めていた。屋敷の人々が皆親切だからだろう。
「公爵様が若返られて、屋敷の皆が本当に驚いておりますのよ」
ミレイユが針を動かしながら言った。
アレクシスの変化は今や誰の目にも明らかで、屋敷中の話題になっていた。アレクシスはそれがリリアの能力によるものだと皆に説明せざるを得なくなり、中にはリリアに接触を求める者も現れた。しかしアレクシスがその者たちをきっぱりと警戒し、リリアに近づけないよう厳しく命じてくれていた。
「騒動を起こしてしまってごめんなさい」
「とんでもございません。私たちこそ、奥様に感謝しております」
深々と頭を下げた後、ミレイユは真剣な顔でリリアを見つめた。他の侍女たちも揃って頷いている。
「アレクシス様はもう長くはないと……誰もが思っておりました。私もいつかお別れする日を、覚悟していたんです」
ドレスの裾を整えるミレイユの手つきは丁寧で優しく、その瞳はうっすらと潤んでいるように見えた。
リリアはここに来たばかりの頃のことを思い出す。あの頃の使用人たちの視線には、同情と憐れみが混じっていた。老人公爵の嫁、捨てられた令嬢――そんな目で見られていたことは知っている。けれど今、ミレイユたちがリリアを見つめる眼差しには、どこか敬意に近いものが宿っていた。
「リリア様のおかげで、公爵様は不治の病だった《老化症》を克服できました。どれだけ感謝してもしきれません」
「いいえ、私もアレク様のお力になりたかっただけです」
「それでも……」
「でも本当に良かったわ。皆さんが喜んでくれていて。アレクシス様に喜んでもらえれば十分だと思っていたのに、屋敷の人たちまでこんなに嬉しそうにしてくださるなんて」
リリアが心からの笑みを浮かべると、侍女たちの表情がぱっと明るくなった。
「それでは! 公爵様が見惚れるくらい素敵にいたしますね!」
侍女たちが俄然張り切り出した。
「そんな大げさな……」
リリアは苦笑した。
(お散歩に行くだけなのに)
「いいえ! これは私たちの使命ですわ。公爵様が惚れ直されるような装いにして差し上げます!」
「ほ、惚れ直すって……」
リリアの顔に熱が上った。
(そもそも、アレク様は私に恋をしているわけではないのに……)
これが政略結婚だということは分かっている。アレクシスのことを非常に好ましいと感じているが、彼がリリアをどう思っているのかは、まだ分からない。でも……違うかもしれない、という予感が、どうしても消えてくれない。
(……でも、皆が楽しそうだから良いか)
せっかくの機会だ。リリアも今日くらいはおしゃれを楽しむことにした。
ミレイユが最後の針を抜きながら「これで良し」と満足げに頷いた頃、そうして出来上がった姿を鏡で確認した途端、侍女たちが口々に歓声を上げた。
「まあ! なんてお美しいのでしょう!」
手を叩いて喜ぶミレイユの隣で、他の侍女たちも拍手をする。あまりの賑やかさにリリアは照れくさくてたまらない。
纏っているのは、リリアの瞳と同じ柔らかな淡い緑色のドレスだ。繊細なレースがさりげないアクセントを添え、胸元には小さなリボンが施されている。シンプルながらも可憐なデザインが、リリアの清楚な雰囲気をほのかに引き立てていた。
淡い金髪はアップスタイルにまとめ、耳元にはパールのイヤリングを添えることで大人の品を加えた。化粧は華やかすぎず自然に仕上げられ、リリアが元来持っている透き通るような美しさを損なわないよう丁寧に整えられていた。
鏡の中の自分を見て、リリアは思わず手を口に当てた。
「素敵……」
(私がこんな姿になるなんて)
いつもは地味なドレスしか着てこなかっただけに、新鮮で不思議な気持ちがした。伯爵家では継母たちの脱いだものを繕って着ていた自分が、こんなふうに着飾る日が来るとは思っていなかった。
「ミレイユ、ありがとう」
「いいえ! 当然のことをしたまでですわ。公爵様もきっとお喜びになりますわよ!」
「そうかしら……」
リリアが首を傾けていると、扉がノックされた。アレクシスが迎えに来たのだ。
扉が開くと、そこに立っていたのは――黒い軍服を纏ったアレクシスだった。
漆黒のロングコートに厚手のマント。白い手袋を嵌めた手がすっと腰に添えられ、腰には剣が帯びられている。肩章に縫い込まれた金糸が、廊下の光を受けてかすかに輝いていた。軍帽が、凛とした顔立ちをさらに引き締めている。
普段見慣れない正装姿に、リリアの心臓がどくりと跳ねた。
(こんな素敵な方の隣を歩くなんて、気後れしてしまいそう……)
妻であることも忘れそうになるほど、目が離せなかった。
「リリア、準備でき――」
アレクシスの言葉が、途中で途切れた。
リリアの姿を目にした瞬間、言葉を失ったように視線が止まる。薄青の瞳がゆっくりとリリアのドレスの裾から顔へと上がり、そこで止まった。無意識に、白い手袋を嵌め直すような仕草をする。
「……」
(あら?)
予想外の反応に戸惑いながらも、リリアはたまらず視線をそらした。
(何かおかしかったかしら……?)
不安になっていると、アレクシスはハッとしたように我に返り、咳払いをひとつした。
「……その服、とても似合っているよ」
「本当ですか?」
「ああ」
そう言って微笑んだ顔が、いつもよりずっと柔らかくて、リリアの胸がふわりとほどけるような感覚があった。
(褒めてもらえた……!)
嬉しさに満面の笑みが溢れる。ふたりはしばらく見つめ合ったまま、どちらも言葉を出せずにいた。
ミレイユが小さく手を叩いて、ふたりの意識を引き戻した。侍女たちが興味津々でこちらを見ているのに気づいて、リリアは慌てて視線をそらす。
「さあさあ! お二人ともお邪魔してしまい申し訳ありません。どうぞお出かけになってくださいませ!」
にこやかにそう言いながら、ミレイユはリリアの肩に白銀の狐の毛でできたフード付きコートをふわりと羽織らせた。フードの縁を飾る長い毛並みが頬に柔らかく触れ、顔まわりをほんのりと華やかに見せてくれた。
(なんだか恥ずかしいわ……)
「……では、行こうか」
アレクシスが気を取り直したように言って、すっと腕を差し出してきた。
「はい、アレク様」
リリアはそっと自分の手を彼の腕に添えた。
以前のように杖をついた彼を支えるのではなく、エスコートしてもらえるこの感覚が、面映ゆくもたまらなく嬉しかった。




