第40話
その頃、サイダル側のある村では郷士の奉公人が主君に酒を注いでいた。
「領主様からユナトの動きを見張れと言われてもう随分経ちますが、何も動きがありませんなあ」
「全くだ。対岸では何やら築城しておるようだが、そんな場所から渡河してくるとも思えん」
中年の郷士はそう言い、注がれた果実酒をぐっと呑む。
「普通に考えれば、築城が終わるまではユナトの連中も動くまい。だがまあ、国王陛下の布令には逆らえん」
郷士は苦笑し、老齢の奉公人にも酒を注いでやる。
「そのおかげで、こうして見張りにかこつけて晩酌を延長できるのだ。夜の河を眺めながらの一献も乙なものであろう?」
「ええ、実に風流なもので」
二人とも視線はずっとリュジオン河に向けており、見張りの任務は怠っていない。
「今宵もユナトの漁民どもは夜釣りですか」
「こちらの漁民たちにもその旨の申し入れが来たそうでな、まあ好きにさせておけばよい。魚など夜に獲らずとも昼間にいくらでも獲れように」
リュジオン河の漁業資源は豊富で、いちいち目くじらを立てるようなものでもない。いつか枯渇するかもと心配する者もいなかった。
奉公人が目を細める。
「あれがおりますと、敵が攻め込んできてもわかりませんな」
「そう、それが不安でなあ。しかし漁民どもの取り決めに、士分が首を突っ込むと煙たがられる」
「はは、確かに」
郷士は在郷の士分であり、農民たちと生活を共にしていても明確な身分の線引きがあった。そこを踏み越えると厄介なことが起きる。
奉公人は、陶器の杯に注がれた果実酒をちびりと舐める。
「夜釣りが始まって、もう二十日ほどになりますか」
「まだそんなものか。毎日眺めているから、すっかり見慣れてしまったが……」
不審な動きがないかじっと見守っているが、外の暗がりはあまりはっきりとは見えない。ユナトの釣り舟たちは、いつも通りの動きで少しずつ下流に流れていくようだ。
「ふむ、今宵も何事もなさそうだな」
「左様ですな。暗くてよく見えませんが、あの程度の舟では大した兵は運べませんし」
「そういうことだ。毎日毎日心配していては身がもたぬ。どうせ他の村も見張っておるだろうしな」
ふぁーあと大あくびをした郷士は窓辺から離れる。
「まあ何もあるまいが、一応見張っておいてくれ。明日は朝から来客があってな」
「かしこまりました」
「もし一人で不安なら、適当に誰かを起こしてもよいぞ」
「お気遣いありがとうございます。しかし酒を独り占めする方が嬉しいですな」
「違いない」
二人はハハハと笑い、郷士は寝室へと戻っていった。
* *
真っ暗なリュジオン河に、漁民たちの漁り火が揺れている。
「あれが偽装工作だと気づかれていないかな?」
メステスが不安そうにつぶやくが、それは俺にもわからない。
「もともと夜間の出漁はあったそうだから、不審には思われていないだろう。二十日ほど続けて慣れさせてあるし」
そう言ってみたが、やはり自信はない。
夜間に常に舟がいる状態にしておけば、ユナト軍の渡河作戦を見られても「ああ、漁民の舟か」と思われるだろう。思われるはずだ。たぶん。
カナティエ率いる先遣隊は松明を灯さずに下流に向かった。
「そろそろ廃城に着いたかな?」
「どうだろうな……」
サイダル側の対岸には古い廃城がある。過去に氾濫で損壊し、そのまま遺棄された城だ。本格的な攻城戦には耐えられないが、使い捨ての橋頭堡としては十分だ。
敵との交戦はまだ始まっていないが、戦争はもう始まっている。この暗闇の中、事態は確実に進行しているのだ。
しかし何にも見えないので、今は待つことしかできない。
前回の戦いでは交渉役として最前線にいた俺だが、今回は後方で見守るだけなのがもどかしい。
カナティエは無事だろうか?
不安は募るが、姫の周囲には伝令や衛兵などが多数控えている。彼らも先遣隊の安否は気になっているはずだ。
彼らの士気にも関わるので、最側近の俺が落ち着かない態度を見せる訳にはいかなかった。
俺とメステスは無言のまま、夜の河をじっと眺める。
すると姫が首を傾げた。
「これメステスよ、何をそんなに気を揉んでおる?」
「そりゃ気を揉みますよ。むしろ姫はカナティエ殿のことが心配じゃないんですか? 渡河中に敵に攻撃されたら何もかも終わりなんですよ」
メステスが呆れたように問い返すが、姫はますます首を傾げる。
「攻撃されるはずがなかろう。敵はリュジオン河に舟がいることに慣れきっておる。そうなれば何を見ても普段通りと判断してしまい、些細な異変にも気づかぬものだ」
「そうかな……」
メステスはまだ首を傾げているが、彼の本領は政治的な根回しであって兵法ではない。
ただ俺もこの作戦には不安があるんだよな。そうそう都合良くいくだろうか。
しかし姫はのほほんとしている。
「カナのことゆえ、手際よくやっておるはずだ。おぬしたちは慎重すぎて、こういう任務には向いておらん」
メステスが不機嫌そうに返す。
「すみませんね、深謀遠慮で」
「慎重としか言っとらんぞ。まあよい」
姫は腕組みして夜の闇を見つめる。
「人は日常にしがみつく。平穏な日常、平和な安息が明日も続くと、心のどこかで信じたがっているのだ。その願望の根拠を一欠片でも残しておいてやれば、勝手にそれを信じようとするものよ」
前世で正常性バイアスと呼ばれていたものだ。人間の心理は異世界でも変わらないから、その説明には説得力があるように思える。
だがそれを説いているのは、まだ十四歳のあどけない少女だ。
この子、本当に十四歳か?
同じことを思ったのか、メステスが笑いながら肩をすくめる。
「まるでこの世の全てを見てきたような言いぶりですね」
「そんな訳なかろう。だが私が今言ったことには、おぬしも思い当たる節があるのではないか?」
するとメステスは皮肉っぽい笑みを引っ込め、真顔で応じた。
「ええ。平穏な日常を信じさせるのが、聖流教大慈派の存在意義ですから」
疫病や飢饉や戦乱に脅かされるこの異世界で、信仰は数少ない救いだ。相互扶助や死後の救済、価値観の共有など、さまざまな安寧を約束してくれる。
だからこそ、絶望も逃散もせずに働き続けられるのだ。
メステスは軽く溜息をつき、法衣の襟を整えた。
「ま、うまくいくなら何でもいいですよ。僕の仕事は戦が終わった後ですからね」
「うむ。すぐにおぬしの出番が来るゆえ、準備しておくがよい」
そのとき衛兵たちが慌ただしく駆け込んでくる。漁民の服装をした伝令兵と一緒だ。
「先遣隊より伝令! 対岸下流の廃城を確保したとのことです! 兵の損失なし!」
「御苦労」
姫はうなずき、即座に命じた。
「全軍、渡河作戦を開始せよ! 夜明けまでに廃城周辺に布陣するのだ!」




