第39話
季節がゆっくりと移ろい、秋が訪れる。
河で泳ぐのは少し厳しくなってきた、そんな時期の夜。
「申し上げます!」
駆け込んできた伝令兵が膝をつき、甲冑姿の姫に報告する。
「先鋒の渡河準備、整いましてございます! 御命令あればいつでも参ります、とのことでした!」
姫はマントを翻し、力強くうなずく。
「御苦労! ただちに渡河を開始するよう申し伝えよ!『全ての予定に変更はない』とな!」
「ははっ!」
伝令兵が一礼し、鎧をガチャガチャ鳴らしながら走り去っていく。
俺はその後ろ姿を見送りつつ、姫に言う。
「いよいよですね」
「うむ」
俺たちはそれ以上の会話はせず、眼下に広がる光景を眺めた。
ルマンデ城……というかルマンデ集積所の高台からは、暗闇の中で蠢く軍勢が一望できる。
「あれ全部、姫の指揮下の兵ですよ」
「ううむ、今さらながらに胸が躍るな。総勢二千もの兵力か」
満更でもなさそうな笑みを口元に浮かべて、姫は俺を見上げる。
そしてフッと自嘲的な笑みを浮かべる。
「借り物だがな」
「二千人の兵士を養うだけの領地を持ってませんから」
二千もの兵士を他国に派兵するには、その数十倍の人間が故郷に残っている必要がある。十万二十万の人口があってようやく、二千人の兵士を敵地に送り込めるのだ。
フィオレ王女の領地はマルダー村だけ。老人から赤ん坊まで全員武装させても二千人には遠く及ばない。
「もし農繁期に兵を動かしていたら、借りられる兵はこの半分以下ですよ」
「それは困るな……やはり常備兵を持つしかないか」
「給料どうするんですか」
戦争はとにかく金がかかる。いつ終わるのかもわからないので、出費の総額が読めないのも怖い。
「とにかくこれだけ借りられましたから、ちゃちゃっと終わらせましょう」
「うむ」
「渡河作戦でいきなり壊滅だけは勘弁してくださいよ?」
実は今回、リュジオン河を無事に渡れるかどうかが最大の懸念事項だ。
行軍中の軍勢は弱いが、特に渡河中は弱い。防戦どころか逃げることすらできないので、何かあれば簡単に壊滅する。
すると姫は俺をじろりと睨んだ。
「おぬしの心配性は知恵者のそれであると評価しておるが、ちとくどいぞ。敵方はこれが軍勢であるとは決して気づかぬ」
「本当ですか?」
姫のこの自信がどこから出てくるのか、俺にはわからないんだよなあ。軍才の差を感じる。姫が本当に天才だとしたら、の話だが……。
「ええい、そのように疑わしげに私を見るでない。それよりも前を見よ」
姫が指揮杖で前方を示す。
ほぼ真っ暗で何にも見えないが、微かな月明かりに照らされて水面を舟が滑っていくのがかろうじて確認できた。数は不明だが、予定では十八になっている。
俺はそれをじっと見つめ、それから姫と視線を交わす。
「今はカナティエ殿の武運を祈りましょう」
「そうだな」
頼むから無事でいてくれ。
* *
小舟に詰め込まれた兵士たちは、鎧らしい鎧を着ていなかった。腰に剣を差しただけの軽装だ。
「どうにも心細いな……」
「舟がひっくり返ったとしても泳いで進まにゃならんからな。剣は捨てるなよ」
貴族の奉公人や郷士などで構成される先遣隊は、技術と経験ともに農民兵とは比較にならないほどのベテラン兵士たちだ。
そんな彼らたちでも不安は隠せないらしく、ひそひそ声が聞こえてくる。
「隊長が小娘ってのも気に入らねえな」
「しっ、聞こえるぞ。ありゃ王女殿下のお気に入りだ」
「本当にそんなので大丈夫なのか?」
すると別の兵士が答える。
「それはわからんが、こないだ攻め込んできたサイダル軍の大将を一騎討ちで倒したのは、あのお嬢ちゃんらしいぞ」
「マジかよ?」
「この辺じゃ有名だぞ。ガソー公を桟橋ごとぶった斬った女豪傑だって」
兵士の言葉には少し誇張が入っていたが、全て事実である。
船尾の方で別の会話が聞こえてくる。
「あの女隊長、敵の将軍をぶった斬って桟橋をひとつ沈めたらしいぞ」
「バケモンじゃねーか」
「けど、そうでもなけりゃ隊長に任命されないだろ。上陸先遣隊の隊長なんて遊びでやるもんじゃねえぞ」
兵士たちの視線がカナティエに集まる。
カナティエだけは鎧をしっかりと着込んでおり、槍と盾を手にして仁王立ちで前方を見据えていた。揺れる船上なのに姿勢が小揺るぎもしない。
彼女は前を見据えたまま、静かに告げる。
「スティルグ・ガソー殿を一騎討ちで討ち取ったのは私です。フィオレ殿下が直接御覧になっていますし、ジュナン・エンド王室紋章官が正式な報告書を陛下に提出しています」
慌てて声をひそめる兵士たち。
「おい、聞こえてるぞ」
「肝が据わってんな」
それから彼らはもう一度、カナティエをじっと見つめる。
「あの立ち姿、かなりできるな」
「ああ。そういやお前も見たか、あれだけ重い装備なのに乗船のときに舟が揺れなかったんだ」
「見た見た。軽装の俺たちより身軽そうに見えたな」
それから彼らは黙り込み、誰かがぽつりとつぶやく。
「まあ、命ぐらいは預けてみるか」
「おう」
十八艘の小舟は二百人足らずの兵士を乗せたまま、河の流れに導かれるようにして下流の対岸へと斜めに滑っていく。
対岸の村々は静まりかえっていて、敵兵が潜んでいる様子はない。だが伏兵がいないという保証はどこにもなかった。
サイダル側の川岸が近づくにつれて、兵士たちは言葉を発しなくなる。待ち伏せされて弓やマスケット銃で攻撃されれば、被害は免れない距離だからだ。
河原に舟が乗り上げると、兵士たちは警戒しながら舟を下りる。水音ひとつ立てないよう、慎重にだ。
真っ先に下りていたカナティエが槍を掲げ、無言でそれを前に突き出した。「前進せよ」の合図だ。
誰かがゴクリと生唾を呑む音が、やけに大きく響いた。
* *




