9.アイリスは鏡を覗く
カールリンネ領を治める女侯爵、アイリス=ガーデニア。
妹達と同じ飴色の髪は一つにまとめられ、化粧もしているようだ。
(使用人すら中に入れないと聞いたけど……身支度はご自分でなさったのか……)
屋敷の人間が喪に伏している中、彼女は黄色のドレスを身にまとっている。
そこに何かしらの強い意志を感じた。
ゆっくりとマリィの前に立ったカールリンネ侯爵は、そのまま、彼女を抱きしめた。
突然の出来事に、僕は声も出なかった。
(襲いかかったのかと思った……)
思わずそんな考えがよぎる程、僕にとってガーデニアの女当主は得体の知れない存在だった。
しかしこうして目の前にすると、やつれてこそいるものの、その姿からは気品と風格が感じられる。
薄暗い部屋の中であっても、アイリスは美しかった。
「愛しているわ、マリィ。とても大事な姉妹ですもの」
アイリスは、腕に込めた力をふっと緩め、そして首をゆるゆると振った。
「もう、全てわかっているのでしょう」
「お姉様……やはり、ライラお姉様は……」
マリィはその先を言い淀む。
しかし、アイリスは低い声で言い放った。
「ええそうよ」
(今のは……ライラ殺害を認めた……のか?)
僕は思わずアイリスの顔を注視する。
先程までの『当主』の顔から一点、どこか虚な、空っぽになってしまった表情で、アイリスはぶつぶつと呟いた。
「ああ、それにしても愚かなライラ。もし私に子がいれば、後継さえ生まれていれば、ライラも私に取って代わろうなどと、馬鹿な真似はしなかったでしょう。変に夢をみるから、あんな目に合うんです」
「お姉様……」
マリィが恐る恐ると言った様子で声をかけるが、彼女の言葉は喉の奥でかすれ、アイリスには届かない。
「昨日、あの子は私の部屋に来て言ったの。屋敷に呼んだ客人に、私の事を話したって。さる伝説の偉人のご令嬢に、侯爵は偽物なのだと伝えたって。だから噂が広まるのも時間の問題だって」
『さる伝説の偉人のご令嬢』とは、僕やティオーラ姉さんの事だろう。
昨日ライラが席を中座したのは、アイリスに会いに行くためだったのだ。
「私は偽者の汚名を着せられ、当主の座を追われる……あの子言ったのよ、私ではお母様のような当主になれないだろうって」
アイリスは、手をわなわなと震えさせた。
「カールリンネが豊かなのはお母様の功績だって。偽物の私では、遅かれ早かれカールリンネは衰退するってそう言ったのよ!」
いつのまにか僕を庇う様な位置にクローが立っている。
アイリスを警戒しているのだ。
ティオーラ姉さんも、後ろの扉を振り返り、何かあればすぐに部屋を出ていけるように距離を測っている。
「幼い頃から、私は当主になるための厳しい教育を受けてきた。その間、あなたたちは何をしてきたの? 私が努力し、我慢し、苦しんでいる間、何をしてきたというの?」
アイリスはよろよろと部屋の奥に進んで行く。
どうやら、大鏡の所へ行くようだ。
(ここからだと、どんな鏡なのかよく見えないな……)
「お姉様……ねえ、お待ちになって。アイリスお姉様――」
マリィはオロオロと姉の後を追う。
壊された調度品が、アイリスの足元でガチャガチャと音を立てる。
彼女は気にする事もなく、奥へ奥へと歩みを進める。
「お姉様……」
「ええ、わかっているわマリィ。あなたに言ってもしょうがないわよね」
アイリスは、深くため息をついた。
「私は愛していたの。心からベンジャミンを」
吐息とともに漏れ出るような声だった。
「決められた結婚ではあったけれど、彼を愛していたの。その彼を……あの子は、ライラは奪った! そして当主の座までも……そんなことは……そんなことは許されない……」
優柔不断で優しいベンジャミン。
策略家のライラに押し流されてしまったのだろうか。
そのせいでアイリスは部屋に閉じこもり、情緒不安定になったのだ。
「だから、私、全てを受け入れたふりをしたの。当主の座を明け渡す事にしたと伝えたわ。子ども頃、部屋をこっそり抜け出して遊んだみたいに、湖のほとりで会いましょうって言ったのよ。誰にも見つからない夜中に会おうって」
僕らも二人の後を追う。
散らかり、破壊された調度品を避けながら進もうとするけれど、部屋が薄暗いので何度かつまずきそうになる。
奥に見えるは、呪いの大鏡――。
幕のかかった鏡の前で、アイリスは立ち止まり、まるで発作を起こしたのように身体を揺らして笑い始めた。
「ねえ、お聞きになって。ライラにとって私は偽者。あの子にとっての本物は一人だけ。それはね、あなたのことよ」
マリィに話しかけているのかと思ったけれど、違う。
アイリスは、どうやら鏡に向かって話しかけているようだ。
よく見えるように、僕はそっと近づく。
ダンッとアイリスは鏡を叩いた。
「あなたはここから出られないのよ!」
彼女はそう言って、何度も大鏡を叩く。
「そうでしょう! 私はあなたに取って代わったの! もう私を苦しめない! あなたはそこから出られない! 当主にふさわしくないと私を叩くこともない。当主の地位を軽んじるなと私を叱ることもない。だって今は私があなたの椅子に座っているのですもの!」
叩かれた衝撃で、鏡にかかっている幕がずれ落ちていく。
スルスルと、金の額縁が現れ出る。
幕が外れ、その全てがあらわになる。
「そうでしょう! ねえ、お母様!」
皆が勘違いをしていたのだ。
当主の部屋にあった、金の縁の大鏡……いや、それは鏡などではなかった。
額縁の中にいたのは、その女性は——
アイリスのように青く聡明な眼差し。
ライラのように艶やかな飴色の髪。
マリィのように透き通るような白い肌。
ガーデニア家の当主に相応しい、気品に満ちた立ち姿——。
「……これは……肖像画?」
それは、前カールリンネ侯爵――アイリスたちの母親の肖像画だった。
(確か名前はアフェランドラ――)
鏡ではなかった。
アイリスは肖像画に向かって、怒鳴り、喚き、泣き叫んでいたのだ。
——もうここから出られませんよ。私が取って代わったのだから――
噂になっていたあの言葉は、間違いなくアイリスの言葉だった。
彼女は、越えることの出来ない母親を肖像画の中に閉じ込めたつもりだったのだろうか。
まるで鏡に映ったかのように、アイリスにそっくりの前当主の肖像画――。
ライラが、アイリスに取って代わろうと必死だったように。
アイリスも、母親に取って代わろうと必死だったのだろうか。
「アイリスお姉様」
マリィは自分の姉を後ろから抱きしめた。
「もう苦しまなくて良いのです。わたくしの事を愛してるとおっしゃってくださいました。ベンジャミンお義兄様の事だって、今もなお愛していらっしゃるのですよね。お姉様は、元々愛情深い方なのです。わたくしは知っております。ですからどうか、お願いです」
心を絞り出すように、マリィは姉にすがった。
「どうか、鏡の中のご自分も愛してください」
弱々しく、けれどしっかりと部屋に響く、そんな声だった。
アイリスは、肖像画を叩くのをやめた。
そしてうめくように座り込んだ。
「最後の最後に、私、あの子を説得しようとしたの。だから、湖のほとりに呼び出したの。昔は私達、あそこで仲良く遊んだじゃない? その時の事を思い出して欲しくて……本当は私達、姉妹仲良く侯爵家を盛り立てていけるんじゃないかって! ……でもねあの子、私が一生懸命話しているのに、こう言ったのよ」
アイリスは、片手で自分の髪の毛をグシャリと掴んだ。
「『なんでこんな所に?』ってね」
怒りを湧き立たせ、肩を振るわせるアイリスの姿は、どこか哀れで悲しかった。
「あの子、思い出の場所を忘れていたの。だからね、私思ったわ。幼い頃一緒に遊んだライラと、この女は別人なんだって。私の前にいる女は偽物なんだって。それで私、偽物の背中を突き飛ばしたの」
引きつるような泣き声が聞こえ始めた。
鏡に映った姿は、見る人によって姿を変える。
憎い敵。
親しい家族。
届かぬ理想。
マリィを見ると、青い瞳にためた涙を拭い、震える指先を姉に伸ばしている。
「お姉様。お義兄様と領地内の別荘に行かれるのはどうでしょうか。何にも囚われず愛しい人とゆっくり過ごすのです。そして、いつかご自身を愛せるようになってほしいのです」
「マリィ……ああ……」
頭を抱え込んだ姉を、マリィはそっと抱きしめた。
子どものように泣きじゃくるアイリスの背中を、彼女は優しく撫で続けた。
彼女達の母の肖像画は、そんな姉妹の様子をじっと見下ろしていた。




