標的は誰?・3
「なにがお前を変えた?」
バイロンはゆっくりと問いかけた。
(……兄上は、こんな風に笑う方だったんだな。俺は、ずっと見誤っていたのかもしれない)
誰にでも、個人を形作る芯のようなものがある。
兄はこの国を愛していた。それこそ小さな頃から。王太子として国の未来を良くしようと努力していた。
アイザックよりもコンラッドよりも、その点に関して誰よりも国王に向いていた存在だったのだ。
(だからきっと、父上も兄上に期待していたんだ)
「……好きな人ができたんです」
「いきなりそこか?」
若干期待外れの返答をしてしまったようだ。ずっこけた様子の兄など初めて見る。
「その人は誰とでも仲良くなって。たくさんできた友人のひとりでも悲しむと、辛そうなんです」
ザックはぽつりぽつりと続ける。
声に出して話すことで、自分の心の内もまとまっていく気がした。
「俺は彼女に笑っていてほしくて。だからこの国を平和で病むことのない場所にしたい。平民も幸せに暮らせるような、そんな国に」
「女のためか」
「……いけませんか」
吐き捨てるように笑ったバイロンだったが、その表情は優しかった。
「ベストではないが、悪くはない。……少なくとも以前のお前よりはな」
そして、長兄はおもむろに布団に体を沈める。
「兄上、疲れさせてしまいましたか?」
「そうだな。俺は寝る。……だから、これから話すことは寝言だ」
秘密を打ち明けよう、と暗に言っているのだ。ザックは信じられない思いで、目の前の兄を見つめる。
「あにう……」
「先に言っておくが、父上はお前を愛していないわけじゃない。守るために、冷たくせざるを得なかっただけだ」
「え?」
「権力に固執した男は、まず妹を王太子の婚約者にした。やがて国王夫妻が死に、若くして王となった男に早く結婚をと勧め、縁戚という立場を手に入れたのだ。若い国王に、頼れるのは妻の親族しかいなかった。幸い、妻は男児を生むことで自分の務めを果たしてくれたし、王は政務に情熱を注ぐことで国を守ろうとしていた。……妻の兄の、掌の上でな」
それはまさに今の国王夫妻の関係性だ。
だとすれば、権力に固執した男とはアンスバッハ侯爵ということになる。
「だが、王が政務を理解し、自分の意思を押し出していこうとすると、義理の兄はやんわりとそれを退ける。相談したことは、いつの間にか議会に手をまわされ、貴族議員の総意として却下された。国王は、監視に近い男との関係に疲れていた。当然、男の妹である妻の前でも気は抜けない。それで、心安らげる別の女を見つけたのだ」
それがカイラ妃。国王の身の回りの世話をしていた侍女。
「その彼女が妊娠したことで、王は第二妃にと望んだ。それ以降、第二妃は、流産を狙ったかのようなおかしな事件に何度も巻き込まれたそうだよ。それこそ、毒が仕込まれたこともあっただろう」
様々な嫌がらせをされた、とザックは聞いている。
それゆえに、カイラはイートン伯爵領へ送られたのだ、と。
「だが王にとって、男は恩人でもある。父王が急逝し、なにもかも手探りなまま王となってしまった彼にとっては、国政が落ち着くまでの数年間、男がいなければとてもやってこられなかった。第一妃との間にあったのは、愛よりは義務だったかもしれない。だがたしかに、その当時の王にはなくてはならないものだった。第二妃に渡せるのは愛だけ。ならば、国は第一妃との子に渡そうと、……そう、王は思っていたんだよ」
三人いる息子の中で、国を継ぐべきはお前だ、と。
周囲にも分かりやすく、王はバイロンを優遇してきた。
「王は心のよりどころを求めて、第二妃を傍に置いた。けれど、第二妃は第一妃からの嫌がらせに心を病んだ。それに満足すると第一妃は第二妃の息子を標的にし始めた。それをかばうことは、……王にはできなかったんだ」
おそらく、と彼は目をつぶったまま続ける。
「王にとっては、第一王子を正しく国王へ導きさえすれば、まとまる話だと思っていただろう。第二妃には愛を。第一妃には国を継ぐ息子を。独りよがりな考えだったかもしれないが、彼はそうやって渡すものを分配したつもりだったのだ。しかし、第一王子は病魔に倒れる。核にしていたものが根元から崩れ去り、王はすっかり国政への意欲を失ってしまったのさ」
ザックは、息を飲む。
兄が、父のことをこんなに理解しているのが驚きだった。
「第一王子が消えれば、人々が注目するのは第二王子だ。能力もある。責任感のない第三王子より、ずっといいと俺も思っている。だが、それは、権力を求める男にとっては最悪のシナリオだ。彼は毒を入手する伝手を持っているし、全てを円滑に進めるための忍耐強さも狡猾さもある。……気を付けるんだな。彼が欲しているのは傀儡の王だ。それに該当しないものはいずれ消される。例外はない。……まして自分に牙をむこうとするものなら今すぐにでもね」
「兄上」
「……本当に眠くなった。もういけ」
ザックは無言のまま会釈し、彼の部屋を退出した。
兄の話は、予想していなかったものだ。
聞きたいこと以上の話が聞けて、身震いがする。
つまり、アンスバッハ侯爵は、父上を傀儡の王に仕立てるつもりで妹を嫁がせたのか?
だが、彼は仕事を覚えればすぐに頭角をあらわした。
侯爵の管理下から逃れたいとも考え、周囲の反対を押し切ってまで、第二妃を娶った。
だが、実際、彼は侯爵の手の中からは出られなかったのだ。守り切れず、カイラは心を病み、イートン伯爵領へと逃れる。その後呼び戻してからも、息子もカイラも守ることさえできずに。
“守るために……”
兄の声が蘇る。
そうか。父は守るために、敢えて自分に冷たく接していたのか。
カイラの子である自分に目をかければ、第一妃の嫉妬が深まるのは必須だ。
愛はやれないと妻に思うのと同時に、苦しいときに助けられた恩は忘れていない彼は、これ以上第一妃を刺激しないために、息子への愛は封印した。
「……甘いな。王には向かないんじゃないか」
乾いた笑いが転び出る。どれだけの不器用さだ。
こうして話をしてみて、兄への印象はずいぶん変わった。
ずっとザックに冷たかったのは、ザックに国を思う心が感じられなかったからなのかもしれない。
彼という人の核は、愛国心にあるのだろう。その点で、バイロンと父上は一致している。
「やはり兄上が国王になるべきなんだ」
ザックは初めて心の底から、死をつかさどる神に、兄を連れていくなと祈った。




