潜入!オルコット邸・4
廊下には誰もいなかった。が、子爵家には使用人もそれなりにいるので、うっかり歩き回っていると見つかってしまう。
(まずはクリスさんのにおい。……それからいくつかあるにおいを覚えよう)
廊下の中央に残るのが、おそらくは主人である子爵夫妻やクリスの香りだ。使用人は彼らが通るたびに脇に身を寄せるので、においが壁についていることが多い。
こうして嗅いでみると、クリスは家の中では元気に動き回っていそうだ。そこかしこに彼女の残り香を見つけ、ロザリーは思わず笑ってしまう。
「今日は王子様が来てるんですって」
使用人のものらしい声が聞こえて、ロザリーは思わず壁際により、身を隠した。
「でも失礼になるから私たちは出るなって、奥様が。こんな機会二度とないのに。見るだけならいいと思わない?」
「若奥様はお相手してるんでしょ? 良いなー」
どうやら、メイドがふたり、暇を持て余しているらしい。
普段なら掃除なり洗濯なりをしているのだろうけれど、うるさくなるから止められているのだろう。
別の方向に逃げようかとも思ったがカイラの助言を思い出し、ロザリーはしばらく彼女たちの話に耳を傾けた。
メイドの噂話は留まるところを知らない。
「ね、あの話本当かな。若奥様をウィストン伯爵に嫁がせるって話」
「本当みたいよ。旦那様、凄い金額の支度金を準備しているそうだもん。なんでもね。これはクリス様を家に留め置くための策略みたいよ。ウィストン伯爵には前妻との間に男児が二人いるらしくて、次男の方をクリス様の夫にして、子爵家を継がせるつもりみたい。女のクリス様に継承権はないけれど、義理とはいえ息子になる伯爵家の子を養子に取ればできるんですって」
「義理って言ったって、オードリー様と子爵家に血のつながりはないじゃないの」
「そこまでしてクリス様を手放したくないんでしょうよ」
なるほど。たしかに使用人は情報の宝庫だ。
「そういえば、そのクリス様にもおやつをもっていかないと。今日のは特別品らしいよ。第二王子に出すとっておきだって」
ふたりの使用人に動きがあった。
ロザリーは彼女らの動きに合わせて、そろりそろりと死角になるように微調整しながら隠れる。
まだ何事か話しながら菓子皿を持っていく使用人の行く方向を、息を殺して見つめた。
使用人たちは階段を上っていく。二階の向かって左側。三番目の部屋。
追いかけようと階段を数歩上ったところで、クリスの声が聞こえた。
「手を洗ってくるね」
足音とともに、クリスの香りが近づいてくる。
ロザリーの心臓がどきどきしてきた。
だがクリスの目的地は二階にあるらしく、姿が見えるところまでは出てこない。
ロザリーは思わず階段の手すりを腕でたたいた。真鍮製のそれは、ゴーンと鐘をついたときのような音を響かせる。
祈るような気持ちで二階を見つめていると、ひょこひょこと小さな足音が近づいてくる。
「だあれ?」
「……ク……」
クリスと、目があった。
彼女は自分が見ているものが信じられないというように瞬きをしていたが、ロザリーが手を振るとぱあっと顔を晴れ渡らせ、階段を駆け下りてきた。
「ロザ……」
ロザリーは彼女を迎えるべく、手を伸ばした。……が、続く声に、思わず手を戻した。
「クリス? どうしたの?」
姿を見せたのはオルコット夫人だ。彼女はロザリーを見つけると、少し声を尖らせる。
「あら? お客さまね。ダメよクリス。お邪魔しちゃ……」
クリスは体をびくつかせ、階段の途中で足を止めて、まるで助けを求めるようにロザリーを見た。
クリスを抱きしめてあげたい。これまでよく頑張っていたねって言ってあげたい。
だけど、ここでクリスとロザリーが知り合いだと知られれば、もろもろのつながりがバレ、今後オードリーを救い出すのに不都合なのは想像がついた。
すがるような瞳のクリスに、心の中でごめんなさいと謝り、ロザリーは泣く泣く嘘をついた。
「可愛らしいお嬢さんですね。お孫さんですか?」
クリスの動きが止まった。先ほどとは違って、傷ついた色を乗せた驚愕の表情でロザリーを見る。
「初めまして。私はロザリンドといいます。クリスさん……でよろしいですか?」
クリスは返事をしない。傷ついたように頬を膨らませている。
こんな小さい子に、事情があって知らない人のふりをしていることを説明もなしに理解してもらえるとは思えない。
クリスを傷つけてしまったことがロザリーには痛かった。
返事をしないクリスに、オルコット夫人は慌てて近寄ってきて、「ほら、クリス。ご挨拶しなさい」と急き立てる。そして、ロザリーの顔を見ると、思い出したように頬に手を当てた。
「ロザリンド……さん? ……あら、あなたどこかで会ったことあるわね。……ああそうだ。夜会でイートン伯爵がお連れしていた方よね」
「はい。ご無沙汰しております」
「ケネス様はアイザック様の補佐官に戻ったそうね。それでついていらしたの?」
「それもありますが。私、今ディラン教授の助手をしておりまして」
正しい名目の方を説明すると、婦人は少しばかり不快感を示した。
「まあ、社交界デビューしたあなたがお仕事を? 職業婦人などそんなにいいものじゃありませんわ。せっかくイートン伯爵といういい後ろ盾を得たんですから、仕事よりも嫁入り先を捜したほうが良くてよ」
「はあ」
どうやら子爵夫人は結構な前時代的な考えの持ち主らしい。
ちらりとクリスを見ると、不満そうに頬を膨らませている。
「女が仕事をして、いいことなど何もありませんわ。生意気になるばかりで」
子爵夫人がそこまで言ったとき、「やめて」とクリスが大声を出した。
「ママのこと悪く言わないで!」
「これ、クリス。はしたない。黙りなさい」
「いや! ママはすごいのに。何でも知ってるのに。何にも知らないおばあ様の方がどうして偉そうなの?」
「クリス! やめなさい。……子供が失礼しましたわ。ところで、ロザリンド様はどうしてここに」
「あ、……すみません、小用をするのに迷ってしまって」
「あら、そうでしたのね。使用人に案内させますわ」
夫人がポケットから取り出したベルを鳴らすと、どこからともなくメイドが現れる。
「こちらのお嬢さんをお手洗いにご案内して」
「はい。こちらでございます」
「さあ、行くわよクリス。お前は誰に似たのか口が過ぎます。あっちでじっくりお説教よ」
「ヤダっ」
いやいやと首を振るが、クリスは半ば無理やり連れていかれる。
止めて、守ってあげたい。
だけど、今、クリスとロザリーのつながりがバレたら、オードリーを救い出す計画にも破綻が生じてくる。
ロザリーは迷って……結局声をかけるのを止めた。鉛でも飲み込んだかのようにお腹が重い。
「こちらですよ」
侍女に言われ、顔をあげたものの後ろ髪を引かれる思いは消えない。
小用を終え、応接室に向かってからも、歓談するザックと子爵の話は全然頭に入ってこなかった。




